(cache) 自由法曹団通信:1076号        

<<目次へ 団通信1076号(12月1日)



坂 勇一郎 一一・二二日弁連「敗訴者負担」反対集会のご報告
中野 直樹 仲裁検討会に団体署名の大集中を
杉井 静子
村田 智子
あなたのメールを送ってください〜教育基本法の改正について
川口  創 団総会に初めて参加して
佐々木かおり 新人の感想
庄司 捷彦 総会での三つの出会い
黒澤 計男 新旧役員挨拶その4 退任+退所
大川原 栄 退任のご挨拶ー事務局次長を経験して分かったこと(団の神髄)ー
伊藤 和子 団で過ごした二年間を振り返ると・・・
坂 勇一郎 事務局次長就任のご挨拶
杉島 幸生 次長就任の挨拶
虻川 高範 国労昇進差別事件に救済命令
松村 文夫 脱ダム、その後
萩尾 健太 大学管理・法曹変質法案を阻止しよう(下)
渡辺  脩 植木敬夫さんを偲ぶ会に寄せて



一一・二二日弁連
「敗訴者負担」反対集会のご報告


東京支部  坂  勇 一 郎

 一一月二二日、日弁連主催の「弁護士報酬の敗訴者負担に反対する集い」が開催された。この集会は一一月二八日開催予定の司法アクセス検討会をにらんで企画された重要な集会であったが、当日平和大会をはじめとして都内では集会の企画が目白押しで、会場であるクレオを埋める参加が得られるか、開場直前まで心配された。

 団では、一一月上旬の司法民主化推進本部にて集会への取り組みを決め、都内の法律事務所への集会への参加と各法律事務所のつながりのある民主団体への働きかけを呼びかけた。
 集会への参加状況は直前までわからなかったが、当日は八〇〇余名の参加を得て、成功のうちに集会を開催することができた。

 集会のなかでは裁判当事者等により、この制度による悪影響を危惧する現場の声が相次いだ。さまざまな妨害の中で多くの人びとから提訴の決断を得ることに苦労をしたハンセン訴訟の当事者、看護等の負担を抱えつつ裁判を行うことの困難を訴えた医療過誤訴訟の原告、十分な知識を有しない借り主の泣き寝入りの増大を危惧する借地借家人組合、行政に働きかけ政治に働きかけても解決への動きが得られず他に訴える場所がなくて提訴に踏み切った中国残留孤児訴訟の当事者、判決後控訴を検討する際にこの制度があったならば必ず控訴の障害の一つとなるであろうと訴える東京大気訴訟の原告、銀行側の弁護士報酬の負担が恫喝の材料とされるに違いないと訴える変額保険被害者等々…。紛争や裁判の具体的局面において、この「敗訴者負担制度」がどのようにして人びとの提訴や控訴を抑制し、また、泣き寝入りを強いることになっていくのか、それぞれの事件や裁判の実態を通して、具体的にかつ真剣に語られた。

 集会ではまた、日弁連の欧州調査の結果が報告された。欧州では敗訴者負担制度が導入されているが、制度導入により著しい裁判所の利用抑制の結果が生じたこと、各国それぞれにその弊害を補完する制度を有していること、また、各国では行政訴訟等の訴訟類型において「片面的敗訴者負担制度」が導入されていること、が報告された。

 集会は、「行列のできる法律相談所」の弁護士三名の参加を得て開催された。「行列のできる法律相談所」は、敗訴者負担制度問題という比較的わかりにくいテーマを、一般市民にとって身近なものに引きつけることに、大いに貢献したと思う。最後の「行列のできる法律相談所」弁護士によるミニシンポジウムで、三名の弁護士がさまざまな観点からこの制度の問題点を指摘していたのは、印象的であった。集会は裁判の勝ち負けの予測の困難性が比較的強調されていた印象があったが、今後は「紛争解決の場」として裁判所が必要とされていること(時として「切望されていること」)をもっと意識的に強調することが必要ではないかと感じた。

 いずれにせよ、一一・二二の日弁連集会は、「敗訴者負担制度」反対の声を広げ、大いに励ますものとなった。この成果ののちの一一月二八日のアクセス検討会の状況については、おってご報告したい。




仲裁検討会に団体署名の大集中を


事務局長  中 野 直 樹

一 この間の仲裁検討会の動き

 ホームページにアップされた議事録等によると次のとおりである。
 一〇月二二日第九回検討会で、中間とりまとめに対する意見募集の結果をふまえて、事務局で討議対象の絞り込みを行った。そして検討事項案その18(消費者に関する特則について)というペーパーが配布された。ここでは、「消費者と事業者との間の仲裁について、どのように考えるか」について、甲案(特則を設けない)、乙案(将来の争いに関する仲裁契約は無効)、丙案(将来の争いに関する仲裁契約を締結したときには、消費者は自ら仲裁を申し出るか、仲裁廷の面前で陳述するまでは、いつまでも解除できる)の三つに整理され、それぞれの要件・効果について比較がなされている。

 一一月一一日、顧問会議に報告された事務局作成「仲裁法制の整備について(骨子)」では、末尾に「新仲裁法の適用に関し、消費者と事業者との間の仲裁及び労働者と使用者との間の仲裁について、何らかの特則を設けるべきか、設けるとした場合にはどのようなものが考えられるか等について、現在検討がなされている」との報告となった。労働契約については九月上旬の緊急の意見集中行動があったがゆえに、かろうじて土俵に残った。自由法曹団は、九月九日に意見書を仲裁検討会に提出すると同時に労働検討会の委員への配布も要請した。その後労働検討会でも新仲裁法が話題となったことは先の団通信で、城塚団員が解説されているとおりである。

 一一月七日の仲裁検討会(第一〇回・議事概要)で、それまでの議事録非顕名から顕名に変更することになった。また委員からの「労働紛争を国家の紛争解決システムのどこに位置づけるかは、労働検討会の検討事項ではないのか」との質問に対し、事務局は「改革審意見書においては労働検討会の検討事項にしていない。仲裁検討会の対象」と回答している。

二 今の局面

 七日の検討会に、事務局から、検討会事項案21(個別労働紛争に関する仲裁の特則について)として「個別労働紛争に関する仲裁について、労働契約の特殊性に配慮して、何らかの規定を設けるべきか」との論点提示がなされた。このペーパーの(注)に、「団体的労使関係に関する仲裁については、労働者と使用者との力の格差が著しい個別的労働関係と異なり、特段の問題は生じないと考えられる」とのコメントがある。また独、仏、英国の例が紹介されている。

