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満員御礼。
6月27日(金)の宮里聡さん「お話し会」@天空の茶屋。 大勢の皆様にお越しいただき、ありがとうございました。 お話のはじまりはいつも玉城の神女(かみんちゅ)おばあのこと。 「玉城百名に大城ウメという亥年のおばあさんを訪ねなさい」 という神託を受けて玉城に辿り着いたのは14歳の夏で…。 その出会いについては既に書いたが、昨日のお話も、そこから 玉城のヤファサチの御嶽、ミントングスク…へと、少年時代の足跡を辿りつつ展開した。 神女のウメおばあが祀った祖先は玉城天孫氏(大城拝所は現在も百名にある)。 戦前に途絶した旧家、屋号アマスの分家である新門(みーじょー)の神女だった。 アマスとは、天祖、阿摩祖、天須、天主などと表記されるミントン門中の旧家である。 宮里少年がウメおばあと出会ったのは、沖縄が「本土返還」されて7年後の1979年。 久高島の古祭・イザイホーが、神女になる後継者不足のため途絶えたのは前年のことだった。 その年、玉城にあった米軍基地(CIA基地)の返還跡地に、琉球ゴルフ倶楽部がオープン。 琉球開闢の地に訪れた戦後新時代に逆行するかのように、ふたりの御嶽廻りは始まり、 神女から少年へ、玉城の口伝が始まった。とはいえ、 ウメおばあは積極的に語ったわけではなかったらしい。時代が変わっても、 まだ「天孫」を口にすることはタブーだったようだ。 そしてウメさんは語り部に何篇も釘を刺した。「サトシや、他言するなよ」と。 出会った翌年、 新聞が連載した位牌(とーとーめ)継承問題をきっかけに「ユタ排斥運動」が起こる。 ユタとは職業的な霊能者のこと。神女はそれと一線を画すとはいえ、当時、 御嶽廻りすらも古い因習と見なされ、周囲の視線は今ほど優しいものではなかった。 「おばあ、他言じゃないよ、言わなきゃダメでしょ、本当の歴史が消えてしまうよ」 と反発した話は昨日も本人の口から語られたが、皇国教育を受けたウメさんは言った。 「触らぬ神に祟りなし。神様には、お鎮まりくださいと、お祈りすればいいんだ」 が、ウメおばあの遺言にあらがうように、語り部は琉球開闢の地「玉城」を語り続ける。 さて、昨日のお話し会。 ひとりの少年が最前列にいた。体育会座りで、語り部の話にしきりと頷いている。 次世代の語り部たちが、こうして一人また一人と、誕生しているのかもれしない。 さて、私はまた久高島へ渡ろう。 イザイホーが終焉してちょうど3廻り目の午年。古代祭が現代まで続いた理由を探しに。 お話し会が終わって夕方。天空の茶屋の裏庭に二脚の椅子。 また、わったー(私)の話か…と、生きていれば百歳を越える神女のウメおばあは苦笑していたかも。 刻々と移ろう東方(あがりかた)の夕空を見る。 のんびりと流れている吹き出し雲?に夏が来た…と、浮き出ているように見えた。 天空の茶屋「さちばるの庭」からの眺め。 綾なす雲にも夏の気配。東南の空を染める夕焼けに、突き抜けた晴れがましさを感じる。 ▲
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| 2014-06-28 11:02
| 語り部
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天王ガナシーの一対神として祀られる、天妃大阿母加那志(あまみ・うふあむ・がなし)。
