女性のための老子<12>天下皆美の美たるを知る、これ悪のみ
美も醜も相対的な人間の判断でしかない。とらわれず自分らしさを磨こう。 「女性のための老子」の第12回です。
2015年01月16日 公開
室町幕府が崩壊したあとの戦国時代、大いに活躍して天下統一の偉業を成し遂げていったのは織田・豊臣・徳川の三人の武将であったが、この三人のなかでは唯一、中国大陸に多大な関心をもったのが豊臣秀吉である。織田信長の死後、一応の天下統一を果たした秀吉は、中国大陸に攻め込んで明王朝を倒して、自ら中国の寧波に移り住んで中国と日本の両方に号令するという途方もない野望に燃えたのである。そのために彼は、全国の大名たちを総動員して朝鮮半島経由の大陸征服戦争を仕掛けた。だがその結果は、周知のとおりの大失敗である。秀吉の日本軍は中国の入り口である朝鮮半島で二度の敗退を喫した。
まさにこの征服戦争の失敗によって、その後の豊臣政権は一気に衰退の道をたどる。朝鮮出兵に対し配下の大名たちが賛成派と反対派に分かれたため政権内部に亀裂が生じ、戦争の遂行によって豊臣家の蓄えた富もかなりの部分を遣い果たした。秀吉の死後には天下の実権が徳川家康に移り、豊臣家はやがて破滅の結末を迎える。考えてみれば、強大な豊臣政権を破滅へと導いたその出発点は、まさに秀吉自身の抱いた中国大陸へのしょうもない野望だったのであろう。
豊臣家を滅ぼして天下を取った徳川政権は、秀吉の失敗に懲りたのか、「島原の乱」のあとは一貫して「鎖国政策」をとることとなった。徳川幕府の時代、対中国関係に限っていえば、幕府は中国と国交を結んだことは一度もなく、貿易関係も長崎の「唐人屋敷」だけを窓口とする限定的なものであった。総じていえば、江戸時代の日本は、中国大陸との関係が非常に希薄なのである。
そしてこの江戸時代の260年間こそ、まさに「平和と安定」の名にふさわしい天下泰平の時代であり、経済と文化が空前の繁栄を極めた時代でもあった。
このようにして、平安時代から江戸時代に至るまでの、日本の「治」と「乱」の歴史の変遷を見てみると、それはやはり、その都度の日中関係の持ち方と深い関係があるように見えるのである。平家政権、室町幕府政権、そして豊臣政権、中国に接近して関係をもった政権はことごとく短期間で崩壊したのに対し、中国と没交渉か関係の薄い平安時代や江戸時代においてこそ、日本史上もっとも安定した繁栄の時代が出現した。
やはり、日本が遣唐使の派遣を断って自らの文明文化をつくり上げた平安時代以来、できるだけ中国大陸から離れること、できるだけ中国の政権と一定の距離をもつことは、日本にとっての唯一の正しい道であり、日本人にとってのもっとも賢明な選択なのである。そしてその逆はむしろ、日本にとっての災い以外の何ものでもないのだ。
じつは近・現代史になってから、このような不思議な法則性がよりいっそう明確なかたちで現れてくる。たとえば昭和時代を概観してみると、昭和6年から20年までの14年間、日本は「満洲事変」を引き起こして中国大陸に本格進出して、やがて中国との全面戦争に突入した。有史以来、日本がそれほどまでに中国大陸に深入りしたときはほかにはないが、まさにこの14年間、日本はもっとも苦難に満ちた激動の時代を経験し、太平洋戦争の敗戦による外国軍の本土占領という、日本史上最悪の結末を迎えたのである。
昭和20年の終戦から昭和47年の日中国交回復までの27年間、日本は再び中国大陸と隔離された関係となった。しかしこの期間中、日本は驚異的な高度成長を成し遂げて戦後の繁栄と発展を築き上げることができた。中国とは没交渉のこの27年間こそ、日本の戦後の「黄金時代」だったのではないか。
いつの時代でも、歴史はつねに、「中国と距離をもったほうがいいぞ」との不変な法則を、まさに「天の声」をもってわれわれに教えているような気がする。
そして日本の歴史上、指導者階層がこのような「天の声」に耳を傾けて、中国という「災いの元」からできるだけ遠ざかる戦略を進めたときに日本はつねに成功して繁栄できた。だが、それとは反対の方向性へと指導者たちが走っていったときには、日本は往々にして深刻な危機を迎えることとなる。
以上、拙著の『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』の論考において導かれた日中関係史の「法則性」というものであるが、このような視点からすれば、中国が反日という「伝家の宝刀」を抜こうとするこの2015年と今後において、われわれはこの隣の大国といったいどう付き合うべきかは、もはや明確になっているのではないかと思う。