 ドイツでは、仲裁手続きが認められるのは、協約当事者が舞台芸術家、映画製作者、アーティスト、船員である雇用関係から発生する問題で、雇用関係が労働協約により定められ、労働協約に仲裁条項がある場合に限られる。フランスでは労働問題について、将来の紛争に関する仲裁合意は一般的に許されていないと考えられている。イギリスでは、原則としてACAS(行政機関である助言・斡旋・仲裁局)が選任する仲裁者が主宰し、ACASの定める規則に従って行われる仲裁に限り、許される。

 この資料をめぐって、出された意見は次のとおりである。
○紹介されている立法例は欧州のみだが、アメリカ等個別的労働仲裁を活用している国も視野に入れるべき。
○判例は、契約書に仲裁条項があることをもって当然に仲裁合意が成立したと判断しているわけではない。レジュメの説明は、就業規則や労働契約書に仲裁条項が挿入されれば仲裁合意が成立するかのように読めるが、それでは議論の前提を誤る。
○個別的労働関係紛争の解決の促進に関する法律ができ、あっせんが年何千件も利用されている。将来的に仲裁も扱うことも十分考えられる。
○使用者に説明義務を課し、仲裁合意の締結を条件として雇用契約を結ぶのを禁止すれば足りる。
○実態を知る者に判断をしてほしいという要請はあると思われ、消費者紛争よりは、仲裁の需要は高いと思う。ただし、事前合意がよいかは別問題であり、紛争発生後に、説明を受けて納得して仲裁を選ぶとする方がよい。
○労働紛争には、すでに固有の法制や紛争解決チャンネルがある。仲裁は現行法の下では利用されておらず、法を整備しても、どれほどの需要があるのか。

 仲裁検討会では、一一月二八日に、個別労働紛争に関する仲裁について労働分野の関係者からヒヤリングを行うことになった。

三 緊急の行動提起

 かなり押し返してきていることに展望をもとう。同時に、仲裁検討会の委員の多くは、仲裁法の体系的完結を志向し、例外措置を設けることに消極的であるとみなければならない。
 新仲裁法は来年の通常国会の立法案件とされている。一一月常幹で、立法段階もにらみつつ、残された期間である一二月と一月に、団体署名を集中することを提起することが確認された。

 執行部は、全労連に情勢を説明し、団体署名の取組みを要請した。さらに、全国の団支部、事務所、団員に、「労働者と消費者などの裁判を受ける権利を奪う新仲裁法導入に反対する」団体署名を、仲裁検討会に集中することを提起する。
 署名用紙案は同封した用紙を増し刷りして活用いただくか、ホームページにアップするのでダウンロードして活用願いたい。支部や地域用に文面をアレンジしての利用も自由に。
 至急地域の団体に署名を訴えてください。集まった署名は団本部に送ってください。




あなたのメールを送ってください
〜教育基本法の改正について


教育改革対策本部本部長  杉 井 静 子
担当事務局次長      村 田 智 子

 教育基本法「改正」問題について関心を寄せてください
 本年一一月一四日、文部科学省の中央教育審議会(中教審)で、教育基本法改正等についての中間報告が出されました。中間報告全文、概要とも、文部科学省のホームページの「審議会情報」から入手できます(*1)。

 この中間報告の本質は、「第二章 新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」に顕著に表れています。これから必要な教育の基本理念として、「個人の自己実現と個性・能力の伸長、創造性の涵養」等と並んで、「社会の形成に主体的に参加する『公共』の精神」(いわゆる「新しい公共心」)、「郷土や国を愛する心」などが挙げられています。そこから見えるのは、ネオ・リベラリズム(新自由主義)とネオ・ナショナリズム(新国家主義)です。

 教育基本法は教育法制の中の憲法であり、日本国憲法の「個人の尊厳」「平和主義」等の基本理念をしっかりと引き継いでいます。この中間報告で一層明らかになりましたが、教育基本法を変更しようとする勢力は、「有事法制を支える人づくり」を目指しているのです。教育基本法の「改正」は、有事法制と一体となって「戦争をする国づくり」、憲法改正の先取りです。

 また、子どもの人権という視点からも、教育基本法の改正は大問題です。改正のもう一つの主眼は少数のエリート選抜です。ただでさえ、今年四月からの新指導要領で基本科目の授業時間数が減り、子どもたちも親も困っている中で、これ以上このような状態が加速すれば、「親に時間的、経済的に余裕のある子どもだけがかろうじて学習内容を理解できる」というようになってしまいます。今、教育を立て直すために本当に必要なのは、教育基本法の改正なのではなく、むしろ現行の教育基本法の理念を活かし、子ども一人一人の人権(学習権を含む)を尊重することなのですが、中間報告には「子どもの人権」という言葉は全くありません。

 「改正」案は来年の通常国会には提出される見込みです。上程される前に反対運動を広げる必要があります。
 団員の皆さん、教育基本法「改正」について関心をお寄せください。教育改革対策本部として、次の通り、行動を提起します。

行動提起

? あなたのメールを文部科学省にお寄せくださいーパブリックコメントの〆切は一二月一五日!
 中教審は、来年一月に最終報告を出す予定です。それに先だち、文部科学省では、一二月一五日まで、中教審の中間報告についての意見を募っています。今のところ、意見の集まりが悪く、しかも送付している人のほとんどが教育関係者だということです。
 意見は、郵送でも、FAXでも、メールでも受け付けるということですので、まだまだ間に合います。

 メール・FAX等の送付先は後述しますが(*2)、意見提出様式は「1 氏名、2 性別、年齢、3 職業(在学中の場合は「高校生」「大学生」など在学する学校段階を表記)、4 住所、5 電話番号、6 意見」の順になります。また、電話での意見受付は無く、メールで送付する場合にはセキュリティ上添付ファイルを開けることはできないということですので、お気をつけください。

? 地域の運動体(教育、有事法制)に声をかけてください。
 このメール送付運動について、地域の運動体の方に参加を呼びかけてください。地域に教育に関する運動体があればそこでいいですし、ない場合には有事法制反対の運動体に行って趣旨を説明してください。
 その際には、ぜひ、団の意見書を活用してください(団では、今年八月に教育基本法「改正」問題についての意見書を出していますが、これは中教審の中間報告の前に出されたものであるとはいえ、中教審の狙いを的確に指摘しており、今でも十分使えます)。団のホームページから入手できます。なお、前述の通り、一二月一三日には新しい意見書もできますので、それも活用ください。

*1 文部科学省のホームページは、「http//www.mext.go.jp/」
*2 意見の送付先は次の通りです。
 〒100-8959 東京都千代田区霞が関 3-2-2
   文部科学省生涯学習政策局政策課 政策審議第一係 宛
    FAX 03-3581-7003
    メールアドレス chukyo@mext.go.jp
問い合わせ先:文部科学省生涯学習政策局政策課政策審議第一係
電話番号 03-5253-4111(内線 3464)




