2016年4月31日にゆきたいのですがどこにゆけばよいのですか、と交差点で男が叫んでいる。彼はブルーのたす
きに「はてな」の文字をぶら下げてはいたものの、ティッシュなどは何一つ所持していない。つまり彼はよくいる
ティッシュ配りでもなく、宗教の勧誘でもなかった。渋谷の雑踏を通り過ぎる人々が描くコラージュの中を右翼や
選挙運動のようにただ叫び続けている。彼を見たガラの悪い若者は男へと罵声を浴びせかけ、サラリーマンは顔を
背ける仕草でひとことも発さず避けていった。その親を待つひなのような声は誰にも届くことがない。だから数時
間もすれば彼は首をうなだれて、すぐそばの空を見上げるモヤイ像とは対照的な方向を見つめるしかなくなった。
彼の目には踏みにじられた煙草がぼんやりとうつり、涙は乾いた埃の中でアスファルトのシミとなって蒸発してゆ
く。そのうちシミはアスファルトを覆い尽くすように増え、無味乾燥とした灰色の画用紙にも似た色味を紺色へと
変化させてゆく。ふと彼が空を見上げると涙は天からも降り始めていた。彼は仕方なくモヤイ像のそばを離れあて
どもなく歩き出し、やむを得ずビルの谷間にある廃バスを利用した店の前で足を止めることになった。その店の入
り口には今時LEDでもないオレンジ色の光があふれている。男は吸い寄せられるようにバスへと近づいてゆき、恐
る恐る看板を見上げた。看板には旅行代理店の文字がかすんでいて、店名自体は判然としない。
壊れかけのきしむ扉を開けて席に着くと、店のバイト少女が近づいてくる。それから手に持った液体を指すと男に
向かって「この液体があれば4月31日にゆけるでしょう」、と静かに語った。店内ではその奇妙なやりとりを不思
議がる客はいない。皆それぞれメニュー目配せしたり、耳の悪そうなウェイターに注文を繰り返している。旅行代
理店という名前のお店なのかと男は考えたが、それを確かめるずべはないようだった。男は華奢な手のひらから手
渡された液体を飲み込もうとしたが、あまりの刺激臭を感じて飲み込むことができない。ついに断念しかけたとこ
ろで少女バイトはその程度の量も飲めないのですか、と嘲笑した。男は少女の見下した態度に腹が立ってしまい、
手渡された臭いのする液体を彼女へとぶちまけてしまった。するとたちまち少女は消えてゆき、店内の情景は円弧
を描くように歪むと地下道のヘドロみたくこぼれ始め、やがて見たこともない駐車場が姿を現した。そこには数多
くの警官がひしめいており、テレビで見慣れた黄色いテープも見える。男の右手には黒く焼け焦げたしまったバス
が目に映り、視線を落とした腕には手錠がはめられていた。何が起こったか理解できないまま、男は挙動不審に辺
りを見回したものの、手錠をはめた警官から毛布をかぶせられそのまま連行されてしまった。
翌日の1980年8月20の新聞には『新宿西口で放火魔』という大見出しが踊り、男は数日間勾留されることになっ
た。彼は留置所で「はてな」のことを警官に必死に弁明したものの、警官は何も知らない様子で犯行動機について
詰め寄るのみだった。