『ですけど』の汎用性が高すぎるんですけど、について。
若者が使う「旅行に行ってたんですけど、昨日帰ってきたんですけど、新幹線が激混みでした」のような『ですけど』は、間を持たせるなど汎用性が高いという趣旨の興味深いエントリでした。
ですけどのふるさとは古文
「ですけど」の原点は古文にあると思います。中古、中世の日本人も「ですけど」が大好きでした。簡単に言えば「を、に、が、ど+読点」の形で出現します。
※正確に言えば読点は現代人が編集段階で打っています。
和泉式部、保昌が妻にて丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに、小式部内侍、 歌よみにとられてよみけるを、定頼の中納言、たはぶれに小式部内侍に「丹後へつかはしける人は参りにたりや」と言ひ入れて、局の前を過ぎられけるを、小式部内侍、御簾よりなかば出でて、直衣の袖をひかへて「大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立」とよみかけけり。(古今著聞集)
親の七光りに関する文章ですので、和泉式部=大竹しのぶ、小式部内侍=IMALUと読み替えるとスムーズに理解できます。
昔、大竹しのぶ―明石家さんまの元奥さんね―がどこぞへ出張中に、KBS京都で歌番組があったんですけど、IMALUが1曲歌うことになったんですけど、やしきたかじん(故人)が悪ノリして「おんぶしーのだっこしーの出張中の母ちゃんはいらっしゃたんかいな~?」と控室の前を通り過ぎたんですけど、IMALUはドアを半分開けてたかじんのコートの袖口をつかんで「母は山の中だから行かれへんしLINEも来てへんわ」と言い返した。
となります。現代人の「ですけど」同様、昔の日本人は「を、に、が、ど」でガンガン文をつないでいくので、現代の日本人から見るととても読みにくいです。
※実際にIMALUさんが大竹しのぶさんにおんぶだっこかは存じません(フィクション)。
外国人から見た「ですけど」
旅行に行ってたんですけど、昨日帰ってきたんですけど、新幹線が激混みでした。
この例文は欧米人からすればとても読みにくいはずです。彼らは基本的に1つの文に主語述語が1セット入ることを好むからです(悪くても節を設定し、そこに主語述語が存在する程度)。上の文を3つの文に分ければ、確かに分かり易いかもしれませんが、それは欧米の文体に過ぎません。
若者の話し言葉「ですけど」を邪道と思う人もいるかも知れませんが、実は古文に見ることができる日本語の王道であり、批判こそ邪道だとも言えます。また、日本語は主語の省略が多く読みづらいと言われますがそれは誤りで、述語が主語を明確に示しています。
※述語の意味または後続の語句のムード/モダリティが規定します。
行ってた → 主語は「私」に定まるから書かない(効率よい)
帰ってきた → 主語は「私」に定まるから書かない(効率よい)
日本語は身内同士の言葉という側面も確かにありますが、効率が良い言語とも言えます。
ネットやビジネスでは短い文が推奨されるのはなぜ?
ネットやビジネスでは欧米語的な短文が良しとされています。これはなぜでしょうか?簡単に言えば、書き手が反応(もっと言えばお金)を欲しがっている文は短いんだと思います。例えばこのブログ「健康じゃーな」も短い文をメインに構成されています。なぜならばある程度は読まれてほしいなと思っているからです。
文が長いと、読みづらいというハンデを引き受けますので、相当内容が良くないと全く読まれなくなります。私はそこまでの自信がないのでいつも短い文でお茶を濁しています。文が長く1ページに到達することがあるのは大江健三郎ですね。
いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機を与えられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によって彼の仕事の現場にも明瞭に持ち込みうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度を取ることなしには、彼の職業の外部から与えられたぬるま湯の中での特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということに他ならない。
大江健三郎「職業としての作家」『別冊・経済評論』1971年春季号
大江健三郎が今の時代にブロガーとしてデビューしていたら、現在の地位にまで上り詰めたでしょうか?大江健三郎の長い文が受け入れられたのは、文章そのものの供給不足を背景に人々が夜なべしてじっくりと文章に向き合う時間の流れがあったのかもしれません(今では無理ですね)。
果たして、「ですけど」を使う若者は平安王朝のようなゆったりとした時間を過ごしているのでしょうか?しかしそれもつかの間の幻であり、就活の志望動機書でだらだらした文章は厳しく添削され、スピード地獄の社会へ引きずり込まれます。資本主義っておもしろいんですけど、不健康ですよね。もっとゆっくりしたいんですけど……。(^^)/じゃーな