団総会に初めて参加して


愛知支部  川 口  創

 一〇月に登録したばかりで、まだ弁護士らしい仕事もしないまま、初めて団総会に参加させていただきました。

 総会に先立つプレ企画の上田誠吉先生の話を伺う企画には、総会の一日前というのにもかかわらず三四人の五五期が参加し、熱心に上田先生の話に耳を傾けました。

 上田先生は、独特の「間」をもって(時々自分が言ったことに「…、フッ」と小さくうけながら)、戦時中の体験談や自由法曹団の起源のことなどを話されました。

 私は自由法曹団員がどのような闘いをどんな思いでしてきたのか、今までじっくり伺う機会がなかったので、 団員それぞれが、人が人として大切にされる社会を創ろうという熱い思いで活動をされてこられたことを実感しました。

 翌日の総会では、全体会が終わると三つの分散会に分かれ、それぞれで有事法制についての議論がなされました。

 私が参加した会場でも「いつかきた道というアプローチは危険だ、現在の時代情勢にあわせた議論の仕方をすべきだ」あるいは、「有事法制が通ったら自分の地域がどうなるか具体的に考えよう」など、非常に有益なアプローチがなされました。

 ただ、日弁連の有事法制反対パレード後に議員会館を回った時、「有事に備える必要はある」との立場の議員がかなり多かったことから、個人的には「この法制は戦争に参加する法制だ」というアプローチに加えて、より積極的な論拠が必要だと痛感していました。

 さらに、前日に上田先生の平和な社会に対する熱い思いを伺ったばかりだったということもあり、団総会でも、有事法制という非常に重大な問題に対して多角的かつ創造的な熱い「議論」がなされることを期待していました。

 しかし、そういった意味では、会議が「活動報告会」に終わってしまった感があり、若干の物足りなさが残ったため、そのような生意気な意見を会議の最後に壇上から述べさせていただきました。

 ただ、有事法制についても、翌日の敗訴者負担の問題についても、みなさん非常に熱心に耳を傾けられており、それぞれの地域で熱心に各課題に取り組まれていることもよくわかり、とても勇気づけられました。また、一二年ぶりの四〇〇人以上の参加という事実に、各団員の今の情勢への問題意識が現れているのだと感じました。

 プレ企画や総会後のハンセン病長島愛生園でのことなども含めて、弁護士としての原点を感じることのできた貴重な三日間でした。会を主催された皆さんに感謝しています。ありがとうございました。

 来年の団総会には、また皆さんを前に堂々と小生意気なことをいえるような実りある一年にしていきたいと思います。




新人の感想


福岡支部  佐 々 木 か お り

 自由法曹団というと、私の頭の中に浮かぶ言葉は「闘争」。

 実際団総会の前日に見せてもらったビデオでは、団のこれまでの闘争の歴史がつづられており、「弁護士って、こんなこともできるんだ、こんなに人に感動を与えることができるんだ」と、本当に胸が熱くなりました。

 有事法制の分科会では、様々な報告・意見が出されました。非常に詳細な資料を準備されていた先生方、それに対して鋭い意見を述べられた先生方。日常の弁護士業務を行いながらも、有事法制成立に大きな危機感を抱き、研究を重ねられている姿を見て、私は改めて弁護士っていうものは様々なことに疑問を持ち、社会正義を実現していかなければならないんだなあ、と思いました。

 そして司法改革の分科会では、自分が司法改革の波の中におかれていることを実感しました。修習生の時も司法改革によりこれまでの司法制度が変わっていくことはおぼろげながらも感じていたのですが、弁護士登録をした後に司法改革の話を聞くと本当に自分のこととしてとらえることが出来ました。特に敗訴者負担、仲裁法制には疑問を感じました。社会的弱者が裁判を利用できなくなるようなことは絶対に阻止しなければならない、と強く思いました。このようにさまざまな問題意識を持った弁護士が集まり、議論をする中に身を置くだけで、不勉強な私は色々なものを吸収できたと思います。

 夜の部は、総勢四〇〇名以上の大宴会でした。圧巻でした。噂ですが、懇親会は団員全員がそろって同じ部屋、しかも座敷で食事をする、という慣行があると聞きました。座敷にこだわるところが何となく自由法曹団っぽいな、と思い(勝手なイメージです)、ほほえましかったです。先生方も、私の「闘争」というイメージ(こわい、堅苦しい・・・ごめんなさい・・・)に反し、楽しく気さくにお話して下さって安心(?)しました。

 来年の総会は我が福岡で開催されます。こんな気のきいた会場が用意できるか少し心配ですが、今回を上回る人数の方々にお集まり頂ければうれしいです。自分や依頼者だけの利益ではなく、社会全体をよくするためにも、弁護士として何か出来たらいいな、そして七〇歳になって「よく頑張った!!」と表彰されるのも悪くないな、そんな風に思った団総会でした。




総会での三つの出会い


宮城県支部  庄 司 捷 彦

 岡山総会では、三つの出会いがあり、忘れ難い総会になった。

 一つ目。新人学習会への参加は初めてではないが、今年、仙台からのアクセスの悪さにもめげずに、広島へ飛び、タクシーと新幹線を乗り継いで時間に間に合わせ努力?を重ねたのは、講師上田誠吉団員がお目当てだった。上田さんの団長時代を思い起しながらの聴講。歴史を豊に語り込んでの上田節は健在であり、続編を期待させる内容であった。学習意欲を回復させて頂いた。

 二つ目。豊島で見聞きしたこと。船着場にマイクロバスで迎えに来てくださった「廃棄物対策豊島住民会議」の面々。事件の端緒から勝利解決まで、現場と事務所で熱く語ってくれた。頭のどこかに「東北の山地も関東からのゴミの山」との思いがあったのだが、豊島でもらった資料のなかにナント「岩手日報」には驚いた。岩手と青森の県境には豊島の倍近い産業廃棄物が不法投棄されているというのだ。東北に住む者の責任を感じさせられた場面だった。

 三つ目は隣の直島。三菱マテリアルの島。ここが豊島のゴミの最終処分を行う島。文化村のパオ(モンゴルではゲル)に一泊。故藤本正氏に連れて行ってもらった旅を思い起した。浜辺での青春の歌の高吟と痛飲の夜。そんな命の洗濯の時を過ごして、翌日、ホテルで美術鑑賞。そこで見た現代彫刻の一作品に衝撃を受けた。「リトルボーイ」と英字で印字された木箱が、蓋が開けられた状態で床に置かれている。上方二・五メートルから薄い半透明の布が二枚、緩やかに下げられている。裾部分は木箱にある。布は、玉手箱さながらに、箱から湧き出た煙のように。そして、その布には英文と日本語で、日本国憲法前文が書かれている。『原爆から憲法が生れた』との寓意であろうか。この作品との出会いが、直島を、そして岡山総会を忘れ難いものにしてくれた。