私が「ガナシー」と略記する「加那志」とは、神様を意味する尊称。 そうすると、この女神名の意味するところは、天の妃・偉大な・母・神・神女・神様。 天妃大阿母ガナシーとはこの上ない神格の女神、そして神女なのである。 思えば、琉球王朝の神女組織は「大あむしられ制」で、「あも」という公職があった。 この「あも」の祖型は、天妃大阿母ガナシーの「阿母」だと思う。「しられ」は「治られ」=政治。 神女組織は最上級から次のように、公職(女神官)が順に祭祀権を統括するシステムだった。 聞得大君→首里三平等(みひら=三地域)の「大あも」→各地の「あも」→各間切の「のろ」。 「大あも」こそは、琉球王朝における神託政治の要だった。 さて、天王ガナシーと天妃大阿母ガナシーには、さらに分かりやすい呼称もある。 御天父親ガナシーと御天母親ガナシー(うてぃんちちうやがなしー・うてぃんははうやがなしー)。 その神魂を受け継ぐのが、ヤマトでいえば、天御子(あまみこ)と日女御子(ひめみこ)。 いわゆるヒコとヒメである。 その神様ユニットが、単なる夫婦神ではなく、おのおの別神格として一対をなしていることは、 大里家拝所の神壇においても別々に祀られていることで分かる。(※天妃(あまみ)は「天美」と表記) 邪馬台国に代表される、兄妹で治める古代ヤマトの政治形態がヒコヒメ制。 その神籬(ひもろぎ)、そしてその古代母系社会のレガリア(象徴)が、 斎場御嶽の奥宮でイキガ(男)とイナグ(女)の巨岩で成るナーワンダーグスクだったと思う。 (※ナーワンダーとは「なでるわ」=守護霊力) イナグナーワンダーグスクには、日巫女の鏡が祀られているらしいと書いたが、 日女御子とは日の巫女。御神体である鏡を操り太陽神霊と交わるのはごく自然な信仰のかたち。 ナーワンダーのお膝元・久手堅の浜。梅雨入り前の夏日、現代のヒコとヒメが遊んだ跡があった。 斎場御嶽の外門ウローカー(現在は閉鎖)の足下にある「まちがち泊」も、夏前はひっそり。 まちがち=待つ港。聞得大君が海から斎場御嶽(右の山)に登る際は、この港に船を着けた。 さて、久高島には天妃ガナシーに対する「神の島」ならではの特別な呼び方がある。 「あまみや・うやぬる(天妃・親祝女)」。神女たちに霊威を授ける天祖神。 その名は、久高島の秘祭イザイホーが始まる前、ノロによって謡われたティルル(神歌)に残る。 〜きゅうがとぅち のーち(きょうの刻を直して) なまがとぅち のーち(いまの刻を直して) うりぃてぃうり ぶさてぃ(降りて降り栄えて) うりぃてぃうり しなーち(降りて降り乗り移ります) てぃりないぬ ぬるがしじ(生まれ変わるノロの霊力) てぃりないぬ あまみうしじ(生まれ変わるあまみや・うやぬるの霊力) くんちゃさん にがんうしじ(国司ノロ、根神の霊力)〜 この神歌で、イザイホーの幕は切って落とされた。 白い胴衣(るじん)と衣(かかん)姿で、裸足のままの女たちは、 ノロ家の庭で円陣を組み、7回廻った後、祭祀場の御殿庭(うどんみゃー)へと駆け出した。 一列となり「エーファイ、エーファイ」の掛け声を響かせて。宇宙始源の霊力を受け継ぐために。 聞得大君の専用港・まちがち泊の南に隣接するコマカ島への船乗り場。夏はレジャー客で賑わう。 こちら、まちがち泊の北に隣接する安座真サンサンビーチ。4月に海開きした後も平日はほぼ無人。 安座真サンサンビーチから、近くて遠い久高島(左)を遠望する。神の海は穏やか至極。 このイノー(珊瑚の内海)を渉り、船に乗った聞得大君は浦廻り(聖地巡礼)をした。 ▲
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| 2014-06-23 13:28
| スサノオ
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語り部・宮里聡さんを囲んで、お話し会をすることになりました。
