ディアナ・アグロン論争。女の子はバカで良いという話
作詞家でAKB48をプロデュースした秋元康がHKT48向けに書いた曲「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の歌詞が炎上している。
〈難しいことは何も考えない 頭からっぽでいい 二足歩行が楽だし ふわり軽く風船みたいに生きたいんだ〉
〈女の子は可愛くなきゃね 学生時代はおバカでいい〉
〈テストの点以上瞳の大きさが気になる どんなに勉強できても愛されなきゃ意味がない スカートをひらひらとさせてグリーのように〉
〈世の中のジョーシキ 何も知らなくてもメイク上手ならいい ニュースなんか興味ないし たいていのこと誰かに助けてもらえばいい〉
〈女の子は恋が仕事よ ママになるまで子供でいい それよりも大事なことは そう スベスベのお肌を保つことでしょう?〉
〈人は見た目が肝心 だってだって 内面は見えない 可愛いは正義よ
出典:HKT新曲の歌詞が女性蔑視だと大炎上…「女の子はバカでいい」と書く秋元康のグロテスクな思想は昔から|LITERA/リテラ
女性には学問は必要ないのかという意見を出すブログもある。
秋元康さん作詞のHKT48の楽曲が女性蔑視だと炎上中だが、リケジョを増やすために考えるべきこと。(千田有紀) - 個人 - Yahoo!ニュース
千田は、
おじさん(失礼)に「私たちは性的に扱われることを期待しているんです」と言わされるというその構図、若さだけが自分たちの価値だと言わされること
という歌詞の視点に傷つき、そのロールモデルの押し付けに異義を唱えている。
女の子はアインシュタインなんか知らなくていい?| 恵泉女学園大学
また、大日向は、「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の替え歌を作り発表した。
まあ、確かにこれらのブログの言うとおりだなという感想を持つ一方、ふとした疑問が湧いた。
この歌詞では、女子について言及されている。所で男子はどこに行ったのか?秋元は、男子はどのようなロールモデルが良いと言っているのか?
一方その頃、男子は透明人間になっていた
女子が、「ディアナ・アグロン」の役割を押し付けられると指摘する先生たちが何故が見逃している歌がある。同じ秋元康が乃木坂46向けに書いた「君の名は希望」という歌だ(オリコンで一位も取った)。
どこにも居場所が無い「僕」が、淡い恋心を抱く歌だ。
透明人間 そう呼ばれてた 僕の存在 気づいてくれたんだ
この歌の僕は結構悲惨だ。この「世界から拒否」され「孤独」な僕は「わざと遠くから彼女を眺めている」。歌の中で彼の恋が実ったという記述はない。現実に絶望しきった僕にとって、「僕にも人に恋心を抱ける能力があったこと」自体が、既に「希望」なのだ。 透明人間は、人から見られないので自由で悪いことし放題だというイメージがあるかもしれないが、この場合の透明人間とは誰からも興味を持たれない、見えていてもあたかも見えないというネガティブな意味だ。
本来であれば学校の先生が気づくべきはむしろこちらの絶望だと思うが、まあ、それは置いておいて、若い女子に押し付けられるロールモデルよりも、若い男子が置かれる状況は更に過酷だ。
ゴミ、あるいは透明人間
「アインシュタインよりディアナ・アグロン」という歌が、女子に対してロールモデルとして「可愛くてバカで良い」というロールモデルを押し付けている。それに比べて男子は何もロールモデルを押し付けられず気楽で良いなーと感じるかも知れない。そう確かに、「君の名は希望」の中で、僕は何のロールモデルも押し付けられていない。ただ「透明人間」あるいは言い換えるならば「ゴミ」としてその場に居るだけだ。これは、単純に「バカでも可愛ければ良い」というロールモデルを押し付けられるよりも更に過酷だ。僕の存在は抹消され、遠くから人の営みを見ることくらいしか出来ない生霊の様な存在だ。
千田は、女子は「若さだけが自分たちの価値」だと思われうことに、異義を唱えていたが、彼女が見落としているのは、若い女子は「若さが価値」だが、若い男子は「無価値」だという点だ。若い女子より、若い男子のほうが更に価値が「低い」のだ。ジェンダーを考える人達は何故かこの視点を欠きがちだ。
性的にまなざされて良いなーという感覚
インターネットの世界だと、女性を性的な眼で見ることを、眼差すというそうだ。女性が中学校とか高校で、男性(大体中年のおじさん)からジロジロ見られて、「値踏み」をされているようで嫌だったと書いていることがある。男子はその様な苦労は知らないでしょうと言う。しかし、男子は男子で違う苦労を背負い込んでいる。誰からも眼差されない。そもそも人間として、その場に居ると認識されない。あたかも、透明人間とかゴミとして扱われる世界だ。 彼らはこう考える。「(性的なまなざしでも、少なくとも人間として扱われて)いいな~」なぜなら、僕らは、ゴミとか透明人間みたいなもので、「人間」ですら無いから。
若い男子の困難は誰も取り扱わない
「アインシュタインよりディアナ・アグロン」の論争を見た時に最初に思ったのは、大して売れていないこの曲の歌詞には異義を唱えるのに、「君の名は希望」に興味を持たないのは何故だろうという感想だった。そして「君の名は希望」の歌詞と相まって、やはりwebの様な場所でも透明人間の様に存在を無視されていて、歌詞の通り徹頭徹尾透明人間だなと思った。
基本的に若い男子の困難は取り上げられない。特に彼らが若い内(貧乏な内)は基本的に無価値な存在として扱われるということに着目した人はほぼ居ない。
例外は橋本治で彼は、「貧乏は正しい! 」という本を書いていて、そこに若い男子の困難について書いている(うろ覚え)。さすがは橋本治だと感心した記憶がある。
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透明人間と呼んだのは誰だったのか?
「君の名は希望」で、僕は「透明人間 そう呼ばれてた」と一人ゴチた。果たして、彼を透明人間と呼んでいたのは誰だったのか?秋元康は、「女の子はバカで可愛ければ良い」という歌詞を書いた時、それは文字通りそうであれば良いとか、政治家のおじさんが「女の子はねー、バカで愛嬌があればいいんだよー、ガハハ」という意味では言っていないような気がする。もう少し心の深いところでのしこりのようなものを感じる。
その他)透明人間は大体、男性
この歌詞を調べていた時に、透明人間に言及した歌について調べた。調べていて気づいたが、透明人間になるのだ大体男性なのだ。誰が透明人間に関する歌を歌っており、自分自身をどのように言及しているか見てみよう。
- 東京事変「「透明人間」 (僕は透明人間さ)
- B',z 透明人間 (だれかぼくの名前を呼んで)
- Perfume – 透明人間(きっと僕はここにいるから)
- 福山雅治 - 透明人間(忘れてくれ惨めな俺)<- 福山でやっと一人称が俺になる
- ピンクレディー 透明人間(私透明人間なのです)。ピンクレディーの時代だと透明人間の一人称は私で、性別は不明だ。
ピンクレディーの時代は、透明人間になることが愉快であったが、最近でも自分自身の居場所のなさや存在感の無さを透明人間と形容している。そしてそれは男性であることは多い。