新旧役員挨拶 その4
退任+退所


東京支部  黒 澤 計 男

 この二年間、本部の事務局次長でありました。とはいえ、先鋭的な活動に従事したわけでもなく、次長のなかでは比較的酷ともいえない分担業務だったと思います。これ一番という想い出は、なんといっても暮らしの法律相談の原稿集めです。理由は黙っていてもおわかりになるはずです。

 篠原幹事長ほど口数の多い人間に出会ったことはありません。一見軽そうに見えても常幹できっちりまとめ役になる力量があるのですから本当に不思議です。中野事務局長は異常なほどに細かな配慮が行き届く人物で、事務局の長というのは彼にうってつけの役職です。細かなことを無視して突っ走るワケの分からない幹事長となんだか配慮しすぎと言っていいほどの事務局長。そのかたわらで熱心に職務を遂行する有能な次長たち。これらは珠玉の執行部を構成したと思います。有事法制・改憲問題・司法改革など、イナゴの大群みたいな課題にしっかりと対応できたのも、二人の長の求心力の大きさによるものでしょう。渋い顔のまんまで本気とも冗談ともつかないギャグをとばす宇賀神団長が最後の〆をかざります。大団円だ。

 私事になりますが、今回の退任にあわせ、東京合同法律事務所を一二年と六ヶ月間在籍のうえ退所することになりました。私のこれまでの人生の四分の一強を過ごした事務所を退所するのですから、文字にはできないほど深い感慨があります。瞼を閉じれば、記憶に残ったあれこれのシーンが臨界を通り越した放射能バケツのように網膜上を通り過ぎます。

 事務局次長としての最後の大仕事である団総会と新事務所への引っ越しが日程的に重なってしまい、とんでもないことになりました。これほどまでに収拾のつかない日常業務の大混乱は初めての体験です。なんか、もう何もかも嫌になってきました。今、三週間分の業務が完全に停滞しています。どうすればいいのか皆目見当がつきません。私はどうなってしまうのでしょうか。




退任のご挨拶
ー事務局次長を経験して分かったこと(団の神髄)ー


東京支部  大 川 原  栄

 本部事務局次長に就任する以前の自由法曹団のイメージは、「闘う理論家集団」というものであった。同時に、団の運営は一部の人によって行われており、普通の団員は団の運営にあまりかかわっていない、その意味で団は歴史はあるが一部特別な人の「特別な団体」と理解していた。

 団が「闘う理論家集団」であるというイメージは間違っていなかった。あの膨大かつ緻密な意見書が様々な議論を踏まえて短期間の内に作成され、瞬時に行動に生かされている。意見書が完成する過程は、一様でないものの、おおよそ闘争本部・各委員会での議論を踏まえ、起案担当者(本部委員・担当次長等による分担)が原案を作成し、その後本部・委員会で検討し、常幹で確認・修正という流れをとる。意見書原案ついては、それぞれ得手不得手があったとしても、緊急性・必要性のプレッシャーがある限り団員の誰も起案可能だと思うに至った。

 次長就任後、各委員会の担当、総会・五月集会の準備等を経験して初めて分かったことは、団内には「団は団員を信頼し、団員は団を信頼しているという関係がある」ということだ。そして、その根底には、各団員の自由な個別事件活動があると思う。例えば司法改革や有事法制阻止活動において、団は団本部を中心とした組織的取組みを行っており、各団員(団事務所)はそれぞれのスタンスをとりつつも本部の提案した組織的取組みにかかわっている。他方で、各団員は団の具体的方針がないままに各個別事件をそれぞれの団員の独自判断の下で取り組んでいる。各団員の個別事件処理に共通するものは、人権・平和・民主主義といった抽象的な理念でしかなく、それぞれの団員は各自の自由な判断で各事件に取り組んでいる(各事件に対する本部や支部からの指示などは当然にない。)。八〇周年を記念して作成された団物語には、重大著名事件について語られており、これによって団の歴史を深く理解することができる。しかし、多くの団員はあの団物語に掲載されない、あるいは団の「憲法判例をつくる」にも掲載されていない多数の事件に取り組んでいる。五月集会の特別報告に掲載されている事件はその典型例であるが、この特別報告にも掲載されない「小さな」事件についても、全国の団員が団員の誇りと自覚(未必的「誇りと自覚」を含む)を持って取り組んでいるのであり、この各団員の多様な取組こそが団の組織活動とは別の、しかし団の活動そのものであることが理解できた。

 団と各団員の関係は、親友同士の関係に似ている気がする。何年も会っていなくても、その間音信不通であっても、各自が相手を信頼して各自のスタンスで行動し、そして久しぶりに再会したときには時の経過、音信不通中に何があったかを気にせずに心から笑って話し合える(真正面からの喧嘩もできる)という関係だ。(ただし、そうは言っても長期の音信不通はまずいので、時々は総会・五月集会・常幹等に参加してお互いの信頼を確認する必要はあるよね。)

 団は、「闘う理論家集団」であり、団の重要な存在意義がそこにある。同時に、団は各団員の自由な事件活動によって支えられている。各団員がそれぞれ好き勝手にやっても、それが団員としての誇りと自覚の下で行われている限り、その活動は、例えその団員が日常的(あるいは形式的)に団に結集していないとしても団活動そのものということになる。そして、その団員もいざという時には団に結集するであろうと確信する。これが団の神髄であり次長を経験して実感したことだ。このことを理解できただけでも次長を経験して本当に良かったと思っている。(次長になればこの神髄を見ることができるであるから、団員になって次長にならないのは、弁護士になって団員にならないと同じくらいソンだと思う。)

 本部役員、専従事務局のみなさんには様々なところで御迷惑をかけましたが、このような私でも暖かく見守ってくれるところに団の懐の深さを感じました。感謝、感謝、ありがとうございました。




団で過ごした二年間を振り返ると・・・


東京支部  伊 藤 和 子

 本部の次長になって二年間、憲法・有事法制と司法改革をずっと掛け持ちして、あっという間に過ぎた。そもそも何故この担当になったかといえば、「どうせやる以上、団でしか出来ないことをやってみよう」と考え、最初の会議で希望したからだ。それまで団活動にほとんど参加していなかったのに加え、団は「典型的な男性社会」という印象だったので、「きっとみんな不安だろうな〜」と思ったが、当時の小口事務局長が「大丈夫でしょう」と言い、意外とあっさり担当に決めていただいた。以後、場違いな言動も多々あっただろうに、団の先輩はみな暖かく、「自由に好きなことを言っていい、やっていい」と言っていただき、楽しく働かせてもらい、とても感謝している。

