5日に84歳で亡くなった作曲家の冨田勲さんは、80歳を超えてなお、新たな境地を開拓し続けた。「つらい」とこぼすこともあったが、「若い頃に大戦も震災(1945年、愛知・三河地震)も体験した人間の責任として、自然やいのちの本質を音楽で残しておかなければね」と歩みを止めなかった。

 山中で「ブッポウソウ」と、鳥が平和に鳴き交わす声。天から降り注ぐ機銃掃射の音。玉音放送での、昭和天皇のあまりにも人間らしい声音。人生の真実を教えてくれたのは、いつもそうした「音」だった。

 思い通りの音を作ることに妥協なし。その信念と好奇心が、シンセサイザーという新時代の楽器へと冨田さんを向かわせた。60年代、「新日本紀行」テーマ曲の録音時。残響のある非常階段にマイクをつるし、拍子木をカーンと響かせ、音が田を渡る壮大なイメージを表現した。「電子音楽の第一人者」と呼ばれるのは、実は嫌だった。「雷だって電気なのに、自然とか電子とか、なぜ区別するの? オーケストラの延長上にあるものじゃないですか」

 特定のジャンルに住まわぬ「異端者」は、日本を超え、欧米の音楽業界の目を開かせてゆく。米ビルボードの1位(クラシック部門)を日本人で初めて獲得した「月の光」を出したのは米RCA。マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーも、熱烈に面会を希望した。