円墳にされた松鶴洞古墳
韓国の古代史改竄、捏造によるおかしな歴史の主張は広開土王碑だけではありません。
一九八〇年代、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道、とくに南道の栄山江沿いに十四基の前方後円墳が次々と発見されました。
前方後円墳は日本に固有のものと考えられてきましたから、韓国の学者はここぞとばかりに、「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられた」と声高に主張しました。
しかし、その主張もほどなく破綻しました。
なぜかというと、日本では岩手県から鹿児島県までの広い範囲で前方後円墳が多数見つかっており、造営された年代も明らかに韓国の前方後円墳より古かったからです。前方後円墳は日本で独自に発達した墓制(=墓のつくり方)であり、日本(倭国)から朝鮮半島に伝わったものなのです。
そして、朝鮮半島で前方後円墳が見つかった地は、『日本書紀』が記す任那西部の地なのです。任那をめぐっては、その存在に言及することすらタブーとされる風潮がありますが、史実を政治的な理由で曲げてはなりません。
ところが、前方後円墳と確認されながら、政治的事情のため「三つの円墳」にされてしまった古墳があります。それが慶尚南道の沿海部固城の中心部にある松鶴洞(ソンハクトン)古墳です。固城は古来、小伽耶とも呼ばれ、固有名は古自、古嗟、久嗟ともいわれ、任那南部の一国に数えられていました。
松鶴洞古墳の概要は以下の通りです。
〈全長六六m、後円径三七・五m、前方部が若干丸みを帯びるが、円墳二基ではなく、前方後円墳として認識される。後円部上に石材が露呈するが、かつて鳥居龍蔵によって一九一四年に発掘された竪穴式石室の一部で挂甲(小札)など鉄器が出土している。また墳丘上から五世紀代の土器が採集されており、古墳のおおよその時期が推定される。周囲には六基の円墳が、あたかも陪塚群のように分布し、さらにその東側二〇〇~五〇〇mに三基、北三〇〇mほどの基月里に二基の古墳が遺存する。かつては相当数からなる古墳群であったようである。固城は小伽耶国に比定されるが、その中心は地理的にみても、この松鶴洞古墳群付近であろう〉(『韓国の古代遺跡 2百済・伽耶篇』中央公論社)
左の実測図は、一九八三年六月、嶺南大学校の姜仁求教授が「韓国の前方後円形墳」という題で論文を発表したものです。
この発表により、戦前からいわれていた松鶴洞古墳の「前方後円墳」は確定したかにみえましたが、その後、おかしな方向へ進みます。
その原因は、韓国の学者たちの日本から前方後円墳が伝わったなどありえない=認めたくないという極端なナショナリズムと、それに同調する一部の日本人学者によるものです。韓国では、「日本の文化はすべて韓国から渡来した」と主張する人々がおり、前方後円墳韓国起源説を唱える学者もいますが、現在では、前方後円墳は日本で独自に発展したものであるというのが定説です。
古代遺跡を改竄工事
ところが、この松鶴洞古墳にある“悲劇”が起こります。
上記の写真をご覧ください。一九九六年撮影時は前方後円墳であったものが、二〇一二年撮影の写真では、三つになっているのがわかります。なぜ、こんなことが起こってしまったのか──。日本考古学の第一人者、森浩一氏の『森浩一・語りの古代学』(大巧社)にその経緯が語られています。
〈松鶴洞(ソンハクトン)古墳を案内なしに自分の眼で確かめたく、一九八三年八月に現地を訪れた。十年あまり前の扶余での見学とは違って、まぎれもないダブルマウンドが丘陵上に造営されていて、現状、つまり原形では前方後円墳の仲間に入れることに少しの躊躇も覚えなかった。(中略)
その後、松鶴洞古墳については、現在の形が近年の変形であるというような噂話がひろまったりしたが、日本の古墳の例ではそれらは取るに足らない噂話にすぎなかった。はたせるかな、そののち姜先生の努力で故鳥居龍蔵先生が戦前に撮影されていた古墳の側面からの写真が発見され、ぼくは噂話が意図的に流されていると感じ、不快であった。
「発掘もある種の遺跡の破壊である」という原則が考古学界にはあって、どの学者もたえずその言葉をみ締め自戒する必要がある。ぼくは今回の松鶴洞古墳の発掘ほど、この言葉を感じた発掘は他に例を見ない。発掘によって、かつていわれていたような近年での変形を示す兆候は何一つないのに、どうして原形がダブルマウンドなのかの前提を抜きにして、数基の円墳連続説が発掘の開始直後から提出され、その説が導かれる過程ではなく、結論だけが流布された。
これは学問の手順として明らかに間違っているし、学問の名において文化財を変形・改変することになる。友人の多くは発掘を見学してきたが、ぼくは現地を見るに耐えられず、見に行かなかった。ぼくには発掘される以前の、あの美しい墳形が今でも瞼に焼きついていて、それで充分である。
福岡県筑紫野市に剣塚という六世紀の前方後円墳があって、横穴式石室が埋葬施設である。これがこの古墳の原形だった。ところが高速道路の建設で、現在の墳丘を取り除くと、墳丘の下には数基の古墳があることがわかり、前期古墳(古剣塚)を取り込んで、六世紀に若干の盛土を加え、前方後円墳に造り替えていることがわかった。
松鶴洞古墳の円墳連続説には、数人の日本人学者も賛同した言辞はみられるが、この人たちは剣塚と古剣塚の関係を報告書で読んだことがあるのだろうか。読んだのに知らぬことにしているようでは、勇気ある学者とはいえないし、応用能力もあるとはいえない〉(『悠山姜仁求教授停年紀念 東北亜古文化論叢』二〇〇二年二月)