第8回応用哲学会「分析形而上学と科学哲学の対話可能性」感想戦

前回の続きだけれど,今回は疑問に答えるのではなく,俺個人の感想を書いていく.

何よりもまず,結構な人が来てくれていた.「すごく多かった」みたいなこと言われたので,そうなのかーって感じだ.正直,部屋が比較的多かったけど,隣の席を開けて座んなきゃいけない感じの教室だったので,あんまり感じなかった.あと,I先生に言われたのだが,後ろのほうに分析系の人いたらしいなぁ.手もあげていなかったし,いいんだけど怖い怖いっていう.

司会は少し失敗して,質問時間の時間配分をミスってしまった.発表時間はコントロールできていたので残念.

正直,今回のこれがどう見えたのかというので,各人の「科学主義」度合いが見えるのではないかと思う.分析形而上学の返答で,俺が納得しているはずだと思う人もいれば,これは溝深そうと思った人もいただろう.その辺はアンケートとっても面白かったかも.

さて,真面目な感想としては大きく二つある.
まず,これは科学史で勉強したやつだーっていう感想.もう一つは,これ,科学者が怒ってたやつだ―っていう感想.

Peter GalisonのImage and Logicという本がある(きちんとサイトしていないが,ヘロヘロの中新幹線で書いているので許して).この本で,異分野が共通の課題について扱うようないわゆる異分野融合のケースが検討されている.物理学における二つの異なる伝統みたいな話だったと記憶しているが,正確ではないかも.まぁ,その中で,異分野融合の果てにひとつの分野ができるのではなく,交易圏trading zoneというものが出現し,その中で議論が展開されるという話がある.さらに,交易圏での議論のためにピジンと呼ばれる言語が形成され,それによって,実は同じイメージを共有していない可能性があるにも関わらず議論することができるようになる...といった分析がなされている.本自体は分厚くて,一部授業で読んだだけだし,不正確かもしんない.

今回のWSはまさしくこのようなケースで,ピジン,つまり共通言語が作れなかった事例だと思うと非常に理解しやすい.一見,共通のリサーチプログラムが展開可能に見える(そして北村さんはそういう主張だった)が,実は議論することができないのではないか.なぜなら,二つの分野の間にピジンが形成されなかったからだ.例えば,「世界」という言葉は分かりやすい.形而上学者は世界の可能性の探究をしていると主張するが,俺にとっての世界と明らかに異なるものを想定しているようにみえる.だからこそ,問いとかが無意味に見えたりしたのだろう.また,形而上学にとっての世界はおそらく森田が想定している世界をも含むような非常に広範な世界であろう.だからこそ,分業が可能だし,似たような分類が可能だと分析形而上学者は主張するが,科学哲学にとってはそうではない.なぜなら,科学哲学者にとっては,その世界は研究の対象ではないからである.ここでは,「世界」という概念がピジンになれなかった,かつ,この世界という概念がある意味で研究のキーワードの一つであるからこそ,ピジンが形成できなかったことが問題になるのだろう.これは自覚できたケースだが(他にも実在とか科学もヤバそう),おそらくより本質的に自覚できていない概念があるはずである.

この事例が面白いのは,少なくとも広い意味では同じ分野の研究者同士でのやり取りにもかかわらずうまくいかないということである.しかも,物理学や数学とはことなり「哲学」という曲りなりにも自然言語を中心に活動している分野間にも拘わらずこの問題が生じる.それだけでも,面白いでしょ?哲学者はメタ化しがちだし,発表者の一人はmetametaphysicsの専門家なのに!!!!問題の所在が言語化できない.言語化できても,おそらく理解できない.これは,異分野融合がスゴイ難しいのだと自覚するよい機会である.「異分野融合」とか無理だろ...っていう感想が実体験をもとに持つことができたのは本当によかった.


第二の話.

WSの構成からしても,科学哲学が分析形而上学に喧嘩を売ったわけで,科学哲学の方がリスペクトを欠いているのではないかと危惧していた.実際,野蛮な人々という表現があった通り,科学哲学は野蛮だった(科学者はこの比ではない).けど,よく考えるとこの認識,実は違うのかもと思ってしまう.

議論を見ていた方は分かる通り,森田の主張を分析形而上学の枠組みに回収,そこまで言わなくてもかみ砕くみたいなプロセスがあったと思う.これは,一つ目の話からも,当たり前の話で,交易圏が形成されていないのだから,回収したり,自分たちの言葉で表現しなければならなかったのは当然だろう.さて,この過程で非常に興味深い経験をした.一つ一つの言葉を追うことはできるし,論理的な展開もわかる.なのに,「これは俺の言いたかったことじゃない!」とか「俺が大事にしていたものが軽視されている!」と感じた.

これはすごいことだ.自分の言いたいことをかみ砕いてくれたり,回収してくれていることは分かるし,一つ一つの推論は理解できる.なのに,俺の言いたかったことじゃないってなる.んで,「何が落ちたの?」って聞かれても説明ができないんだ!これスゴイ,本当にスゴイ.何かが失われているのに,何が失われているかわからない.たぶんモチベーションとかなんだろうけど,それは一応回収したことになっていた.高取発表の回収の仕方は最初理解できたのだが,だんだん「あれ?」という感じになって,結局,「俺のいいたいこととは違うかもしれない」という違和感が残った.ヤバい半端ないぞこれは.

これ,俺は見たことがあるしやったことがある.それは,科学者の科学哲学者の関係で見たことがある.科学者の中には科学哲学に期待してくれる人がいる.そういう人と議論して,問題提起されて,それを整理して,それを議論して...とやっていく.すると,共同研究になるのではなく,科学者から「俺の言いたいことはそういうことじゃない」って言われてしまう.かなり前だが,ツイッターで物理学者の疑問に対して,「それは正当化の文脈と発明の文脈ですよ」というツッコミが入った.しかし,「そういうことじゃない」といわれてしまっていた.つまり,本来俺は,「そういうことじゃない」と言われる側だったはずなのに,「そういうことじゃない」って言う側に回ってしまった.科学哲学者として,こんな幸運があるのだろうか.両方を体験できた.素晴らしいことだ.

ここで,話がもどって尊重の話になる.ここまでの話を見ると,やっぱり科学哲学と分析形而上学だと科学哲学にリスペクトが足りないように見えるかもしれない.実際,科学哲学者が科学者と話す時にはそう感じていることが多いような気がする.でも,実はこれ逆だと思う.実は,分析形而上学の側にリスペクトがないのだ.しかもこれは無意識な形だと思う.議論を回収していくなかで,表面上見えにくいけれど,大事にしてるモチベーションや気持ちのところを分析形而上学の言葉で表現していくうちに何かがこぼれている.何がと言われても困るけれど,それをビンビンに感じる.何が落ちているのか分からないが,何かが落とされてるのだ.それは,ある種,分析形而上学の側にリスペクトが足りないのではないかと感じる.で,これはブーメランで我々科学哲学者もおそらく科学へのリスペクトがある面では足りないだろう.もし,この点を超えられるのであれば,すでに何らかのコンセンサスが形成された後だからか,そこが問題にならないようなリサーチプログラムが組まれているからだろう.根源的には,何かリスペクトの足りないところがあるように感じる.言語化できないのだけれど感じてしまう違和感がある.

というわけで,いったんおしまい.また気が向いたら更新するかもしれないけど.熱くなりすぎだ.笑
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