そう、先人の成功と失敗の両方を学び、その知恵と教訓からわれわれの引き出す唯一の正しい答えは要するに、できるだけ、かの国と距離をおいて日本独自の道を歩もう、との一言に尽きる。
中国という国と感情的・心理的距離をできるだけ置くことによってこそ、われわれはかの国のなかで行なわれている一方的な反日キャンペーンを遠くから冷めた目で眺めるような余裕ができ、それに対する過剰な反応を避けることもできるのである。
彼らがヒステリーな反日に走っていても、われわれは彼らと同じレベルで感情的反応を起こさずにつねに冷静な態度で日中問題を処理すれば、それが逆に日中関係の安定化にも繋がるのである。
国際政治のグレートゲームにおいても中国とできるだけ距離を置くことによってこそ、日本はより大きな展望に立ってスケールの大きな地球儀外交を展開できるのである。単独で見れば中国という国のサイズはとてつもなく大きく見えるのだが、より広い視点で見れば必ずしもそうではない。アジアは中国だけではない。インドもあればベトナムもあり、インドネシアもあればフィリピンもある。そして中国大陸の北のほうには広大なロシアの大地が広がっており、南シナ海の向こうにはオーストラリアというもう一つの大陸国家がある。そういう国々は全員、日本にとっての潜在的あるいは顕在的友好国であり、日本が今後大いに連携していくべきパートナーなのである。
日本は経済と国際政治の両面においてそれらの国々とより緊密な関係を築くことができれば、中国はべつに怖くはないし、中国との関係のギクシャクが日本の国際的地位と安全保障の基盤を揺るがすこともない。そして逆に、国際的立場が強化された日本はもっと余裕をもって中国と是々非々で渡り合うことができ、日中関係はむしろより安定した健全なものとなるであろう。
そして最後、今後において中国経済は史上最大のバブルの崩壊にともなってとどまるところなく転落していくなかで、日本の経済界が「バラ色の中国市場」に対する熱い幻想をあっさりと捨て去り、中国と距離を置くような方針に転じるのであれば、それは将来の日本経済にとってもむしろ吉であろう。距離を置くことによって日本経済は、中国経済転落の道連れにされた韓国の二の舞にならずに済むし、より大きな視野での国際戦略を展開することによって日本の未来の繁栄を保持することができるのであろう。
とにかく、心理的な面においても、国際政治と経済の両面において、中国と距離を置いてより広い視野での国際戦略を展開していくことこそ、われわれの歩むべき正しい道であり、日本の未来にとっての保障となろう。それはすなわち、かつては中国人だった筆者が、この2015年の冒頭に、日本と日本人に呈したいささやかな助言なのである。
<掲載誌紹介>
2015年2月号
2015年は戦後70年の節目の年。6月23日は沖縄戦終結から70年、8月6日は広島原爆投下、9日は長崎原爆投下、15日は70回目の終戦の日である。今年は本誌でもさまざまなかたちで先の大戦と戦後を考えてみたい。
その第一弾が、2月号総力特集「戦後70年 日本の言い分」。産経新聞の古森義久氏とジャーナリストのマイケル・ヨン氏は、慰安婦問題の裏には日米韓の関係を切り裂こうとする中国の姿が浮かび上がると喝破する。山本七平賞を受賞した石平氏は、「中国は7月7日の『盧溝橋事件記念日』、8月15日の日本敗戦の日、そして9月3日という中国が決めた『抗日戦争勝利の日』を最大限利用して、全国規模の反日キャンペーンを盛り上げていく」と予測する。日本の外交が試される1年になりそうだ。
第二特集は、経済、財政、安全保障、政局というテーマから「新安倍政権に問う」ことで、日本の抱える問題を浮き彫りにした。「景気回復、この道でOK?」と題した有識者・エコノミスト4名によるバトル座談会は、消費増税の延期、アベノミクスの出口戦略など、日本経済の根本問題を忌憚なく論じていて、思わず唸ってしまう。
巻頭の対談では、1月24日公開予定の台湾映画『KANO』について、プロデューサーの魏徳聖氏と李登輝元台湾総統が語り合った。
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