メメントモリ・ジャーニー メレ山メレ子

2016.5.9

17新しい故郷

 


 物心ついたときから、片方には山、もう片方には海があった。
 わたしの故郷、大分県別府市は、由布岳・鶴見岳から始まる扇状地の上にできた町だ。家の前の急な坂をずっと下っていけば、その先は穏やかな別府湾に続いている。
 東京に出てきたとき、山と海のどちらも見えない暮らしにすごく違和感があった。旅行に出ても同じだ。険しい谷合いの村、頭を揺さぶる風が吹く外海の島、都会の下町。どこに行っても故郷の風景を思い出す。まるで、答え合わせをしているかのように。
 こうして書くと故郷が大好きなようだが、帰省の足は重い。ここ数年、連休は本の取材や海外旅行やイベントに消え、帰省は完全に後回しだった。この2月、4連休が取れそうだし大分に帰ろうとふと思い立ったが、その前は、と確認してみるとなんと3年前だった。
 家族と仲が悪いわけではない。むしろ大人になってからのほうが、親も不完全なひとりの人間であることを理解し、新たな長所を見つけてもいる。でも、大分は遠い。いつでも帰れるという甘えが、足を遠ざける。そして山の緑と海の青の間に広がる灰色の街並みには、思い出したくないこともたくさん詰まっている。



 

 大分空港から別府市までは、バスで40分ほどかかる。別府の観光港で途中下車した。フェリーの発着所に展示されているはずの、マイケル・リンの壁画を見ようと思ったのだ。
 2階建てのがらんとしたフェリーターミナルをしばらく歩きまわったが、見当たらない。乗船窓口の男性職員に訊くと「作家さんのご厚意で展示を延長していたんですが、昨年に撤去されました……」と、すまなさそうに教えてくれた。


 落胆したが、このフェリーターミナル自体、懐かしい場所だ。港には大型フェリー「さんふらわあ」が停泊している。白い船体に描かれた太陽のマークは、小さいころから馴染み深い。京都に住んでいたころ、ひと晩かけて大阪から別府に向かう便をよく利用した。小さいころ、妹と共に父に連れられて愛媛県の宇和島に渡ったこともある。瀬戸内海を行き来する船は揺れも少なく快適で、「船に泊まる」というちょっと特別な体験に、いつも心が躍った。

さんふらわあから見た別府(2008年撮影)

さんふらわあから見た別府(2008年撮影)


 温暖で穏やかで、漁船や客船やタンカーなどの船がたくさん行き来していて、生活のための海の道という感じがする。そんな瀬戸内海が好きだ。


 実家に帰る前に、温泉に行くことにした。別府は、どこでも掘れば温泉が涌いてくる世界規模の温泉地だ。格安の公衆浴場や、源泉をじかにお風呂に引いている家も多い。実はわたしの実家もそうなので、住んでいたころはわざわざ外の温泉に入りに行く気がおきなかった。
 東京や旅先で「別府の出身です」と言うと、だいたい「いいところですね!」と返ってくる。温泉地のイメージのみで言っている場合もあれば、「昔、修学旅行で地獄めぐりや高崎山に行った」という人も。工芸作家さんが、最新のアートスポットについて教えてくれたりもする。
 しかし、わたしはあまりうまく切り返せない。地元すぎて、外向きの情報をよく知らないのだ。大学入学以降は別府で過ごしていないから、おいしいお店も紹介できない。よそを旅行するときは、がつがつスポットをまわっているのに。故郷に無知なことがだんだん恥ずかしくなってきて、有名な竹瓦温泉くらい体験しておこうと思ったのだ。
 竹瓦温泉は、別府駅の東側の北浜というところにある。砂湯と温泉のセットをお願いすると、まずは砂湯に通された。浴衣を羽織って砂むし場に横たわると、砂かけのお姉さんが体の上にシャベルでこんもり砂をかけてくれる。「このまま15分おきますね」とのことだ。
 首だけを残し、温かい砂にぎっちり包まれている。2階建ての高さの格子天井に湯気が昇って、天井付近のガラス窓から入る陽射しにゆらめいている。背中からじわじわと熱が伝わってきて気持ちいいが、腰にかなりの重量がかかるので腰痛持ちにはおすすめできない(正直言って、ちょっと辛かった)。
 砂湯の次は温泉だ。古い温泉の浴槽は狭く、お湯は飛び上がるほどに熱い。じりじりと体を沈めても、誰かが入ってきてお湯が動くと「うっ」と呻いてしまうほどだ。だが、地元の婆さんたちはお湯を水でうめることを絶対に許さない。年をとるほど皮膚感覚も鈍感になっていくので、温度耐性は年々上がっていくのである。