 団の三役をはじめ団の先輩方には本当にいろいろ教えてもらった。特に篠原幹事長はすごいイニシアティブで運動をひっぱっていた。私たち次長の意見もどんどん取り入れてもらった。例えば「こういうことをしてはどうか?」とファックスで提案すると、その日のうちに独特の字で返信が来る。そして大きい字で「賛成」と書かれていて、そのためには??、と段取りを具体化してくれる。世の上司は是非これに学ぶべきだ、と思ったものだ。
 このようにして本部は「行け行けドンドン」モードに入り、司法問題など運動がどんどん進みはじめた。

 そうするうちに九月一一日同時多発テロが発生。アメリカのアフガン空爆が始まり、テロ特別措置法の国会審議が始まった。毎週のように違う意見書をつくり、国会要請、街頭宣伝、学習会、集会と飛び回り、「団の国会闘争は大変だ」とつくづく実感した。国会傍聴にも行ったが、自衛隊がはじめて参戦するというのに、この国の閣僚が、憲法を馬鹿にした詭弁を繰返すのをみて、心底怒りを感じた。
 そんな最中の昨年の団総会で、神田高団員が「パキスタンへ行く」と提案し、命知らずの同志を募りはじめた。アフガン空爆は続き、自衛隊が初めて参戦する・・黙って見過ごせない気持ちになって私も「行く」ということになった。
 団の良いところで、たちまちにして自由法曹団アフガン問題調査団が結成され、それからは準備に明け暮れた。

 年明け、印パ戦争やビンラディン潜伏説が流れ、内心「死んだらどうする、行きたくない」と思いつつ、後にひけずにパキスタンへ。無事到着すると今度は国境まで行きたくなる。手を尽くして、不可能と思われた国境のキャンプに行き、空爆被害者からじかに話を聞く機会を得た。被害実態を聞いて本当に愕然とした。民家の密集する平和な村々で、アメリカは大量殺戮兵器を連日落とし、人々を大量虐殺した。それなのにメディアも国際機関も沈黙し、アメリカの行動は「正義」だとされている。こんな不正義が許されるのか、アメリカの戦争責任を絶対に曖昧にしてはならない、とかつて経験したことのない憤りを感じた。きっと生涯忘れられないだろう。同時に、「クエッタ組」と危険視された神田、上山、仁比団員をはじめ、実ににぎやかなメンバーがそろい、初めて行くイスラム圏の体験。楽しいことも多い旅行ではあった。

 帰国後は、アフガン報告会と有事法制が待っていた。団には有事法制阻止闘争本部が立ち上げられ、続々とスタッフが集まってきた。私は難民キャンプのスライドを手に、西へ東へ連日アフガン問題と有事法制の講演に歩いた。
 当初、有事法制は二月か三月には通ってしまうのでは?という悲壮な見通しで運動を始めた。寒い中で宣伝行動をやっても全然ビラの受け取りが悪かったのを覚えている。しかし、四月の法案提出頃から、街頭の反応が変わり、四月、五月、六月と集会ごとに人数が増え、劇的に情勢が変化して通常国会での有事法制成立はひとまず阻止できた。良い経験をさせてもらったなあ、と思う。

 このように印象的な出来事をざっと振り返ると、いろいろ大変だったが楽しかったと思う。団には老若男女問わず闘おう、という心意気のある人々が集っていて、気持ちよく仕事ができた。たくさんの熱い心を持った友人にであえてよかったと思う。全国各地でいかに団員が奮闘しているか知り、学んだことも多い。お名前を書ききれないのが残念だが、本当に皆さん、お世話になりました。

 振り返るとこの二年で世界と日本は一言で言い尽くせない程変わったと思う。九・一一以降、世界では本当に目を覆うようなことばかりが続いた。アフガンの講演に飛び歩いていた頃、私は「アメリカのこんな横暴に世界は何故沈黙するのか」と毎日焦燥感を募らせていた。しかし、一年もたたない今、イラク攻撃に反対する声が世界の大きな潮流になっていることは、私にとって大きな確信になっている。世界の多くの人々は、罪なき貧しい人々を虫けら同然に殺す戦争政策にはっきりNOの声をあげはじめている。これからも、倦まずたゆまず、この潮流に身を置きつづけていきたいと思う。




事務局次長就任のご挨拶


東京支部  坂  勇 一 郎

 順番が回ってきて、この度東京合同法律事務所から団事務局に「出向」に出ることになりました。よろしくお願いいたします。

 弁護士として登録したのは、バブル崩壊が誰にとっても明らかとなった一九九二年四月でした。やがて、事務所はバブル経済のあだ花ともいうべき変額保険事件に取り組むようになりました。九四年ころからは私も変額保険弁護士連絡協議会の事務局として動くこととなり、しばらくの間事務所の他の先生方とともに変額保険事件に忙殺されました。その後の主な稼働領域は、この変額保険事件から枝葉のように分かれてきたものです。金融機関の旧役員の責任追及、消費者委員会、弁護士報酬の敗訴者負担問題等が、それです。

 右のような経過から、団の事務局では司法問題と市民問題委員会を希望し、両委員会を担当させていただくこととなりました。

 弁護士報酬の敗訴者負担問題では、敗訴者負担に反対する全国連絡会、日弁連の対策本部と団の担当次長と三足の草鞋を履くことになりました。三つの団体それぞれに個性と属性があり、その位置と役割というものを考えさせられます。私たちの役割は、問題(現場や事実)を拾い上げ、分析して分かり易く伝えること、その伝達を循環させながら広めることかと思います。市民団体・日弁連・団、それぞれによって立つ位置があり、それぞれに得手不得手があると思いますが、それぞれが特性を生かしお互いをうまく補完しあいながら、力の循環を作り出せればと思います。私の事務所では昨年、司法問題について「分かり易く」ということが欠けているのではないかという問題関心から、司法改革のパンフレットを作成しました(昨年の団総会でお配りしたものです。いま少し在庫がありますのでよろしければご活用下さい)。一一・二二集会に取り組む中で、いかに「伝達し循環させ広めていくか」ということを考えさせられているところです。意味があるようなないようなことを書かせていただきましたが、合同事務所という「環境」と変額保険以降の「育ち」のせいと、ご容赦いただければ幸いです。まずは右ご挨拶まで。




