判断の一部に釈然としない点もある。だが「わいせつ」の範囲にしばりをかけ、表現の自由や芸術活動に一定の理解を示した判決として評価したい。

 わいせつ物陳列などの罪で起訴されたアーティスト「ろくでなし子」被告に、東京地裁は一部無罪の判決を言い渡した。

 罪に問われた一つは、自分の性器をかたどり飾りつけした作品をアダルト店に置いた行為だった。判決は「ポップアートの一種」ととらえ、「女性器に対する否定的なイメージをちゃかそうという制作意図が読みとれる」とわいせつ性を否定した。

 性をめぐる社会の偏見や差別に異議を申し立ててきた被告の主張に、裁判所が正面からこたえたといえる。

 被告の活動に眉をひそめる人もいるだろう。しかしそのことと、刑罰という制裁を科すこととは次元の異なる話だ。

 わいせつか否かのように、人や時代によって様々な受けとめがあり、意見を交わすことで考えが深まったり、新しい視点や自由な発想が生まれたりする問題には、権力はつとめて抑制的に向き合うことが求められる。

 民主社会を形づくる最も大切な人権の一つとして、表現の自由を憲法が保障している意義を忘れてはならない。

 むろん自由の下、すべてが許されるわけではない。「見たくない大人」や「見せたくない子ども」への目配りは欠かせないし、性をモノ扱いし、人格・尊厳を傷つける行いには何らかの規制があってしかるべきだ。

 そんな事情がない限り、表現活動を幅広く認めることが社会を豊かで懐深いものにする。

 こうした考えに立つとき、地裁が別の起訴内容で被告を有罪としたのは納得できない。

 被告を支持して制作費を援助した数人へのお礼として、3Dプリンターを使うと女性器の形になる電子データの保存先を伝えるなどしたことが、わいせつ記録の頒布と判断された。

 判決は「性生活の秩序や健全な性風俗が害される危険性が高い」というが、ネット上に過激な映像があふれるいま、どれほど説得力があるだろうか。

 判決をうけ改めて浮かぶのは捜査への重大な疑念だ。

 警察は2年前の夏、電子記録頒布の疑いで被告を逮捕した。だが勾留は認められず、5カ月後に今度は陳列容疑で身柄を押さえ、起訴に持ち込んだ。

 ねらい撃ちというほかない強引な摘発で、警察をチェックすべき検察もまた、その使命を果たさなかった。経緯を検証し、ともに姿勢を正す必要がある。