沖縄在住の方、琉球古伝に興味ある方、是非ご参加ください。 少年の頃から琉球発祥の地・玉城(南城市)に通い、 神女(かみんちゅ)たちと御嶽を廻り古伝を受け継いできた宮里聡さんに、 アマミキヨ伝承、嶽々の由来、御嶽との向き合い方などについてお話しいただきます。 ブログ主も司会などお手伝いをします。 【宮里聡さんお話し会〜いま甦る古代琉球の神々】 日時 6月27日(金)14:00〜16:00 場所 天空の茶屋(南城市玉城) 会費 ¥1,500 (ドリンクと茶菓子付き) 申し込み 天空の茶屋 070-5481-0907 または 070-5697-6981 広報担当 稲福さんまで 浜辺の茶屋、山の茶屋のある「幸原(さちばる)」の丘の上、大きなガジュマルの木が目印です。 西の空に夕日が沈みゆく一刻一刻も目に美しい。さちばるの庭を登った人だけが味わう至福。 幸原の海の明澪(あちぬー)に船を着け、陸に上がった古渡りのアマミキヨも見た絶景? 天空の茶屋は南城市福祉センターのゲートボール場すぐ近く。↓ここは戦前「ミホの松原」と呼ばれた。 太平洋を見晴るかす崖には、琉球の稲作の祖・アマスのアマミツも眠る「アマス墓」がある。 宮里さんが尊敬してやまない故大城ウメさんは、御先天孫氏王朝の末裔・アマスの神女だった。 天空の茶屋は、20年前に誕生したロケーションカフェの草分け・浜辺の茶屋による3店目。 カフェですが、お話し会や、ワークショップや、ウェディングの会場にもなるスペース。 語り部が初めて訪れた頃は「怖いまやー(猫)が出る」との伝えで、誰も近寄らない場所だったとか。 そんなちょっと昔の玉城や、聖地の様子を知るのもまた、一興かもしれません。 ▲
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| 2014-06-18 22:18
| 玉城
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ここ2ヶ月、どうも解けない謎があった。
古代から続く拝所や、アマミキヨの神紋がある大里西原(南城市)。この集落の 産川(うぶがー=聖泉)であるチチンガーに、古来、神鰻が棲んでいたというのだ。 「なんじょう文化財通信」('10年)で知った、今に受け継がれる伝承である。 鰻を崇める神社は、大山祇神社(愛媛)や三嶋神社(京都)などヤマトにもある。 また、天然鰻の産地だとしても、信仰上、食べない人々がいる地方があるとも聞く。 蛇と同様に、鰻も海人族にとっての龍神なのだ。 しかし、私は西原集落は、古代ワニ族の集落跡ではないかと考えていた。 ワニ族は紀元前からワニ舟(丸木舟)を操った漁労採集の民。鰐鮫を祖霊と敬った。 大陸から海に漕ぎ出したのだから海人族に違いないし、鰐鮫も龍蛇の一種だろうが、 蛇や、南海に棲息する海蛇をトーテムとする海人族=龍蛇族は、南方から北上したはずだ。 百歩譲って、ワ二族と龍蛇族がバッタリ遭遇したと考えてみる。 しかし、遥かなる大陸の北と南から渡来した古代民族同士が、この小集落に、 痕跡の片鱗を残すとはあまりにも偶然。まさか…と、そこで思考停止に陥っていた。 チチンガーの拝所。8m下の井戸(カー)を御願する。立体的な構造の珍しい祭祀空間。 外観もまた立派。左手の小道から回り込んで階段を降りる。西原では正月の若水をこの井戸で汲んだ。 そんなこんなの昨日、『謎の出雲帝国』(吉田大洋氏著)で、龍蛇族の渡来経路を見た。 この図(57Pから拝借)によれば、大陸に発した龍蛇族は南回りで東進。琉球列島沿いに北上した。 そして、あっと思う。 チチンガーの近くにも「島根富威部(しまねとみのおいべ)」なる御嶽があれば、 仮説の上の仮説としても、龍蛇族である富(とみ)一族が渡来した可能性は高まる。 改めて『琉球国由来記』の「巻十三 大里間切」を開く。 あった…。