次長就任の挨拶


大阪支部  杉 島 幸 生

 このたび、大阪支部の推薦で事務局次長となりました四九期の杉島です。労働、国際交流、部落問題(人権)の担当をさせていただくこととなりました。このところ大阪からは、団の司法問題の意見書とりまとめで辣腕をふるった財前昌和先生や豊富な国際経験で団活動の国際化に貢献した井上洋子先生など、大阪が誇る知性派弁護士を派遣してきました。私は、お二人とは違って声が大きいだけがとりえの肉体派(?)を自認しておりますので、なかなか知的な面では団に貢献できそうにはありませんが、大阪と中央とのパイプ役になれればと思っています。

 次長をお受けすることになってからというもの、色々な人から大変だねと同情の言葉を掛けられましたが、このところ私としては日常の事件活動の忙しさに煮詰まった感じがあり、自分を取り巻く環境を変えたいなと考えていましたので、今回の次長のお話はその絶好の機会になると思っています。

 大阪で民主法律協会の事務局をさせていただいたこともあって、特に労働問題に関心をもっています。労働裁判改革や解雇規制法をめぐるせめぎあいがいよいよ本格化するこの時期に私のような若輩が担当次長ということとなり、みなさんにはご迷惑をおかけすることになるとは思いますが、よろしくお願いします。




国労昇進差別事件に救済命令


秋田県支部  虻 川 高 範

一 事案の概要

 本年九月一二日、秋田県地方労働委員会は、国労秋田地本土崎工場支部の組合員らが、JR東日本から昇進差別を受けたという不当労働行為を認め、一部救済命令を交付した。申立以来、一〇年を経過しての命令だった。

 国鉄の分割民営化後、JRは国労組合員に対する差別攻撃を強めることにより、生き残った国労組織への打撃をもくろんだ。その一環として、JR発足後に導入した「昇進試験制度」を利用し、国労組合員と他労組組合員との昇進差別を作り出そうとした。同制度により、国労組合員は、「昇進試験」に合格しないという理由により、他労組だけが昇進し、他労組組合員との間に著しい組合間格差が生ずることとなった。

 例えば、土崎工場では、指導職試験という基本的な昇進試験において、一九八八年(昭和六三年)度に国労組合員一七一名が受験したが合格は三名(合格率一・八%)に対して、東労組は九九名中三二名合格(同三二・三%)、翌年一九八九年は国労の受験者一四九名で合格者はゼロ、東労組は八三名中四八名合格(同五七・八%)というように、平均約三〇%以上の合格率の試験制度であるのに、国労組合員では、ほとんど合格しないという結果が続いていた。

 要するに、他労組では、大半が三年たてば合格するのに、国労では、ほとんど合格しないという「格差」が生じた。

 そして、このような露骨な昇格差別を背景に、国労への脱退工作が激しくなった。曰く「合格するには脱退しないと」。

 実際、国労を脱退して他労組に移った社員は、当該年度ないし翌年には合格してしまう、という露骨さであった。

 これだけの「昇進差別」の実態にありながら、会社側は、国労組合員が昇進しないのは、昇進試験に合格しないからだ、昇進試験は公正に実施されているから不当労働行為になるはずがないと主張した。そして、国労組合員が合格しないのは試験の合否判定要素となる勤務成績が悪いか、筆記試験の成績が悪いからだと主張していた。

 もっとも会社側は、地労委からの釈明にもかかわらず、国労組合員の筆記試験の成績(採点結果等)を明らかにすることはなかった。

 このような「差別」は、土崎工場だけにとどまらず、全社的に行われていたため、秋田地労委のほか、岩手、宮城、福島、東京、神奈川の地労委で、不当労働行為申立が行われた。秋田地労委の命令は、福島(平成一三年二月・棄却)、神奈川(平成一四年三月・勝利命令)、岩手(同月・棄却)に次ぐものであった。

二 地労委命令

 秋田県地方労働委員会は、次のように判断して、国労組合員の内の一部の救済を命じた。
 救済方法としては、平成三年度(申立直近の試験年度)の国労組合員受験者の成績上位順に上位三五%(会社全体の合格率)に相当する者を合格者として取扱い、遡及して昇進処遇することなどを命じた。

 争点となっていた「試験の公正さ」に関して、地労委は、その運用が「公正性や客観性が確保されているかどうか疑問がある。」とし、組合間での極端な合格率の格差、「歴然とした外形的格差があることが明らかであるにもかかわらず」会社側から、これを「覆すような具体的な反証もなく、その格差の生じた理由についての合理的な反証も認められないから、被申立人の主張は、疑問であり、採用できない」、そして、国労組合員と他労組組合員との間には均質性が認められるので、いわゆる「大量観察方式」の採用によって不当労働行為性を判断できるとした。

 もっとも、不当労働行為は、試験の合否を決定する各年度ごとに判断されるべきものであるとして、直近の試験年度以前の「不合格」は、申立期間を経過したとして、却下された(神奈川は、全面的に救済した)点が問題であるが、会社側が終始主張していた「昇進試験」の「公正」を、地労委が否定した意義は大きい。

三 意義と課題

 外形上明らかな組合間差別がありながら、一見公正さを装う「試験結果」がブラックボックスとなって、その不当労働行為性をどう判断させるかが、課題であった。職場では、国労だから合格しない、国労を脱退すれば合格するという、「差別の構造」が常識化していたのだが、その常識を地労委が認定するまで、一〇年という年数がかかったことになる。

 実際のところ、前述の通り、一連の同種事件で最初の地労委命令となった福島地労委では、申立が棄却され、その後、神奈川では、国労側全面勝利の命令が出されたが、その同じ月、岩手では棄却命令が出された。これらは、いずれも、中労委に再審査申立され、既に審査が始まっている。秋田地労委の命令により、いわば、二勝二敗で中労委にいくこととなった。

 各命令の判断は区々に分かれているが、結論を分けた論理上の結節点は、「大量観察方式」の適用の可否によっている。しかし、いずれの事件でも、昇進の外形的格差はほぼ明らかにされているし、国労に対する不当労働行為意思も地労委は認定できているので、論理的な帰結はともかくとして、結論を分けたのは、各地労委が、どれだけ、差別の実態に迫り、その救済を図ろうという労働委員会本来の使命に貫かれているか、ということにあったような気がする。その意味で、中労委も又労働委員会の姿勢を問われることになるだろう。




脱ダム、その後


長野県支部  松 村 文 夫

一、田中長野県知事は、不当な不信任案に対して、圧勝して再選され、浅川ダムについて、請負契約を解除し、下諏訪ダムについても中止を再宣言した。

二、これを受けて、私が弁護団長をしている下諏訪ダム住民訴訟を、一〇月二三日取り下げして、その旨を田中知事に会って報告した。田中知事は、原告住民の粘り強い取り組みをたたえ、県側の不適切な対応に謝罪した。これが県内では大きく報道された。