 竹瓦温泉のまわりの路地も歩いてみる。わたしが小学生のころはかなりの店がシャッターを下ろしていたアーケードに、町おこしの成果か活気が戻ってきて、飲食店が増えているみたいだ。ちょっとお茶を飲みたくなるかわいい喫茶店も増えている。


 町のあちこちに、別府現代芸術フェスティバル「混浴温泉世界」を通じて作られた作品もある。


 アートNPO「BEPPU PROJECT」が運営しているお店「Platform04」に行ってみた。築100年以上の長屋で、大分名産の竹細工などのセレクトグッズを販売している。港では見られなかったマイケル・リンの壁画と対になるふすま絵を、ここの2階で見ることができた。空色の波模様の上に、台湾の伝統的な文様だというピンクの花が鮮やかに咲いている。2009年に「混浴温泉世界」に出品されたものだ。
 こういうモダンで美しいものが小さいころから自分の町にあったら、当時のわたしはどう感じただろう。そう思うのは、昨年の夏に行った越後妻有の芸術祭の記憶(連載第4回を参照:http://www.akishobo.com/akichi/mereco/v4)のせいだ。
 最寄りの本屋まで歩いて20分かかるような町に芸術家が来て、土地を観察し、その一角に何かはっとするようなものを嵌めこむ。彼らは古い家やものを、しばしば土地の人よりもストレートに評価してくれる。そういう作品は懐かしさと同時に「外」につながる自由さを感じさせ、客として見る分にはとても好きだ。しかし「中」にいたらまったく同じように楽しめるだろうか、という問いも必ずついてくる。「中」から自由でいたかった気持ちと「中」から逃げ出した後ろめたさが、自分の中にあるからだ。それは抜けかけた歯を指でぐらぐらと揺らしてみるような、血の味がするけれどやめられない確認作業だ。
 バブル崩壊と共に温泉街から灯が消え、そのあとの個人旅行ブームにも後れを取っていた別府の町に賑わいが戻ってきているのは、2000年に別府市内に創設された立命館アジア太平洋大学(略称:APU)の影響も大きい。市内といっても山の中腹にあり「別府のマチュピチュ」とも言われているが、学生の半分は海外からの留学生だ。彼らは別府市内の賃貸やアルバイト需要を支えるだけでなく、外国人観光客の対応なども行って、町に活気をもたらしているのだそうだ。
 今の会社に入ったとき、同期にAPU卒業生の韓国人の男の子がいた。同期が何人か大分に遊びに来ることになり「いっしょに来る?」と尋ねると、「無理。帰れない」と言われた。 「友達と行った温泉とか、原付に乗って通ったバイト先とか、懐かしすぎる。無理。今行ったら、帰れなくなる。ここで頑張れなくなる」
 研修中はいつも「メレ子、漢字よく知ってる! メレ子は僕の漢字の先生!」と明るかった彼の目に、涙が浮かんでいた。彼にとって、学生時代を過ごした別府はすっかり韓国に次ぐ第二の故郷になっているんだな、と思った。彼が思い出しているあの町は、わたしの記憶よりずっと現在に近い。そして、ずっときらめきに満ちている。
 そう言えば、研修中にカラオケに行ったら彼が「この歌、すっごい好き! 漢字の先生にこの歌を捧げるよ!」と、マイクを取って歌いだしたことがある。「えっ、歌を捧げられるなんてはじめて」といい気分で聴いていると「WELCOME ようこそ日本へ~」と歌いだしたので、ずっこけながら「立場逆だろ!」と突っこんだものだ。SMAPの「Dear WOMAN」という曲だった。


