「高く見えた」から改造
韓国では、二〇〇〇年七月から東亜大学校博物館によって、前方後円墳の後円部(彼らは第一号墳と呼ぶ)の発掘調査がありました。二〇〇一年秋に沈奉謹教授が発表した「加耶地域と国際交流──固城松鶴洞古墳群」(『東アジアの古代文化』一〇九号、大和書房)で、次のように報告しています。
〈(一)調査を実施した結果、第一号古墳は前方後円墳ではなく、三基以上の大小古墳群が重複していることを現地説明会で報告することになった。
(二)メインの1A号墳には頂上からさほど遠くないところに都合一一基の竪穴式の石槨が配置されるなど、中小の石槨が見られる。これらはメインの墳丘が築かれたあと、また墳丘を掘ってその中に石槨を配置する過程での重複、補強土の攪乱状況など、埋葬当時の特徴を通して築造順序の先後関係が明らかにされている。
(三)1B号墳は、従来前方部と知られていた北方に当たる部分である。(中略)西南方と西北方の封土層からも陪葬や追加葬と想定される小型の石槨が現れた。
(四)1C号墳は、前記の両古墳の間にある。(中略)この古墳はその位置や構造から見て、三基の中でもっとも遅い時期に築造されたものと推定されるが、残存する遺構の規模や形態から、前記した両古墳よりは高く見えたと思われる〉
今回、前方部にも前方部と後円部間の窪地にも遺跡が出てきたことで、三基以上の古墳が出てきたとし、前方後円墳ではないと早トチリをしたのです。
これは後円部のみに被葬者の石室・石棺があるはずとの固定観念によるものです。日本でも西殿塚古墳をはじめ、後円部と前方部に複数の石室・石棺の例があるにもかかわらず……。
また、最後の1C号墳が「両古墳より高く見えた」という意味が不明です。遺物が立派だったから、円丘は高くなくてはならないということになるのでしょうか。
五世紀後半から六世紀前半にかけての任那・伽耶(加羅)地域が、倭国とどのような外交・軍事、そして社会的関係にあったかという文献的知見を見ることなく、ただ「前方後円墳否定」に走ってしまったのは残念なことです。
韓国の考古学界は、この問題について、(1)前方後円墳とは認めない、認めたくない、(2)発掘したら三基の墓が出てきた。前方後円墳でない恰好の理由だ、(3)窪地の第三墓の上に新たに円形の盛土をした、という大きな三つの誤りを犯してしまいました。
鳥居龍蔵による古墳調査の写真、そして姜仁求教授の精密な外形の測量調査結果を無視してはいけないのではないでしょうか。
沈奉謹教授はなぜ、一九九六年まで、一千五百年来固城湾を望み、美しいたたずまいを見せていた松鶴洞前方後円墳を、ただ学会の勢いということで、前方と後方を二分し、その間に醜悪な小山を造ってしまったのでしょうか。
ただ「高く見えたと思われる」の一言で、遺構の未来とその美しい外観をバラバラにしてしまったのではないでしょうか。現在の日韓の人たちに対して、また同時に往時の伽耶・加羅の人、その地で交易をおこなってきた倭国の居留民に対して、あまりにも心ない行いと言わざるをえません。
津田左右吉の功罪
このような韓国側の改竄・捏造を日本人の学者も充分に知っているはずですが、なぜ「だめだ」と言わないのでしょうか。なぜ迎合しているのでしょうか。彼らは、指摘してしまうと韓国側から資料をもらえなかったり、お互いの学会の交流ができなくなってしまうであるとか、変なことばかり気にかけているのです。
ですから、「任那」という言葉も使いたがらないのです。これはおかしいことです。事の善し悪しは別にしても、事実は事実として、後世の人のために残すべきです。
教授の方針に逆らえば、准教授の立場もなくなります。当然、学生も逆らえません。ですから、最近の学生がやっているのが木簡の研究です。木簡は「字」が書いてあるわけですから、否定のしようがない。完全に確かなものしか研究できなくなっていて、木簡の研究をせざるをえないのです。そうすると、他のことがおろそかになってしまうという悪循環が起こり、日本の歴史学、特に文献歴史学が遅れているのです。
これらの左翼的学会の風潮をつくったのは、津田左右吉です。
彼は、『古事記』『日本書紀』の仲哀天皇以前は作りものである、ということを書いたために、昭和十七年、「皇統を蔑視した」ということで裁かれます。
皮肉なことにミッドウェー海戦の直前に東京高裁で禁錮二年・執行猶予つきの判決が出ました。一番日本の国力が上がってきたときに実刑にせず、執行猶予つきの判決ですから、ずいぶん公平な判断を下したと思います。
ただ、それを戦後の学者が「津田先生は偉かった。裁判にまでかけられて、政府に反抗した」というように利用しようとしたのです。
戦後数年経って、『世界』が津田左右吉に論文をお願いして、それがまた騒ぎになりました。
津田左右吉は「自分は皇室否定論ではない」という論文を書いたのです。そのことに左翼連中がびっくりして、「これはないことにしてくれ」と言ったのを突っぱね、それ以降津田左右吉は論文を書かなくなってしまいました。
一方、津田左右吉の名前と戦前の学説だけが残り、裁判を受けたという事実をもって、学者たちは彼の名前を利用しながら、戦後日本の社会主義的風潮に乗っかってしまったのです。
世界でも稀有な例
そして、これを良しとしたのが、朝鮮半島の歴史学者たちです。これにより、彼らが触れることを避けてきた「日本人が朝鮮半島で高句麗と戦い、新羅王城を攻め、一時期は百済の宗主国的役割を果たしていた」という研究をする必要がなくなってしまったからです。
今は百済も新羅も、大陸の隋や唐も滅亡しましたが、ひとり我が国のみ、善し悪しは別に、絶えることのない歴史のつながりの中に生き続けているのは、世界でも稀有な例であり、誇らしいことでもあります。
任那について否定する風潮が続いていますが、歴史というものは、善悪は別にして史実は史実として研究を重ね、明らかにせねばなりません。その意味で、極端な左翼史観や、極端なナショナリズムにとらわれることのないよう、研究を積み重ねていってほしいものです。
大平裕(おおひら・ひろし)
一九三九年生まれ。東京都出身。東京教育大学附属高校より慶應義塾大学法学部政治学科へ進み、六二年古河電気工業に入社。同社海外事業部第一営業部長、監査役、常任監査役を経て二〇〇一年退社。現在は大平正芳記念財団の代表を務める。著著に『日本古代史 正解』『日本古代史 正解 纒向時代編』『日本古代史 正解 渡海編』(以上、講談社)、『知っていますか、任那(みまな)日本府』(PHP研究所)などがある。
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