エリー・デューリング講演会「レトロ未来」

(早稲田大学文化構想学部表象・メディア論系、東京、2014年5月22日)

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 フランスの哲学者エリー・デューリング(1972- )による「レトロフューチャー趣味〔Rétro-futurisme〕」をめぐっての講演会。

 デューリングは、アンリ・ベルクソンの名高い既視感論「現在の思い出と誤った再認」を大胆に敷衍することで、1980年代以降のポップカルチャー(SF小説や映画、テレビドラマ、音楽、ビデオゲーム、さらにグラフィック・産業製品・商業建築のデザインなど)に見られる「レトロフューチャー趣味」を、現在のただなかで作動している「潜在性」として読み解いていく。

 近刊予定の著書『未来は存在しない』の予告編でもあるという今回の講演は、『2300年未来への旅』(1976)と『ブレードランナー』(1982)の二つのSF映画への言及からはじまった。この二つが対比されつつ、「レトロフューチャー趣味」がたんなる懐古趣味の一形態に尽きるものではないことが、まず確認される。「レトロフューチャー」といえば、20世紀初頭以来、1970年の大阪万国博覧会あたりまで連綿と紡がれてきたユートピア的な未来像──過去の人々が想い描いたけれども実現しなかった未来のイメージ──のことだ。そうした古びた未来イメージを今になって嗜好することは、往々にして、希望の失われた現代社会から目を背け、明るく輝いていた過去を懐かしむメランコリックなノスタルジーだとされる。けれども、「時間の病理学」の観点からデューリングは、そのようなレトロマニアの「メランコリー」の身振りとは異なるレトロフューチャー趣味のありようを、現在をパラレルワールド化する「パラノイア」の身振りになぞらえる。

 ウィリアム・ギブスン+ブルース・スターリングのスチームパンク小説『ディファレンス・エンジン』のように、現代のコンピュータがヴィクトリア朝時代に開発されていたと想像してみること。あるいは、最近のイギリスのテレビドラマ・シリーズ『SHERLOCK』のように、シャーロック・ホームズが現代に生まれていたらと想像してみること。もしくは、ギブスンのSF短編小説「ガーンズバック連続体」のように、実際に建てられたレトロフューチャーなグーギー様式の建築を追いかけながら、別の未来に迷い込んでしまうこと。SF小説やテレビドラマから、ビデオゲームのエミュレーションにまで広がっているこの「パラレルワールドの想像力」こそ、メランコリー的ではないパラノイア的な「レトロフューチャー趣味」の核心である。実現しなかった過去の未来像は、このとき、現在の作品や製品を、現代の文化と社会を、形成する母胎になっている。その意味で、可能だったもうひとつ別の未来は現在を構成しているのだと、デューリングは言う。過去の未来、レトロフューチャーは、現在を潜在的なレヴェルで構成しているのだ、と。

 ベルクソンは既視感のメカニズムを考察しながら、現在の知覚と過去の思い出が同時に生成していると主張した。デューリングはこの「現在と過去の二重生成」を敷衍して、レトロフューチャーがベルクソンの言う「純粋な思い出」として、「潜在性」として、いまここのただなかで作動しているとする(こう言ってよければ、まさに「痕跡過剰性」の一形態ということだ)。だからこそ、ジャック・タチ監督の映画『プレイタイム』(1967)やアメリカのテレビドラマ・シリーズ『マッドメン』のように、レトロフューチャーはしばしば、過去のものなのか現在のものなのか判別できない。むしろ「無時間的なもの(ユークロニー)」として、時間に縛られずに反復される「シミュラークル」として、立ち現れる。過去のものなのに現在のように見えてしまう。はたまた、現在のものなのに未来に再発見されるだろう過去のように見えてしまう。あえて古色のエフェクトを付加するポラロイド写真のように、レトロフューチャー趣味は虚構の時間性でもって現在を別の未来へと生成変化させる力なのだとして、講演はデューリングの美しい息子のポラロイド写真で締め括られた。

 想像力や思い出は、たんなる無力な思念なのではなく、現在を未来へと生成変化させる潜在性として現に力を振るっている。レトロフューチャー趣味のパラレルワールド的な想像力をベルクソン=ドゥルーズの潜在性の議論につなげてみせるところは、デューリングの才気が存分に発揮されているように思う(理論的な枠組み自体は、率直に言って、さほど目新しくは見えないにしても──デューリングの美術批評を読んでいつも抱く印象もおおむね同様だ)。デューリングといい、あるいはパトリス・マニグリエやクァンタン・メイヤスーやトリスタン・ガルシアといい、SF的なポップカルチャーと現代アートを巧みに形而上学の議論につなげるのは、フランスの新しい世代の哲学者たちにある程度共有された趨勢なのかもしれない。

 とはいえ、それが形而上学の「図解」よりも先にまで進むことができているかどうかは、それはそれとして検討すべき問題だろう。講演中にほのめかされた潜在性一元論とでも言うべき立場──「未来は存在せず、存在するのはただ現在のただなかで作動する力としての過去だけだ」──に対して、レトロフューチャーはさらに新たななにかを思考させはしないのだろうか。現在に違和感なく浸透してしまうシミュラークルとしてのレトロフューチャーと、現在を積極的に異化する結晶イメージとしてのレトロフューチャーは、たしかに潜在性という点では同じかもしれないが、それでもその差異は等閑視してかまわないものなのだろうか。つまりは、過去の未来という名の潜在性のただなかにおける現在の知覚の地位、「純粋な思い出」に対する「純粋な知覚」(ふたたび換言するなら「痕跡過剰性」に対する「感性過剰性」)が、次には問題になるように思う。

(2014年5月22日)