女性のための老子<12>天下皆美の美たるを知る、これ悪のみ
美も醜も相対的な人間の判断でしかない。とらわれず自分らしさを磨こう。 「女性のための老子」の第12回です。
2015年01月16日 公開
日本は中国にどう対処すべきなのか。それは、2000年以上の日中関係史を見ればすぐにわかることなのである。
世界のどこの国の歴史にも、いわば「治世」と「乱世」との周期的交代がある。日本の場合、たとえば内乱の戦国時代が終われば安定した江戸時代となり、黒船の来航によって「徳川300年」の夢が破れると、日本列島は一気に「幕末維新」の動乱期に突入するという具合である。
この「治」と「乱」の交代サイクルに何らかの法則性がないのか。それこそが歴史学の永遠なる研究課題の一つであるが、日本の歴史に限って「治」と「乱」の交代サイクルに注目すると、一つ、じつに不思議な傾向が浮かび上がってくるのである。
それはすなわち、日本国内の「治」と「乱」の交代は、日本と中国大陸との関わり方に深い関係をもっているかのように見える、ということである。つまり、日本が中国大陸に深入りしたとき、あるいは中国の王朝に接近して深いつながりをもったとき、日本国内は往々にして動乱の時代に突入してしまう。逆に、中国大陸から遠ざかって緊密な関係をもたないとき、あるいは中国の王朝との交渉を中断した時期、日本の国内はむしろ安定していて長期的な繁栄を享受できた、ということである。
日本の政治権力との関係からいえば、日本の歴史上、中国と濃密な関係をもち中国に深入りした政権は往々にして短命に終わっているのに対し、中国と一定の距離を保った政権は逆に長持ちする、という不思議な現象にもなる。
この傾向が強く表れてきたのはやはり、日本がすでに中華秩序からの脱出を果たした平安時代からである。この時代、日本は政治体制の面においては中国から導入した律令制を骨抜きにして、日本独特の封建制へと移行しつつある。平安時代初期の百年間こそ、日本はそれまでの習慣に従って中国への遣唐使派遣を断続的に行なっていたが、894年に遣唐使派遣が正式に廃止されると、以後200年間、日本は中国大陸とはほとんど没交渉の時代となった。ある意味では、平安時代というのは、日本がそれまでの歴史のなかで中国大陸からもっとも遠ざかった時代なのである。
そしてこの平安時代こそ、日本の歴史のなかでもっとも長い「平穏の時代」が続いた幸せの歳月であった。300年近くにわたるこの時代において、「平将門の乱」などの局部的な地方反乱がたまに起きた以外には、国内は至って平穏にしてまさに「天下泰平の世」であった。中国大陸と没交渉になってから、『古今和歌集』や『源氏物語』の誕生に象徴されるような国風文化の開花が見られて、絢爛優雅な王朝文化が生まれたのである。いまの日本人にとっても、平安時代はまさに憧れの素晴らしい時代であろう。
平安時代の「平安」を破ったのは「保元・平治の乱」だったが、内乱の平定に活躍した平清盛は、平安朝を乗っ取ったかたちで自前の武家政権をつくった。だが、天下を取ったあとに清盛は気を大きくしたせいか、とてつもない大事業に着手した。彼は音戸の瀬戸や大輪田泊などの港を整備して中国・南宋との日宋貿易を盛んにした。清盛の手によって、遣唐使の停止以来中断していた中国への通航ルートが再開され、日本は中国に再び近づいた。
しかしこの平家政権はやはり、一代の繁栄で滅びることとなった。中国との貿易などとは無関係な東国の「田舎武士」たちが立ち上がると、「国際派」の平家政権はたちまちにして崩壊してしまった。
平家政権のあとの鎌倉幕府は、最初から中国大陸と関係の薄い政権であった。幕府の執権たちはたびたび中国から禅僧を招いて禅寺を開いた以外に、中国の王朝とはほとんど接点がなかった。そして、平家とは同じ武家政権でありながら、鎌倉幕府は短命に終わらずにして、140年以上の長期政権を維持することができた。
だがたいへん不運なことに、鎌倉幕府が自ら進んで大陸との交渉を求めなかったにもかかわらず、今度は向こうから無理やりに押し寄せてきた。中国大陸を征服したフビライの元寇であった。そのとき、武士たちが一丸となって団結してそれを撃退したのは日本の歴史の幸いである。もし日本がモンゴル軍によって占領されて、いわば「蒙古版中華秩序」のなかに組み込まれていったら、日本はどれほど惨めな国となっただろうか。
しかし日本側の勝利には大きなコストも伴った。幕府が無理をして祖国防衛の大戦争を遂行したことは結局、御家人たちの不満を招き幕府体制の弱体化をもたらして、やがて鎌倉幕府の崩壊につながったことは歴史学上の定説ともなっている。考えてみれば、鎌倉幕府の崩壊を招いたのはやはり、大陸のほうからやって来た「祟り神」なのである。
鎌倉幕府に取って代わって日本を支配した室町幕府は、史上2番目の正式な武家政権である。だが、最初の鎌倉幕府と3番目の江戸幕府を比べれば、室町時代における天下泰平の時期はもっとも短く、むしろ動乱の時期が長かった。足利尊氏が将軍職に就いてからも約60年にわたって「南北朝争乱」の時代が続いた。3代将軍義満の手によって南北合一が実現されてやっと平和の時代が訪れたと思いきや、わずか60数年後には「応仁の乱」が起き、日本全国が大乱世の「戦国時代」へと突入していく。考えてみれば、室町幕府の治世というのは結局、史上最大の戦乱期である戦国時代の「準備期間」にすぎなかったのである。
この室町幕府の統治体制を完成させた足利義満は、中国との「勘合貿易」を確立したことで有名である。勘合貿易は、中国の王朝(当時は明王朝)に貢物を差し出す「朝貢貿易」の形をとっているから、そのために義満は自ら進んで明王朝の冊封体制に入り、明の皇帝の臣下としての「日本国王」の立場に甘んじた。それはまさに、日本と中国との関係が推古朝の聖徳太子以前に逆戻りしたような時代への逆行である。考えてみれば、武士としての誇りも日本の政治リーダーとしての主権意識も捨てて、金儲けのために中国に平身低頭して接近したこの武家政権がそう長く続かなかったのは、むしろ当然のことである。
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