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人類は如何に神々として滅びるか(仮)

なるだけ読みごたえのある記事を

バカは「難しいことを簡単に教えられるのが頭の良い人間だ」と考える

読み物

 われわれ選ばれたる民であるところの大多数のバカは、一般的に、「難問」ということについて、こういうぐあいに考えている。

難しいことを簡単に話せるのが、頭のいい人間だ。

 と。

 しかし、われわれは頭が悪い、その上教養のないバカなのであるから、本当には彼が頭がいいかどうかは分からない。本当には分からないことは、われわれにとって、本当にはどうでもいいことである。したがって、もっと実状に即して、われわれの心情を表現するならば、

どんな難問でも、われわれにも分かるように話をしろ。それができないのなら、われわれはお前たちを認めない。 

となる。

 われわれは、自身がバカであることに安住するバカであるから、新書を読み、入門書を読み、自己啓発本を読み、ビジネス書を読んだとしても、それらの大元になっているであろう学問的な領域までは踏み込みはしない。

 われわれは、自分たちがバカであることを知っているが、自分たちが全然理解できないものがあるということを認めることがが苦手である。われわれは、バカとして

すべてのものは、簡単に教えることができるはずだ 。

 と信仰し、

すべての難しいことを、簡単に理解させろ 。

 と要求し、欲望する。努力研鑽なしに、知識教養なしに、である。

 

 しかしながら、少し考えてみれば分かることだが、「難しいことがら」というものは、「簡単ではない」から「難しい」のである。ということは、「簡単には教えることはできない」し、「簡単には理解できない」からこそ、「難しい」のである。背景となる知識がなければ、もしくは優れた頭脳がなければ、多くの場合、その両方をあわせもって、しかも知的な努力に時間を費やさねば理解できないからこそ、「難しい」のである。(ちなみに、知的努力とは、われわれ選ばれたる民にとってもっとも忌避すべき、そしてもっとも激しい憎悪の対象である。)

 

 したがって「難しいことを、簡単に教える」とは、一つの論理矛盾である。

 もちろん、われわれにとってみれば、矛盾でも何でもかまいはしない。

 ただし、矛盾しているにも関わらず、とにもかくにも、われわれバカの中で成立しているとすれば、その成立に寄与している何らかの手段があって、機能しているはずである。

 この場合、「一知半解」とよばれるものが機能している。

 

 謹厳実直な頭の良い人間が、自分が専門としている領域において、難しいとされていることを「簡単に教えてくれ」と乞われても、困惑してしまうことだろう。

 しかし、一知半解、生半可に分からせてやればよいのだよ、という助言をもらえば、そのことに徒労を感じるかもしれないが、やってやれないことはないと思えるはずである。(彼が恋する男(女)であり、恋をする対象の美女(美男)から頼まれたとするならば、やすやすとやってのけてしまうこと請け合いだ。)

 

 われわれは生半可にしか理解しない。頭のよい人間の中で、処世術に長けている人間はそのことが分かっているので、複雑な部分をはしょって結論だけを教えてくれたり、理論的な説明を放棄して、ある直喩によって分かったような気にさせてくれる。例えば、ある現象とか、ある理論を、男女の仲にたとえて「教えて」くれるのである。

 もちろん、難しいことがらを理解した上で、簡単に教えてくれる頭の良い人間は、それで本当に、われわれバカが難問を理解したとは思っていないだろう。頭の良い人間は少数者なので、われわれが大多数を常に維持し、またこれからも維持するであろう、この世の中でうまくやっていくには、われわれに「分かったと思い込ませてやる」のが良策だと知っているのである。

 

 われわれは、われわれ自身をバカだと認識していながらなお、われわれが理解し得ない物を憎む。なぜなら、「何だかよくわからない物」は、それだけで恐怖の対象だからである。われわれの理解が、憐れむべき、それこそバカげた、あまりにも低レベルのものであっても、かまいはしない。われわれの理解にとっては、そこが限界だからである。われわれは、生半可に理解したとたん、「いやあ、さすがに頭がいい人だ。説明がわかりやすい」と言って、本当には何一つ理解していないまま、満腹した『豚のように幸福に熟睡』する。

 

 われわれは、われわれが理解し得ない物を憎む。

 学問を理解するには、それなりの頭脳の優秀さと、学問的な研鑽が必要である。したがって、われわれは学者を憎む。少なくとも、われわれに媚びようとしない、われわれに、一知半解させようとしない、狷介な、だからこそ学問的良心には忠実かも知れない学者まで憎むのである。

 芸術を理解するには、それなりの資質と、芸術各分野の(美術の、演劇の、音楽の、文学の)素養を身につけていなければならない。したがって、われわれは、芸術家や、彼等を擁護する批評家を憎む。それよりも、娯楽の、大衆の、通俗の、エンタメの、表現者を称揚する。理由は、われわれによく分かるからである。

 

 われわれは当然の権利として平等を求める。われわれより何か一段、二段、高いところに存在している権威は面白くない。われわれは、地球の全表面を水平にしたいと欲望している。われわれが認めるのは、その高いところから自ら降りてきて、われわれにニコニコと愛想笑いをふりまき、握手の手を差しのべてくる者たちだけである。

 こういうわけで、われわれバカは、今日もこう主張する。

難しいことを簡単に話せるのが、頭のいい人間だ。

 

 

 ちなみに……この言葉の対になっている、われわれバカがよく口にするもう一つの言葉に

簡単なことを難しく話すのは、バカだ。 

 というものがあるが、ここに属するものの多くは、おそらく知識教養をある程度持っているバカである。こういうバカは、大きな枠組みでとらえると、われわれのようなバカと同じカテゴリーに属する、いわば親戚筋である。ただし、近しいけれども違っている二つのものは、往々にして憎み合うという一般原則にしたがって、こういうバカと、われわれのようなバカは近親憎悪の関係にあるのだ。

 

 

 古人はおそらく正しいことを言っている。われわれを救ってくれるのは、死のみのようである。

 

 

河童之国探偵物語--クヮヌノットの醜聞--