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かつてアメリカに「ニンテンドウ・パワー」というゲーム雑誌がありました。今では休刊していますが、一時は大変な影響力をもつ存在でした。
もともとは任天堂アメリカの主導で作られたもので、創刊号は1988年に発行され、NES本体に同梱のユーザー登録ハガキを返送した人に無料で送られました。その数は300万人に及んだといいます。

それは単なるゲーム雑誌ではありませんでした。100ページもの厚さで、新作紹介やゲームの攻略記事が詰まっており、インターネットもない頃だっただけに、情報に飢えていた子供たちにとってはまたとない贈り物だったのです。

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(「ニンテンドウ・パワー」創刊号)

しかもその中身には、日本のおもちゃ業界、出版業界のもつノウハウが投入されていました。企画こそアメリカ側の主導でしたが、実際の誌面は日本人の編集者やデザイナーが大きく関わっていたのです。なにしろ、子供の欲求を煽ることにかけては、日本はアメリカのはるか上を行く存在であり、その徹底した子供目線の作りに、耐性のないアメリカの子供たちはひとたまりもありませんでした。

当時の子供たちがNESに向けた熱意はあまりにもすさまじく、それは大人を不安にさせるほどのものだったそうですが、それは「ニンテンドウ・パワー」という雑誌についても同様で、今なお同誌は根強い人気を集めています。

残念ながら「ニンテンドウ・パワー」は2012年をもって休刊してしまいます。それはある種の人たちにとって、ひとつの時代の終わりを告げるものでした。それをよく表すものとして、当時の雑誌「ニューヨーカー」に掲載されたエッセイを紹介してみたいと思います。

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幼いころのぼくが、いわゆる性表現に接した、それにもっとも近い体験といえば、近所の図書館に通っていたことだろう。

ぼくの両親はテレビを嫌い、映画の年齢指定は厳格に守り、ゲームなどもってのほかという人たちだった。そしてぼくは、図書館で子供むけの冒険小説をよく借りていたのだが、その際にかならず確認していたのが雑誌の棚だった。

べつに近寄る必要などなかった。なにしろ「ニンテンドウ・パワー」の表紙はすっかり頭に入っていたので、遠くから見るだけで、新しい号が入っているかどうかは即座に分かったからだ。

そして、目当てのものがあると分かれば、すかさずそれをかっさらい、仕切りで区切られた閲覧席に陣取って、熱心にページをめくるのだった。それはあたかも、初めて成人雑誌を見つけたかのような興奮ぶりだった。

先日、その「ニンテンドウ・パワー」が、24年目にして休刊するという告知が出た。最終号は12月初旬に発行されるという。

「ニンテンドウ・パワー」は、とりたてて洗練した雑誌というわけではなかった。児童文学における位置づけでいえば、絵本と子供向けスポーツ雑誌の中間といったところだろう。ゲーム界でのその役割は、いくらか編集面での自由はあったとはいえ、結局は任天堂製品の宣伝媒体でしかない。

記事のほとんどは任天堂の広報部が出している宣伝文を作り替えたようなものであって、当時10歳だったぼくにすら、疑問に思わせるようなところがあったかもしれない。要するにそれは、ホンダ車しか載っていないクルマ雑誌を読むようなものだったのだ。

「ニンテンドウ・パワー」の読者は、任天堂というブランドの忠実な信者だった。当時はセガのゲーム機を持っている子供ですら、友達を誘う時には、「学校が終わったら、うちにニンテンドウやりに来ないか?」なんて言っていたものだ。


任天堂による、任天堂のための雑誌

「ニンテンドウ・パワー」にはゲームの紹介記事があり、その中にはけなしているものもあったが、基本的には任天堂ファンのための雑誌だった。べつに批評を目的としているわけではないのだ。表紙にはあたかも映画スターのような扱いで任天堂作品のキャラクターが大々的に登場し、折り込みのポスターにもアクションスターさながらの姿で描かれていた。