三、この下諏訪ダムは工事入札前であったが、浅川ダムの場合は、入札がなされ、前田建設等のJVが落札していた(但し、着工前に田中知事によって一時中止となっていた)。これについて、田中知事が再選後、正式に請負契約を解除したのに対して、JVのみならず全国のゼネコン協会は、今後の公共事業中止を牽制するために、損害賠償請求をすることを表明した。
 その損害賠償の範囲については、逸失利益も含まれることを前提にしていた。
 団支部で討議したところ、請負契約においては、出来高払いに応じて利益も含めた工事代金が支払われるのであって、未着工の場合は、ムダになった人夫賃や材料代については賠償すべきであるが、逸失利益は発生しないのではないかということになった。
 学説を調べたところ、人夫や材料については、他の工事に転用できたものは損益相殺となるとなっていた。とすれば、前田工業などゼネコンにおいては、浅川ダムに予定していた人夫や材料が仮にあったとしても他に転用しそれによって利益をあげているはずである。
 従って、未着工の請負契約解除にあっては、逸失利益もないというのが、学説の結論となるはずである。

四、その確信に立って、一一月八日、団支部見解を発表し、田中知事に届けるとともに、JV側に郵送した。地元マスコミは大きくとりあげた。

五、今日公共事業については請負業者からの損害賠償請求が中止しない口実に使われている。

 団支部は、JV側に請求できる根拠を明らかにすることを求めると共に、田中知事に対しては、訴訟も辞さないで対応すべきであり、団支部はバックアップすることを表明した。

 学説を住民の立場に立ってより発展させる、判例のないところは判例を作っていくという団の作風を実践しているところである。




大学管理・法曹変質法案を阻止しよう(下)


東京支部  萩 尾 健 太

2 学校教育法改定案について

 同法案一五条で新たな規定がなされている。
 従来、学校(国立を除く)の法令違反に対しては、変更命令と学校閉鎖命令が規定されていた。しかし、学校閉鎖命令は、学校にとっていわば死刑であり、(殆ど)発動されることはなかった。

 ところが、改定案一五条では、改善勧告、当該勧告にかかる組織の廃止命令が新設された。なお、「概要」には変更命令も新設、とあるが、変更命令は、もともと学校教育法一四条にあるので、「概要」の説明は、嘘だと思う。改定案六〇条の2で、上記の権限行使に当たっては、文科大臣は、「あらかじめ、審議会に諮問し、その意見を聴いて行わなければならない」と規定しているが、審議会がイチジクの葉の役割しか果たさないことは明らかである。

 これまで、学校閉鎖に該当するような重大な法令違反以外は、大学の自治、学校の自治で対応してきた。その自治権を奪い、文科大臣が介入するというのが、この法改正である。文科大臣の介入が認められるようになると、どうなるか。例えば、東京大学では、近時、学外団体に教室を使用させる場合、従来の慣例を破って、使用料を取るようになった。学外団体と言っても、学会やインカレサークルである。こうした動きがさらに進むことになる。また、文科省の規定に違反して学生が自由に設備を使用している学生会館、自主活動スペース、学生寮などは、組織廃止命令の対象となるだろう。大学と学生自治団体が結んだ設備や授業に関する様々な取り決めは、全て改善勧告、変更命令の対象となる。教員は、このような状況下で、文科大臣の勧告に怯える相互監視、管理役人に成り下がる。大学の自治は、強大な文科省の権限の前に風前の灯火と言える。なお、同条は、国立大学は対象としていないが、国立大学は、独立行政法人化によってより強い統制に服することになるのである。さらに、文科省の廃止命令を待つまでもなく、同改定案四条2項で国立大学以外の大学の設置者(地方公共団体、学校法人)は、学部、大学院の研究科、短大の学科の廃止を届出のみで行えるようになる。大学の萎縮・大リストラ、解雇問題も生じるだろう。

 そして、この動きは教育基本法一〇条(教育行政)「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を持って行われるべきものである」との規定への攻撃とも連動するものと考えられる。 

学校教育法六九条の3から6にかけて認証評価機関について規定されている。大学は認証評価機関の評価を受けるものとされて、自主的な研究よりも、表面のよい報告書作成に忙殺されるようになる。さらに問題なのは、文科大臣が、認証評価機関の認証を行い、公正かつ的確な実施が確保されないおそれがあるときは報告または資料の提出を求め、改善を求め、ひいては認証を取り消すことまでできる点である。これは、学問の自由を尊びアメリカ法曹協会と共同関係にあり政府の介入の余地のないAALS(アメリカロースクール協会=アメリカのロースクール評価機関)とは全く別物と言える。

中教審答申は、「法科大学院は大学改革の試金石」だと位置づけていた。まさに、法科大学院を突破口として、このような抜本的な大学管理立法がなされようとしていることに、我々弁護士は、自責の念を抱かなければならない。学校教育法の改定は今国会で同時には行わないとの説もあったが、ここまで露骨にやられるとは、我々が舐められているとしか思えない。しかも、この学校教育法改定は、我々弁護士にも跳ね返ってくる。仮りに日弁連が認証評価機関を作った場合、このような強大な文科省の統制に服し、事実上弁護士自治に対する介入すら招くこととなるだろう。日弁連の認証評価機関ですら、法科大学院連携法案の規制緩和の基本理念(同法二条)に大学の教育が沿っているかを基準に評価することは避けられない。

3 学校教育法改定案と法科大学院連携法案のリンク

さらに、法科大学院連携法案五条5項では、こうした文科省の統制に服する認証評価機関の適格認定を受けられなかった大学に対して、報告または資料の提出を求めている。

 検討会議での議論からすれば、この報告または資料が、学校教育法改定案一五条の措置を実施する際の「報告または資料」として使用されることになると思われる。

 さらに、法科大学院においては、文科大臣のみならず法務大臣も介入し、一五条の措置を取ることを求めることが出来ることが、法科大学院連携法六条に規定されている。文科省は、歴史的経緯もあり、少しは教育や大学の自治について理解しているが、法務省は権力機構そのものであり、六条の規定は、法科大学院がそうした法務省の統制にも服することを意味しているのである。

4 司法試験法改定案について

 司法試験法改定案にも様々な問題があるが、個々で取り上げたいのは、同法案五条、予備試験の問題である。

 従来、予備試験については、法科大学院に入る金銭的余裕のない、貧しい人の登竜門として保障すべきか、それとも法科大学院制度を脅かさないよう、制限すべきかが、争われていた。