 駅前で買ったケーキの箱を提げて、バスで実家に帰った。父は仕事に出ているし、母も日中いないことは聞いていたので、鍵のかかっていないドアを開けて中に入る。すると、リビングの座布団で小柄な猫が寝ていた。猫の「シャチ」だろうか、と思ったが、手を伸ばすと不可解そうながらも触らせてくれる。シャチは人間不信気味の猫で、知らない人が大嫌いだ。この家を巣立った娘たちもシャチにとっては異物なので、帰省するといち早く逃亡し、数日姿を見せないことも多かったはず。
 「アンタ、それはシャチじゃないよ、アンタがおらん間に来た猫のミル(海松)ちゃんよ」
 こたつでみかんを食べながら猫とゴロゴロしていると、帰ってきた母にそう言われた。
 「シャチは人間不信やけど、ミルは猫不信なんよ。野良のときに猫にさんざん虐められて震えてるところを連れてきたら、鯛ちゃんに睨まれただけでおしっこを漏らしたわ。家からは一歩も出ようとせん」
 鯛ちゃんというのは実家でいちばん古株の猫で、さらにうつぼちゃんという計4匹の猫がいる。わたしが小学生のころから常に3~4匹の猫を飼っているが、どれも元は近所の捨て猫だ。


 帰省しても、地元の友人には連絡しない。Facebookでは小学校や中学校の同級生ともつながっているが、ニュースフィードに流れてくるのは第二子や第三子の七五三の写真などで、時の流れにめまいがする。ネットで知り合った人の子供の写真には「大きくなったねぇ……」と素直に感動できるが、小中学校の同窓生の飲み会写真を見ると、人間関係の地続き感に恐れ入ってしまうのだ。
 わたしは大学進学に伴い上京するまで別府に住んでいたが、別府の学校に通ったのは中学までだ。田舎の公立中学校で「成績のいい女子」であることは、居心地のいいものではない。「大分市の高校に行けば、友達はリセットされるのだからどうでもいい」と思うことにした。
 その私立高校の進学コースには県内各地から生徒が集まっていて、クラスメートたちも全国の有名大学に散らばって行くことを自然と受け入れていた。朝から晩まで勉強漬けで部活などの青春っぽい活動とは無縁だったが、何かがちょっと得意だからという理由で煙たがられたりしないという点では、中学よりよほど健全だと思った。
 Facebookに出てくる地元が怖いのは、一度も人間関係のリセットボタンを押していない人たちの博覧会のように思えてしまうからだ。地元を離れ、何度かコミュニティを変えながら暮らしてきた結果として、自分がより自分でいられる場所を探しつづけ、そうでない場所や人からは全力で逃げることの大切さを痛感している。しかし、リセットボタンは一度押すと癖になるのもまた事実。
 進学や上京でコミュニティが分かれてしまった人とのつながりは、かなりのマメさをもって維持していかないとすぐに切れてしまう。情の薄さや怠惰さから、自分を豊かにしれくれたはずの糸もちぎれてしまったなと思う。


 故郷で会いたい人は家族だけになってしまったが、これも全員が揃うことはまれだ。
 わたしにはふたりの年の離れた姉と、ひとつ違いの妹がいる。成人してからというもの、国外を含めてばらばらに暮らす四姉妹が一堂に会するのは、何よりお葬式の場が多かった。
 同居していた父方の祖母の葬式は、この家から出した。子供のころ、姉妹の中でいちばんかわいがられたわたしがいちばん悲しむべき筋だったが、晩年はずっと避けていた。祖母の愚痴や恨み節は年をとるにつれてひどくなるばかりで、耳に悪いものを流しこまれるように思えてならなかった。
 母方の祖父が亡くなったときは、福岡の葬祭場に親戚一同が集まった。お通夜が終わったらビジネスホテルに泊まって翌朝から告別式、火葬を済ませたら初七日の会食。一連の手続きに身を任せていると、非常時にこそしち面倒な手順を踏むことで心を落ち着かせる効果があるのかもしれない、と思える。祖父は大往生といってもいい年だったので、大きく取り乱している者はいなかったが。
 「こん子は昔から性格がきつうてねえ、かわいげがなかねえ」
 祖母が親戚との世間話の中で、大声で母を評するのを見たわたしたち姉妹は「誰に似たんやろうね」と小声で毒づいた。東京にいると、たまに「九州って男尊女卑がすごいんでしょ?」と訊かれたり、実際に九州出身の女性から「女は勉強なんてしなくていい、県外に出るなと言われた」と聞くこともある。先ほど書いた高校でもそうだが、家でもそんなことは一切言われたことがない。それは、母が男兄弟の中でさんざん「そんなこと」を言われ、悔しい思いをしてきたからだろう。
 「きょうだいの中で差をつけられたことは、大きくなっても忘れられんもんよ」と、母は今でもこぼす。母が娘たちに厳しく勉学を仕込んだのは、自分の轍を踏ませないためはもちろんだが「ほら、こんなに立派な孫を育てましたよ」と祖父母に誇りたい気持ちもあることに、わたしたちは薄々気づいていた。
 その祖母も、今はもういない。