「西原村」にある「大森御威部」のうち、ひとつが「神名 島根富御威部」。 龍蛇を崇める富一族のうち、北上する集団がいるいっぽう、定着した集団もいたか。 黒潮の本流は、ご存じ南方からフィリピンの東北部を通り、台湾と与那国島の間を通り、 東シナ海へと流れ込み、さらに対島海流に乗って北上することは、セグロウミヘビや沖縄の イラブー(海蛇)が出雲に漂着することで知られているが、太平洋戦争中にフィリピンで戦死 した日本兵が海へ投げたヤシの実が、31年目に出雲の海に漂着した例もあると、最近知った。 出雲の稲佐の浜(昨年11月)。この季節、出雲の海へ北上した海蛇=龍神様は、 北東から吹く季節風に押されて沿岸に打ち上げられるという。 くだんの『謎の出雲帝国』によれば、出雲神族(富族)の始祖はクナトノ大神。 続いてオオクニヌシノ命、コトシロヌシ、ホアカリノ命らの名が並んでいる。 また何代か後の裔には、トミノナガスネヒコ、妹のトミヤ姫、トミノ宿禰らがいる。 諏訪神・タテミナカタの正式名はタテミナカタトミノ命。「富」がつくのが神名の特徴だ。 思えば、富里、富祖崎、屋富祖、富着など、沖縄には富のつく地名が多い。 ▲
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| 2014-06-16 08:58
| 天孫氏
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日本神話のスサノオノミコト(素戔嗚尊)とは同名異神にして、古代天孫氏王朝の始祖
と伝わるスサノオ。亦の名は天地大神様(あめつちのおおかみさま)、そして天王ガナシー。 いわゆる縄文の男女神。ヤマト各地の古伝に見える男性神・天照大神と瀬織津姫は、 天王ガナシー・天妃ガナシーの神魂を受け継ぐ神だったと思われる。 (そうなると「ニギハヤヒの東遷」はここ沖縄を発したことになる…) アマミキヨの渡来地と伝わるヤハラヅカサ(写真の中央左、海から頭を出した石)周辺(南城市)。 古伝では、天王ガナシーが天鶏船(こまかけ)で飛来したというのも、このあたり。 天王ガナシーと天妃ガナシーが祀られていたと秘かに伝わるのは、↓こちら潮花司(すぱなづかさ)。 ヤハラヅカサ(左下)への降り口にある御嶽で、かつては「御先(うさち)グスク」と呼ばれた。 アマミキヨ仮住まい伝説の浜川御嶽(右の向かい側)とは、本来この潮花司のことだと語り部は言う。 潮花司(浜川御嶽)は聞得大君の巡拝地でもあったが、その由来伝承は失われつつあるようだ。 さて、話は戻って、記紀に登場するスサノオノミコトは、 スサノオこと天王ガナシーとまったく無関係かというと、そういうわけでもないと思う。 スサノオノミコトのモデルとなったのが、神代琉球の天王ガナシーではなかったかと。 「根の国」はご存知、アマテラス・スサノオ神話に出て来る国である。 治めるように言われた根国=黄泉国(あるいは根国=黄泉国海原)を放ったらかしに して泣き続けるスサノオに、イザナキが「なんで泣いてばかりいるのだ」と問うと、 スサノオは言う。「妣(はは)の国、根之堅州国(ねのくにかたすくに)へ帰りたい」と。 すると、イザナキは大いに怒ってスサノオを放逐してしまった…。 薮薩の御嶽、ヤハラヅカサのある南城市百名(ひゃくな)は、古来「根の国」と呼ばれた。 この他にも、沖縄では「根」のつく言葉が少なくない。 根屋(にーや)は村落の草分けの家、根人(にっちゅ)根神(にーがん)はいずれも根屋の長男。 珍しいところでは、根引き(にーびち=結婚)というのもある。 ↓こちらミントングスクのある仲村渠(なかんだかり)の根所(にーどぅくる)。 語り部によれば、天王ガナシーらが居住した集落跡だろうという。現在は拝所。 