映画を知らない、田舎の子だったんです
瀬川:カンヌ国際映画祭の前のお忙しい時期に、来ていただいてありがとうございます。河瀨さんはカンヌをはじめ、海外でもたいへん活躍されていますけど、今年も海外での活動が多いんですか?
河瀨:そうですね。これから少し続きますね。5月17日からカンヌ国際映画祭で、6月はニューヨーク近代美術館(MoMA)で回顧展、7月にはキューバ、メキシコ。それからは、秋までにベニスに行くことになっています。
瀬川:キューバなどは、映画祭ということではなくて?
河瀨:キューバには国際映画学校があって、そこの講師で行きます。私が映画をどう撮っているかとか、自分の経験を通して、映画を撮るときに大事なことは何かとか、そういったことが授業のテーマです。私は、足もとを掘り下げて自分にしかできないものをつくることができれば、必ず世界が評価してくれると思っているので、もっと可能性が広がるというこれからの若手に、「外ばかり見るのではなくって、自らの足もとを掘り下げてください」っていうようなことを言いたいと思っています。
キューバは、そうした映画を学ぶ学生、“新しい人たち”との出会い、になります。今年のカンヌ国際映画祭も、ショートフィルムの短編部門と、学生を対象にしたシネフォンダシヨンの二つの部門の審査委員長として行くんですけど、それも新しい人たちと出会う、ということなんですよね。授業や審査のときに話す内容は違いますけど、根本は同じ。そうした新しい人たちとの出会いを、楽しみにしています。
瀬川:河瀨さんご自身は、どのようにして映画の世界に入られたんでしょうか。
河瀨:私はまず、映画の専門学校に行ったんです。きっかけは、生涯続けられる仕事に就きたい、ということから。仕事って、お金をもうけるためのものだったり、生きがいだったりとか、いろいろあると思うんですけども、私は定年があってリタイアしなきゃいけないのはちょっとさみしいと思って。それで、表現っていう世界は、いつまでも現役でいられるんじゃないかって考えたんですね。魂というか、自分の欲求というか、すごく情熱を注げるものだから。例えば優れた芸術家の方は、高齢になっても現役でいらっしゃるし、そういうお仕事に就きたいなと。でもそれは、若い時代はやっぱり夢物語で、決まったお給料もないし、どうなっていくかは分からないから、家族たちは反対するしで。
でも、漠然とそうした思いがあって、自分なりにいろいろ調べて。それは小説や音楽でもよかったのかもしれないんですけど、私の場合は映画。それがなぜかというあたりは、実は自分でもなかなか説明できなくて。テレビは見ていたけど、映画はそんなに見に行っていなかったし、こんな監督が好きとか、こんな映画が好きって、一切なかったんですね。
瀬川:えっ、一切なかったんですか?
河瀨:そうなんです。しかも奈良市っていうのは、その当時はあったんですけど、今は映画館も1つもなくて、全国の県庁所在地でも唯一、映画館のない町だと聞いています。そんなところにいて、なぜ映画だったのかと聞かれても説明できないんです。でも、なぜか「時間を残したい」っていう感覚はあったんです。私たちの周りには、一刻一刻過ぎてしまう時間があって、それをどうしても巻き戻すことはできなくて、タイムマシンがあればいいのですが現実にはない。でも映画であれば、永遠にではなくても100年前とか、そういう映像がまた見られるわけじゃないですか。往年のスターだったり、監督だったり、その人たちの思いは残る。それはもう私にとって、タイムマシンと同じだったんですね。つまり、時間を切り取って、宝箱に入れるみたいな、その感じにすごく惹かれました。
そうして大阪の専門学校で選んだ学科が映像学科で、そのまま映画を専攻していったんです。奈良の田舎で都会の感覚も知らないままに育ってきて、18歳で大阪に行って、ビルってこんなに高いんだって、見上げてカルチャーショックを受けるような、そんな子だったんですよね。入学後は、その学校の課題を一生懸命やっていました。