 翌朝、父が庭に置いた鳥のえさ皿にヒマワリの種を足しに行った。
 「いい鳥が来るの?」
 「ぜんぜん来よらんわ。猫がおるけん」
 ゴルフと読書が趣味だった寡黙な父が野鳥に目覚めたのは、ここ10年ほどのことだ。ある日、庭に来たジョウビタキを望遠レンズで撮影したら、山並みと朝日を映したつぶらな瞳に魅入られてしまったのだという。毎週川に行き、カワセミやヤマセミのベストショットを撮るために何時間も粘るようになった。
 二番目の姉が「熱帯の鳥を撮ったら喜ぶのでは?」と提案し、父と娘たちでボルネオに行ったのが5年前。ボルネオではガイドに高山帯に連れて行かれ、あまり熱帯らしい鳥は見られなかったが、父は楽しんでくれたらしい。それから毎年、主にタイに通って野鳥を撮りつづけている。この原稿を書いている今も、LINEにタイの蝶や料理の写真が送られてくる。


 生きもの好きでつながるコミュニティは、わたしの大きなテーマのひとつだ。葬式のときだけ集まる家族を、生きものがふたたびつなげてくれたから、というのもその大きな理由である。父や姉たちと旅先で虫を探すのは、子供のときの毎夏のキャンプの記憶よりもさらに鮮烈に楽しい。
 生きもの好きの交流には、年はあまり関係ない。パソコン通信のころからネットに親しんでいた父だけでなく、母も娘たちの近況を知るためにSNSを駆使するようになったが、そのうち昆虫研究者や造形作家とも独自に連絡を取りはじめた。最近では大分に調査に来た若手研究者を家に泊め、激しくおもてなしすることもあるらしい。この奇妙な輪が、ずっと続いていけばいいなと思う。


 こたつの上のiPadからポーンと音がして、母が「今日の分が来た!」とiPadにかじりついた。メレ山家の初孫であるわたしの甥っ子の写真を、妹がiCloudで送ってきているのだ。毎日送ってもらっているだけでなく「今日はこれだけか」とさらなる要求をすることもあるらしい。恐ろしい。
 タブレットで長い時間をかけて「かわいい」とコメントを入力している母を見ると、娘が4人もいて、孫がひとりだけですみません……という気持ちに多少はなる。わたしは子供が欲しいと思ったことがないので、実際には頼まれても無理なのだが。
 昨年末のイベント「いきもにあ」(第11回参照:http://www.akishobo.com/akichi/mereco/v11)で、妹夫婦が連れてきてくれた赤ちゃんにわたしと姉も会えた。メレ山家の人々は赤ちゃんに歓喜し、いっしょに写真を撮りまくった。マメコ商会のブースを手伝ってくれていた姉の友達が、商品の中から子供用のかわいいTシャツを選んでくれて、甥っ子に着せてさらに盛り上がった。赤ちゃんは熱くて、笑っていても泣いていてもそこにいるだけで周囲を虜にした。なんて高エネルギーでありがたい感じの生命体なんだろう、と感じたのを思い出す。


 わたしはこたつで、新しい家の間取り図をグリグリ書きはじめた。年末に購入を決めた都内のマンションは、はっきり言ってオンボロである。多額の借金をしてまで買っていいものかどうか、不安しかない。だが、ガーナの珍妙な棺桶と同じく、今のわたしにとっては東京で踏んばるために必要なものなのだ。
 南東からたっぷり入る陽射し、リビングに面したキッチン。寝室は思いきって寝るだけの空間にして、ベッドの周りはふすまで仕切ろう。素敵な壁紙を貼れば、かなり印象が変わるはず。
 「狭いんだから、できるだけ引き戸にしんさい」
 母が激しく口を出してくる。言われなくても、わたしの住まいの原型はここだ。母がその昔、近所をうろついて好みの家に突撃し、設計士の名前を聞き出して引っ張ってきて作った思い入れ深い家。冬は死ぬほど寒く、子供には恐ろしい暗がりがいくつもあった。でも、学校から帰ってくるとキッチンのカウンター越しに、母にその日あった事件を逐一報告していたものだ。


