株式会社ジャパネットたかた 創業者 髙田 明
自分を信じて、自分を疑え
都市と地方の格差が叫ばれている中、長崎県佐世保市に本社がある“ジャパネットたかた”は順調に成長を続けている。しかも従業員300人超で年商1000億円(2007年度は1161億円)を稼ぎ出す優良企業でありながら、なんと本社の最寄り駅は無人駅という立地だ。いったい“ジャパネットたかた”の強さの秘訣は何なのか。その秘訣は、自社スタジオを完備し、自社スタッフで番組制作をする「自前主義体制」なのか。あるいは、テレビ、ラジオ、インターネットなどを駆使した「メディアミックス」の販売戦略か。はたまた年間約50億円のコスト増になっている「金利・手数料ジャパネット負担」という独創的なビジネスモデルなのか。しかし、今回の取材を通して分かったのが、上記の要因もあるにせよ、“ジャパネットたかた”の強さの秘訣とは、髙田明という比類なき経営者にあるということだ。愚直に顧客満足度と社員満足度を向上させてきた髙田明。今回は、髙田に自身の経営論について語ってもらった。
※下記はベンチャー通信36号(2008年12月号)から抜粋し、記事は取材時のものです。
【起業家の軌跡】
髙田明は1948年に長崎県平戸市で生まれる。父親は無類のカメラ好き。そのカメラ好きが高じて、ついには小さなカメラ店を開業する。このカメラ店こそ、現在の“ジャパネットたかた”の前身にあたる“カメラのたかた”だ。髙田は4人兄弟の2番目として育つ。他の兄弟全員もカメラ販売の仕事に従事して、現在では地元で独立して会社経営をしている。
髙田は高校卒業後、大阪の大学に進学。大学では英会話サークルに入部し、英語に熱中する大学生活を送る。小さい頃から英語に興味があり、将来は英語を話せるようになりたかったという。
大学卒業後は、貿易業務で英語力が活かせると聞き、京都にある機械メーカーの阪村機械製作所に入社。そして、入社2年目には欧州駐在となる。欧州では1年弱という短い期間であったが、多くの国を渡り歩き、機械を売り込むという貴重な経験を得る。しかし、その後、大学時代の友人から「一緒に翻訳事業の会社を立ち上げないか」と誘われ、3年であっさりと退社してしまう。その起業話は、しばらくして立ち消えになってしまう。
そこで髙田はやむなく故郷の平戸に戻り、家業の“カメラのたかた”に入って、父の仕事を手伝うようになる。ちなみに家業のカメラ店では、カメラ販売や写真プリントの他にも観光客相手の商売もしていた。これはホテルの宴会場に行き、盛り上がっている宿泊客の撮影をして、その写真を翌朝に届けて販売するというものだった。
その後、家業も順調に伸びて、長崎県松浦市に営業所を出すことになり、27歳の髙田がその営業所を任されることになる。そして、この営業所の立ち上げを髙田は見事成功させた。その後も佐世保に営業所を出すなど家業は発展した。1986年には髙田自身が家業から独立して、佐世保で株式会社たかたを設立する。同社はソニーの特約店になり、ソニーショップとして事業を軌道に乗せた。
そして、1990年に転機を迎える。店舗の改装時やセール時に、宣伝として使っていた地元のラジオ中継車で、コンパクトカメラを販売したところ、5分で50台も売れたのだ。髙田はラジオが持つ影響力に驚愕した。その後、ラジオの通信販売事業に本格参入することになる。
テレビ通販事業への参入は、その4年後である。ラジオショッピングの全国ネットワークを完成させた後に、テレビ通販に本格参入したのだ。そして1999年には現社名の“ジャパネットたかた”に改称。2000年にはカタログ通販事業とインターネット通販事業もスタートし、メディアミックスで日本全国をカバーする体制を完成させる。また、自前主義体制を敷き、佐世保市内に自社専用の本格テレビスタジオを完備させ、番組もすべて自社スタッフで制作する。現在の“ジャパネットたかた”は従業員300名を超え、年商も1000億円(2007年度は1161億円)を超えている。
プロフィール
- お名前髙田 明
- お名前(ふりがな)たかた あきら
- 出身長崎県
- 身長178cm
- 平均睡眠時間7時間
- 平均起床時間7時
- 趣味愛犬(ミニチュアダックスフンド)と 遊ぶこと
- おススメ本『チェンジ・ザ・ルール』
- 購読雑誌日経ビジネス、週刊ダイヤモンド、 日経ベンチャーなど
- 家族妻、子供3人、孫3人
- 今までに訪れた国約20ヵ国
- 座右の銘夢持ち続け、日々精進
- 好きな食べ物刺身
- 嫌いな食べ物特になし
- 乗っている車ベンツ(社用車)