当時はインターネットもなく、一般向けの新聞や雑誌もまだゲームを取り上げたりはしていなかった。だからこそ、「ニンテンドウ・パワー」は新作について知ることのできる貴重な場になっていた。それは映画の予告編や、音楽業界にとってのラジオのような役割を果たしていた。

期待の新作についてさんざん誌面で煽り立て、読者の欲求が絶頂に達したそのタイミングで、ゲームが発売になるように仕向けているのだ。

ゲームの得意な子供たちにとっては、誌面は腕自慢の場にもなっていた。毎号、読者が投稿してきたハイスコアが載っていたのだ。

「ニンテンドウ・パワー」のテトリスのハイスコアで長いこと1位を張っていたのが、あのスティーブ・ウォズニアックだ。それがあまりにも長く続いたので、ついには雑誌の側から掲載を断られてしまった。ところが、ウォズは名前を逆に書いて、また申し込んできた。次の号の誌面には、テトリスの1位に Evets Kainzow なる名前が載った。


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読者欄にはぼくのような子供の投書が載っていた。「ニンテンドウ・パワー」の読者はほとんどが少年だったが、もっとも、みんなが皆そうだったわけでもない。ある時、エディス・ジーターなる女性の、こんな手紙が載ったことがあった。

「わたしは76歳になります。一刻も早く、『ドラゴン・クエスト6』が出るよう誰か働きかけてほしい。なにしろ、いつ手遅れになるか分からないのです」

ぼく自身も手紙を送ったことがある。それはフットボールゲームの改善案について書いたもので、誌面に載ることこそなかったが、ぼくが提案した機能は後になってニンテンドウ64の「NFL Blitz」というゲームに組み込まれていた。それを知ったとき、なぜか誇らしく思ったものだ。理屈で考えれば、おかしな話なのだが。


「ニンテンドウ・パワー」の効用

かつてのぼくは任天堂のファンであり、図書館に通っては「ニンテンドウ・パワー」を熱心に読んでいた。ところが皮肉なことに、ぼくは任天堂のゲーム機も、ゲームソフトも、何ひとつ持ってはいなかった。

なにしろ、すでに触れたように、ぼくの両親はゲームなどもってのほかという人たちだった。今からすると、レコードプレイヤーも持っていないのにロック雑誌を読んでいたようなものかもしれない。だが、それには実用的な面もあった。

「ニンテンドウ・パワー」の売り物のひとつが、ゲームの攻略記事だった。特別に難しいところの攻略法をていねいに説明してくれたのだ。それを読んでいたおかげで、理解ある家の子供にゲームを誘われた時も困ったりはしなかった。それは、兄とぼくの面倒を見に来ていたベビーシッターが、両親に内緒で任天堂のゲーム機を持ちこんだ時も同じだった(彼女はゲーム機にぼくたちの相手をさせれば自分は楽ができると思ったわけだが、事実そうなった)。

ある時、祖母が孫の気をひこうとして、ニンテンドウ64を買ったことがあった。これにも両親はいい顔をしなかったが、突然ぼくたち兄弟は祖母のところに立ち寄ることが多くなった。そしてぼくが高校に進むころには両親も折れ、ぼくたちもようやく任天堂のゲーム機を手に入れた。


何もかもが一変した

ある時期から、「ニンテンドウ・パワー」はゲームの発展に何ら貢献するところがなくなってしまった。そして崩壊した。

90年代になると、ゲームの世界に大きな動きが生じた。その変化を「ニンテンドウ・パワー」は克明に記録している。ゲームは2Dの横スクロールから3Dの本人視点になり、かさばるカートリッジからCD-ROMになり、容量は飛躍的に増大した。任天堂がディスクメディアへの移行を果たしたのは、ソニーのプレイステーション登場から6年後のことだった。そのようなこだわりは、とりわけ熱心な任天堂信者をよけい頑固にさせただけだった。

