コバルトブルーの浴室に、シャワーのノイズが響いている。
頭の先から胸を伝って、足先へと流れる水の流れが火照った体に心地好い。うっすらとまぶたを開いてみると、飛沫に斜陽がぶつかって、線香花火が散るように、薄暗いタイルの壁をきらめかせた。
ハンドルを回してシャワーを止める。わずかに開かれた窓の隙間から風が吹きこみ、浴槽の水面が皺を寄せた。薄寒いような、ほのあたたかいような、奇妙な空気のベールが体を包んだ。
古めいたアルミの窓の外では、流しそこなったあぶくのようなうろこ雲と、シャワーヘッドからだらしなく漏れる水の音のような蝉声が、夏の終わりを告げていた。
バスタオルを手につかみ、荒っぽく体を拭きあげる。肌にパイルの感触を残したまま、部屋着に着替えて鏡台の椅子に腰掛けた。ドライヤーの轟音を従えて、木枯らしに吹かれる葦の穂のように前髪が揺れた。
ねえ、と肩を叩かれた。
話があると告げたまま、憂いを含んだ面差しで私の返事を待っている。
「ちょっとまって。髪、すぐ終わらせるから。」
彼と付き合って、もう何年になるだろう。
はじまりは親友の紹介だったわ。食事をして、買い物に行って、流行りの映画を観た。目じりの下がる子供っぽい笑顔を見るのが楽しくて、私はわざとおどけてみせて、彼の心を繋ぎとめたの。
彼は両性愛者で、男も女も、性別の垣根を越えて愛することができたわ。人類のすべてが性愛の対象で、本人いわく、「世界で一番愛にあふれた人」だそうよ。
彼は子供が好きで、いつかは子供がほしいと口癖のように言っていたわね。同性愛者である私には、無関係で、無関心な世界だった。
ドライヤーの余熱が残って、手ぐしがするりと髪を通る。
きっ、と手のひらに汗がにじんで、髪を撫でていた指が止まる。背中にじっとりとまとわりつくような悪い予感を、必死に押さえ込んでいた。
「それで、話って?」
別れ話は、いつだって切り出される側の役まわりよ。
彼の口からこぼれる言葉のひとつひとつが、ジグソーパズルを崩すように、ふたりの思い出を消し去ろうとしていたわ。
彼にはすでに付き合っている女性がいて、年が明けるまでには結婚するつもりだそうよ。
そして最後に、どうしても子供がほしいから、私との関係は続けられないと告げられたわ。
溶けかけた氷を内臓に注がれたように、焦燥が全身を駆け巡った。どうすれば彼を繋ぎとめられるのか。どうすれば再び彼に触れられるのか。
だけど、自分でも意外なほど簡単に、すべてをあきらめてしまったの。
両性愛者である彼の気持ちを、同性愛者の私がどれだけ推し量れるというのかしら。異性を愛することができるなら、異性を愛するべきなのよ。地獄で手招きする私よりも、天国で両手を広げて待つ彼女を選ぶべきなのよ。
彼にとっての幸せは、私が何も言わずに去ることよ。
少しだけ彼の言い訳を聞いて、私のほうからさよならを告げると、張りつめた絹糸に剃刀を立てたかのようにあっけなく、ごめんとばつが悪そうに言い捨てて、彼はアパートの部屋から出ていった。
玄関のドアが閉じられた瞬間、かすかに繋ぎとめられた夏を断ち切って、冷たく乾いた風が頬を切った。
彼の結婚を知ったのは、小春日和が続く安らぎも去った、白い吐息がこぼれるころだったわ。
正確には、彼が "私と出会うずっと前から結婚していた" ことを知ったの。
電気ストーブが足元を照らして、純白の繭で包まれたように眠りへと落ちる心地よい休日の昼下がり。うつらうつらと舟を漕いでいると、荒々しい吹雪を引き起こす灰色の空のような、無機質な携帯のバイブが私を呼んだ。
親友のゲイだったわ。話好きな彼はくだらないゴシップや友人への愚痴を繰り返したけど、私の空返事を察すると、そういえばね、とわざとらしく話を切り出した。
冬霧が風に散らされるように、真実は必ず露わになる。ましてや狭いゲイのコミュニティで、隠し通すことなど誰にもできはしないのよ。
私と付き合っていたころ、彼にはすでに家庭があった。
そして、今は別の男と付き合っている。
彼は、ただただ私と別れたかったのよ。
あのころの私は、彼の退屈そうな横顔や、素っ気ないメールの返事を見るたびに、忍び寄る暗い影から目をそらしていた。つまらない私が悪いのだ、笑顔を奪ったのは私だと自らを責め、失われる愛情を取り戻そうともがいていたの。私には彼しかいなかったから。
だけど後悔しようにも、なにを悔やむべきなのかわからない。気がつけば、消えかけた思い出の中の、過去の理想を一筆書きのようになぞっていたわ。
彼にとって、結婚とは何なのか。家庭とは何なのか。
愛してると言った彼の言葉は、いったい何に向けられたものだったのか。
誰でも愛することのできる彼は、本当は誰も愛していないのではないか。
彼の心はどこにあるのか。
電話を切って、汗ばんだ不快な体を気だるく起こしてシャワーを浴びた。
少しずつ浴室に湯気が満ちて、乾いた気管を湿らせた。
ハンドルを回してシャワーを止める。湯煙は次第に薄くなり、寒々しいタイルの壁には雫が格子を作っていた。わずかに開かれた窓の外には、木の葉がひとつ、街路樹の枝先にしがみついている。浴槽の水面に波はなく、冷たくなった浴室で、頬の一筋だけがあたたかかった。