未曽有の被害をもたらした熊本地震。内輪話で恐縮ですが、あの日の出来事をお伝えします。
16日午前1時25分の本震直後、携帯電話が鳴りました。当直の部長からです。「停電です。輪転機も止まりました」。会社へ車を走らせました。4階へ駆け上がると、ロッカーや机が散乱していました。朝刊は3分の1印刷したところでストップ。「短時間での輪転機の復旧は難しい」との報告を受けました。
万一に備えて各新聞社は災害援助協定を結んでいます。熊日では1953年の熊本大水害で被災した際、鹿児島県の南日本新聞社に印刷を委託したことがあります。覚悟を決め、最短距離にある西日本新聞社に印刷の準備をお願いしました。
幸い輪転機が復旧し、午前7時に印刷は完了しました。しかし、16日付朝刊に本震のことは載っていません。記者たちは地震直後から闇の中に飛び出し、徹夜で号外と夕刊づくりを進めました。
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震度7の激震が2度も発生し、千回を超える余震が続いた例はありません。まさに前代未聞の震災。「余震が怖くて帰れない」と、避難者は最大18万人を超えました。九州の真ん中にありながら救援物資はなかなか届かず、水道やガス、交通網などが寸断され追い打ちをかけました。生活基盤を根こそぎにした地震が恨めしくなります。
昼夜を問わず家屋倒壊や土砂崩れ現場などを取材して回っています。被災者の毎日の生活に必要な情報集めにも奔走しています。実は避難所や車中泊の社員も少なくありません。それでも、避難所などで熊日を熱心に読んでもらっている姿に全従業員が励まされ、新聞をお届けしています。
日常のありがたさは、無くしたときに気付くものです。蛇口から水が出たときの喜び。顔が洗える、歯磨きができる、食器が洗える、洗濯ができる…。「ありがたい」の一言です。
「助け合い」「慰め合い」「励まし合い」といえば校訓みたいですが、各地でそんな光景が繰り広げられました。壊れたもの、失われたものは数知れずあります。半面、近所との付き合いや家族の絆が深まり、折れかけた心をそっと支えてくれたような気がします。
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水俣病公式確認から60年を迎えました。きょうの別刷り特集にあるように、人生に例えれば還暦を迎えたわけですが、いまだ被害の全容は明らかになっていません。
出口が見えないという点では、熊本地震も同じでしょう。自宅の再建、生活や経済基盤の立て直しはまだこれからです。
家屋の倒壊などで多くの尊い命が失われました。生死の分かれ目はどこにあったのでしょう。エコノミークラス症候群などに注意するよう警告されていたのに、二次被害を防げませんでした。ライフラインの重要性も過去の震災で指摘されていましたが、同じ轍[てつ]を踏んでしまいました。連載で検証しながら、熊本復興への道を探っていきます。
反省もあります。大地震が発生する可能性について3年前に報じながら、掘り下げた取材は続きませんでした。震災を経験した新聞社と研修も重ねてきましたが、本気度が足りませんでした。
「支えあおう熊本 いま心ひとつに」。熊日と在熊の民放5社の統一キャッチフレーズです。
震災前の日常を取り戻すまでには、長く険しい道のりが待っています。熊本城の再建一つとっても気の遠くなるような歳月が必要でしょう。被災者が置かれた状況も千差万別。足どりも一様ではないと思いますが、一緒に歩いていきましょう。(編集局長 丸野真司)
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