「ニンテンドウ・パワー」は、それとはまた別の技術によって倒され、消滅した。それはもちろん、インターネットのことである。そもそも、ネットはゲームで遊ぶこと自体を一変させてしまった。攻略法にハイスコア表、新作情報に画面写真と、何でもウェブで手に入るのだ。さらには、プレイ動画や体験版まで入手できてしまう。

今回の休刊は、かねてよりゲームの世界に生じていた、ある変化を定着させることにもなった。それはつまり、ゲームはもはや単なる娯楽ではなくなったということだ。それどころか学術研究の対象にすらなった。

今ではゲーム研究という分野が学問として成立し、高名な知識人がそれに携わっていたりする。人がゲームで遊ぶ、その行為を調べることが、よりよい世の中の実現につながってしまったりするかもしれないのだ。

先日、あるゲーム研究サイトの創設者の講演を聞く機会を持ったが、そのサイトではゲームの箱絵にみる審美性だとか、ゲームのバイオフィードバック研究だとか、ガンコントローラを用いたゲームに見られる教唆性だとか、そんな話題が語られているのだ。中には、ゲームによって報道機関が持ち直すかどうか、というものすらあった。そもそも、ゲームを専門に研究している学者がいるなんて、かつて「ニンテンドウ・パワー」を愛読していた12歳の頃のぼくには、想像することすら無理だっただろう。

もうずいぶん前から、ゲームは単なる根暗な子供の楽しみではなくなっていた。なにしろ誰だって、iPhoneさえあれば、いつでもゲームで遊べてしまうのだ。

だがぼくが「ニンテンドウ・パワー」を読んでいた頃、ゲームはようやく一般家庭にその舞台を移しつつあった。それ以前は、ゲームといえばバーやアーケードに置かれたパックマンやギャラクシアンだったのだ。それでも、自宅でゲームで遊ぶという行為は、やはり体裁の悪いものではあった。だからこそぼくも、仕切られた閲覧席で「ニンテンドウ・パワー」をこそこそ読んでいたのだ。

1990年ごろに成長期を過ごした世代にとって、「ニンテンドウ・パワー」の休刊は、またひとつ、子供時代につながる扉が閉じられたことを意味した。もっともその大半は、このぼくも含めて、とっくの昔に読者ではなくなっていたのだが。なにしろ休刊の知らせを聞いて、とっさに思ったのが、「まだやっていたんだ」ということだったくらいだ。

ぼくたちは昔のぼくたちではなくなってしまった。そしてそれは、ゲームの世界にしても同じことだった。ぼくに出来ることといえば、あの時代のことを振り返っては、好ましい思い出にふけることくらいしかない。そもそも、あの頃のぼくにとっては、ゲームがビジネスになるってこと自体、思いもよらないことだったのだ。

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雑誌の休刊となると、その理由は売れ行き不振というのが普通ですが、「ニンテンドウ・パワー」の場合はすこし事情が違ったようです。

「ニンテンドウ・パワー」の発行元は、2007年に任天堂アメリカから一般の出版社に移っているのですが、ニュースサイトによると、誌名の使用契約を更新できなかったことが休刊に至った直接の原因なのだそうです。つまり、出版社としては刊行を継続するつもりだったのが、任天堂側がそれを断った形になります。

もっともその判断には、もはや紙の雑誌を継続する意味はないという考えがあったわけで、やはり時代の変化がよく表れている話といえます。

なお「ニンテンドウ・パワー」の休刊を受ける形で「ニンテンドウ・フォース」(Nintendo Force)という雑誌が2013年1月に創刊され、任天堂製品の専門誌としての役割を今に受け継いでいます。



(ゲームボーイでテトリスに興じるウォズ。かつてゴルバチョフとブッシュ父の両首脳にゲームボーイとテトリスを贈ったこともあるそうです)