「根」で思い出すのが、ここ何週間か書いてきた知念玉城台地の南端にあたる糸数にある 根石城(にいしぐすく)。石積みの内部にも蒲葵が茂り、川泉跡らしい拝所があった。 糸数気象レーダー観測所の敷地を囲む金網の陰に、いまはひっそりと佇む。 観測所を挟んで西側に糸数城趾がある。築城年は不明だが、玉城按司が三男の糸数按司 に任せたとの伝説があることから、三山分裂時代初期(14世紀)ではないかと言われる。 糸数城より古いと思われる根石城を初めて見たとき、腰を抜かさんばかりに驚いた。 神名を読むと、嶋根富国根富御威部(しまね・とみ・くにのね・とみのおいべ)。 島根・富・国根…。古代出雲の富一族に何らかの関係があるのか? 『琉球国由来記』で調べると、神名に「島根」「富」「国根」を含む御嶽は11ヶ所。 龍蛇神で私は沖縄と出雲の関係を見てきたが、御嶽でも…。つまりスサノオつながりもあったか…。 ▲
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| 2014-06-11 10:01
| スサノオ
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ナーワンダーグスクの巨岩登頂を断念して始まった、古代琉球への時間旅行。
ナーワンダーグスクとは何だったかを、いま一度考えて、それを終えることにしたい。 スサノオこと天王ガナシーを始祖とする、琉球最古の天孫氏王朝。 知念玉城台地の東端、つまり太陽の登る久高島と、西端・大里を結ぶ東西軸上に、 斎場御嶽、そしてその奥宮としてのナーワンダーグスクはあった。 そうつくづくと感じさせるのが、いまに残る地形だ。 5月の沖縄旅では豪雨で撮影できなかったが、こちら ↓ 久高島の西海岸から見た斎場御嶽。 その奥宮に座す巨岩は、「ナーワンダー=なでるわ=守護霊」の名に ふさわしく、天王ガナシーと天妃ガナシーという男女一対の神を思わせる。 反対側、大里から望む知念半島。ここからも斜めの稜線に一対の巨岩が。久高島は隠れて見えない。 ナーワンダーグスクはその名の通り、沖縄本島各地に有力按司が割拠した グスク時代(12世紀〜)の遺跡だが、一対の巨岩は神代から動かなかったと思う。 実は4月の沖縄旅の最後の最後、私はナーワンダーグスク近くには足を踏み入れていた。 肝心の巨岩には登れず、皇室の人が持ち帰ったと伝わる「ヒミコの鏡」のレプリカを拝むこと はできなかったが、イナグ(女)ナーワンダーの麓までは登ることができた。 久手堅集落から、ジャングルのような山中の樹々を掻き分けて急勾配の獣道を進む。 それが緩やかになったところで、イナグナーワンダーを示す「女神」の石碑を見た。 ナーワンダー“地域”まで案内してくれた久手堅(くでけん)の“仙人”は、 巨岩に登ったことはないと言い、麓一帯の楽園のような景色をこよなく愛していた。 樹々を透かして見下ろす谷間には、巨大な蝶の群れが乱舞し、川の流れる音がした。 イナグナーワンダーの横に、斎場御嶽の寄満(ゆいんち)への↓降り口がある。 「貢物が寄り満る台所」と言われる寄満だが、その本態は縄文の女神=天妃ガナシー の神魂を祀るナーワンダーグスクの真下にある聖所だったことを、ここでは確信できる。 語り部は、玉城の神女おばあたちから、ある伝承を受け継いだという。 「聞得大君の“お新下り(就任式)”の本来の祭祀場は寄満だった。 寄満だけは、男性が絶対に入ることはできなかったという伝えがあるよ」と。 琉球王府の歴史によれば、それは斎場御嶽の御門口に近い「御仮屋」だったはずだが。 尚真王の時代(1465年〜1527年)まで、聞得大君による安全航海祈願も寄満で行われた。 寄満〜イナグナーワンダーのラインは、封印された。ともあれ、 古代天孫氏王朝にまつわる痕跡は、琉球王朝三代・尚真王時代までは残っていた。