 しかし、同法案に示された予備試験導入の意図は、そのような争いとは別のところにあったようである。

 予備試験の論文試験には、法律実務基礎科目が含まれており、口述試験は法律実務基礎科目についてのみ行われる。このように重視される法律実務基礎科目とは何か。同法案五条3項によれば、「法律に関する実務の基礎的素養(実務の経験により習得されるものを含む)」である。検討会議での議論などからすれば、これは、端的にいえば企業法務部での経験に他ならない。法務部で働いて給料を得たりなどしていない、貧困学生は到底予備試験に合格できない。

 多様な人材の確保、困窮者救済などと綺麗事をいいながら、自民党や財界が予備試験の確保を唱えていた真の理由は、企業法務部社員に法科大学院に通う手間を省かせ、短期に法曹資格を取らせて企業内弁護士や物わかりのよい裁判官にしようというものだったのである。それは法曹全体の変質に結びつくだろう。

 このような趣旨の予備試験は、決して認められない。

5 裁判所法改定案について

同法改定案の要点は、現行司法試験で合格した者の修習期間短縮である。現状一年半ですら、修習生は厳しいスケジュールに追いまくられており、精神を病む者も出る。まして、一年四ヶ月になれば、十分な修習を受けることは困難である。

 また、同法改定案は、他の法案とセットであり、他の法案による法科大学院設置を認めなければ、当然同法案にも反対することになる。

6 広範な人々に関わる問題

 上記のように、四法案の問題は法科大学院だけの問題ではない。全ての大学を統制・管理下におくのが学校教育法改正であり、その中で法科大学院が突出しているのである。さらには、教育基本法改定にまで結びついている、戦後教育の大改悪の問題として捉える必要がある。

 そうである以上、法律家のみならず、大学教員、職員、院生、学生、受験生、父母、市民、全ての教育関係者に、この四法案、大学管理・法曹変質法案を阻止すべく共同することを呼びかけるべきである。法科大学院そのものへの賛成、反対を問わず、この四法案、とりわけ、学校教育法改定案とそれを前提とする法科大学院関連法案反対については、幅広い層が共同して運動できる可能性は十分にある。教育基本法改悪、大学改革反対の運動と結びついて、大学管理・法曹変質法案を阻止しよう。




植木敬夫さんを偲ぶ会に寄せて


東京支部  渡 辺  脩

 私は、昔、植木さんについて、「たとえていえば、レーニンの理論と木枯紋次郎の流儀とをミックスしながら、現代に適応しようといったふうの政治的職人で、理論・状況判断・闘争技術のなどの確かさでは、卓越した存在である」と書き、ご本尊も満足のようでした。レーニンというのは古いかも知れませんが、認識論と喧嘩上手ということでご理解ください。その職人気質を中心に述べようと思います。

 一九六一年に弁護士になった私は、「新しい血を入れる」ということで、直ぐ青梅事件の上告審弁護団に配置されましたが、それには従前の弁護活動を批判的に再検討するという意味もあり、若い頃の私は比較的言いたい放題でしたから先輩の弁論を随分やり玉に挙げたものです。長老の小沢茂さんや植木さんは怒りもしないで受け容れました。「勝つためには何が必要か」に集中し、その他のことは問題外だったのです。本質にズバリと切り込み、夾雑物を一切弾き出す点で植木さんの職人気質は格別に徹底していたと思います。

 池波正太郎が、「職人の仕事は、理屈ではない。あくまでも感覚の積み重ねによって、すべてを理解し、見通さなければならない」と書いています。「むろん、形をなしているわけではない。さっと白く、頭の中を通り過ぎて行くだけだ。一瞬のうちに決まってくれれば、最後まで書きぬくことができる」というのです。

 辰野事件控訴審の途中から入った時の植木さんが、それだったと思います。辰野事件は、「現行犯逮捕・即日自白」があり、「革命成就まで長期持久戦」というとんでもない裁判闘争でした。青梅事件同様、植木さんが証拠物と現場を分析し、私が自白を分析するという分担でした。方針は「速戦即決」に切り替えられ、判決はフレームアップを認定しました。いち早く証拠物のねつ造を見破った植木さんは、「絶対に勝つ事件だから、一緒にやらないか」と私を誘ってくれたのです。本当の苦労はそれから始まるのですが、私を誘った時の植木さんの頭の中では、判決の結論と判決までの全行程がぱっと見えていたと思うのです。これは、実感です。

 植木さんは、鋭い感覚でとらえたものを高度に理論化する面でも優れていて、理論を生かす鋭敏な感覚が力の源泉であったとも言えるでしょう。理屈倒れがなく、実戦向きの強い職人でした。青梅事件の頃、植木さんと私の仲が悪くなっていると先輩たちが心配した時期もあり、中田直人さんが「仲に立とうか」と言ってくれたことがあります。私は、「植木さんの能力に俺が敬意を表している限り心配無用だよ」と言って直ちに断りました。それは、私の中で終生変わらないことです。

 その植木さんとも、私が麻原国選を引き受けて東京合同から出た時、ズレが生まれてしまいました。植木さんは、非常に広い意味で、仲間とともに戦い、仲間のために戦う人でしたから、何よりも、仲間を大事にしていました。植木さんが私を批判したのも、「なぜ、事務所の仲間に相談しないのだ」という一点でした。

 私は、弁護人抜き裁判特例法案を廃案にした時、「万一の場合、必ず国選を自分で引受ける」と覚悟を固め、そのことを全国の弁護士会と弁護士にも強く求めて、「弁護士会は、いかなる困難があろうとも国選弁護人を推薦する」という日弁連公約をまとめたのでした。戦う日弁連の作戦参謀兼切り込み隊長だった私が、その責任から、麻原国選を断るなら弁護士を辞めるべきだと考えたのは当然の話で、それは自分が決める問題でした。相談されても困る問題でしょう。当時、私は、女房に一寸漏らしただけで、誰にも話す気持にはなりませんでした。植木さんの言う通り、私は自分のことしか考えていなかったのです。そういう場面は、人の一生にありうることだと今も思っていますが、ただ、植木さんとは、いつか、酒でも飲みながら、自分だけで決めたことを話してみたいという気持をずっと持ち続けていました。六〇歳過ぎて、そういう場面にぶつかると、修復を図る時間や機会をなかなか作れないものです。

 植木さんは、傲岸不遜と見える顔の陰で実にシャイでもあり、そこから、いろいろな魅力が生まれていたと思うのですが、一つだけ言うと、私の人を人とも思わないと見える欠陥は全部植木さんのお陰です。

 長生きの秘訣は、腹を立てることと、人に嫌われることだそうですから、私は、その植木さんの遺産を大事にして、植木さんよりも長生きしようと思っています。最後に、植木敬夫の弟子として、本日の会を開いて戴いたことに感謝します。