 母方の祖父は、福岡県の大牟田(おおむた)にあった三井三池炭鉱の叩き上げだったらしい。
 祖父が亡くなったあと、母は自分が育った生家の土地を譲り受けた。祖父母が住まなくなってから人に貸していた家を母と見に行くと、そこはゴミ屋敷になっていた。家の中はゴミであふれ返り、ペットボトルや漫画雑誌が山と積んである。家の外で伸び放題のスイセンだけが、美しく咲いていた。ゴミ屋敷になっていなかったとしても、二束三文の土地だ。母がなぜここを望んだのか、正直納得がいかなかった。


 1年後に再び訪れて、驚いた。家を暗く陰鬱にしていた壁や屋根はすべて取り除かれ、明るく開放的になっている。トイレはコンポスト、お風呂は五右衛門風呂。何より変わったのが、台所の位置だ。以前は居間や客間から死角にあり、土間とつながって寒々しい台所だった。それがリビングの真ん中に移り、家の主役になっている。家の骨組みは残し、かなりの低予算でやってのけたらしい。
 別府からは車で2時間かかる場所だが、母は今でも隔週末ごとにここを訪れている。草刈りや庭木の手入れをしたあと、薪ストーブを眺めながらビールを飲んで眠りにつく。「YouTubeっちゆうのは、なんでも分かってなかなか便利なもんやね」と言うので、何を検索したのか訊いたら「ブロック塀の壊し方」だという。近所の人から機械だけ借りて、敷地内の塀を粉砕したらしい。わたしよりよっぽど有用に、YouTubeを活用している。
 自分が出てきた場所に対する落とし前のつけ方には、こんな形もあるのか。いい思い出ばかりではない場所も、生まれ変わらせて自分の王国にしてしまった。
 写真を見ていて、母が自分の生家から別府の家に引き継いだものが分かった。庭に面した縁側と、広い窓。元捨て猫たちがこよなく愛する、日当たり最高の場所だ。わたしはこれから作る自分の家に、何を持っていけるだろうか。


 最近、自分にとって「遠くに行く」とはどういうことなのか、よく考えている。
 この町に住んでいたころ、いつかここを出て行くことが自分の原動力になっていた。今は大変でも、いやな言葉に遭っても息が詰まりそうでも、すべては別の街で輝くためにある。
 でも、こうして都会で気ままに暮らして、休みのたびに遠い土地に行ったとしても、最近はそれだけでは駄目な気がしている。捨ててきた町で暮らす人たちを見ても、動揺せずにいられるための何かが足りない。
 猫のミルを、抱き上げて膝に乗せてみた。ミルは少し嫌そうにしたが、お愛想らしく喉を鳴らしはじめた。ほかの猫が怖いぶん、人におもねるしかない。そう思っている節がある、哀しい猫である。ここでは誰もお前を傷つけたりしないから、爪を立てたっていいのに。
 わたしが家を買っても、キッチンカウンターに身を乗り出してその日の報告をしてくる子供も、喉を鳴らす猫もいない。ほとんどの時間をひとりで過ごすことになる。それでも今は、自分の家を形にしてみたい。もう少し、東京で踏ん張ってみたいから。
 自分の心がもうひとつ遠くに行くために、何かを育てる。別に子供を産むとか、そういうことばかりではない。目の前の仕事を、もう一段丁寧にやる。自分と他人が心地よくいられる場所を作る。痛みを伴う正直な文章を書く。切り花を飾る。こういう小さな生きものが安心して暮らせるようにする。メールにもうちょっとマメに返信する。そうしたことのひとつひとつが、今いる場所を新しい故郷に育てていくのかもしれない。

 

 

(第17回・了)

 

昨夏よりお届けしてまいりましたこの連載は、今回で最終回となります。
ご愛読いただきありがとうございました。
書き下ろし原稿も加えた単行本を今夏発売予定です。どうぞご期待ください。