尚真王。神号は「おぎやかもい」。かもい=カムイ。アイヌ語で「神の子」。 大陸渡来の東大神族(しうから)には、古代琉球民族とアイヌ族が含まれていたと思う。 ▲
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| 2014-06-06 19:19
| 天孫氏
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「天王加那志(てんおうがなしー)はスサノオ」と聞いて胸が騒いだ。
天地大神様(あめつちのおおかみさま)という神名も、ただならぬ気配。 ただし、初めて聞く神名ではなかった。語り部に訊く。 「天王ガナシーは、あのヤハラヅカサで崇められていたという神様ですか?」 「そうです」 「では、その天王ガナシーのお妃にあたる女神は?」 「天妃ガナシーです。天妃大阿母加那志(てんぴうふあむがなしー)。 天美大阿母加那志(あまみうふあむがなしー)とも呼ばれます」 アマミキヨの渡来地として知られるヤハラヅカサ(南城市)。 この浜は、天王ガナシー・天妃ガナシーの二神にゆかりの地でもあった。 そして、いつの時代からか、その司祭を久高島の大里家が担うようになった。 いま一度、久高島の宗家・大里家の神壇画像で神名を見る。 右に天美大阿母加那志とある。またの名を天妃ガナシーという女神だ。 沖縄で秘かに語り継がれてきた「スサノオ」は、記紀に登場する「スサノオノミコト」 とも、シュメールから渡来した民族が祀ったという「スサの王」とも、様相が異なる。 『契丹古伝』にいう東大神国(しうから)の統治者(スサダミコともいう)であり、 高天使鶏(こまかけ)という空船で世界を飛び回ったという天祖。 スサノオこと天王ガナシーは、古代琉球王朝の始祖神にして「天界の王」だった。 そのことは、比嘉康雄氏の著書『神々の原郷 久高島』でも、窺い知ることができる。 〜天王ガナシー この神の香炉は大里家にある。神名からすると天界の王という ことになるが、久高島では天に対する意識は希薄であり、この神も神観念に そぐわない神である。神職者不在〜 「天王ガナシーの降臨はどの時代のことですか?」 「神代の時代ですね。少なくとも1万年前に終わったヴュルム氷河期より前」 「神代の船でヤハラヅカサに渡来したと?」 「天磐船(あまのいわふね)で。神女のおばあたちもそう言ってました」 「つまり、星から飛んで来た?」 「はい、ヤハラヅカサは神代の昔からUFOが飛来するメッカだったのでしょう」 「……」 あまりに壮大なスケールで絶句するしかないが、確かに今でもUFO目撃談は多い。 さて、『古事記』『日本書紀』にも、天孫饒速日尊(にぎはやひのみこと)が、 天照大御神の命により天磐船で河内国河上哮ヶ峰(たけるがみね)に降臨した という神話が出てくるが、語り部によれば、その元型は琉球神話にある。 「スサノオの霊をお継ぎになったのが、饒速日尊(にぎはやひのみこと)です」 大里城跡のある大里、うぷんでぃ(大里)山と大里家のある久高島、そして玉城周辺。 その3点を西・東・南の端とする知念玉城台地一帯が、御先天孫氏王朝が栄えた地。 そして、中心となる祭祀場が、斎場御嶽の奥宮・ナーワンダーグスクだったか。 スサノオが天磐船で降臨したのなら、与那国海底遺跡調査で知られる木村政昭教授 による「ヤハラヅカサのストーンサークル説」も、俄然リアリティーが高まる。 ▲
by utoutou
| 2014-06-03 10:42
| 天孫氏
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