コミュニケーションとは、自分と相手との知覚器官を通じて情報を交換しあうものである
コミュニケーションは情報を交換しあうものなので、話している内容のみに依存するわけではない。
出会った場所、出会ったタイミング、顔のバランス、二重か一重か、鼻の高さ、唇の大きさ、歯が出っ歯か、歯が綺麗か、表情、姿勢、歩き方、立ち方、ファッション、髪型、髪は綺麗か、眉は整ってるか
聞き取りやすいか、どもっていないか、声の高低、話す速さ、声の抑揚、ぶりっこしていないか、鼻声か、今どういう話の流れなのか……などを経てようやく「言葉による情報交換」がスタートするのである。
これは意識して行っているわけではなく、その人間が今までの人生で得た経験や本能などをもとに、1秒未満で人を分類しているだけに過ぎない。
「そんなの嫌だ、見た目で判断するな」と思うのは人の勝手だけれど、これはどうあがいても覆らない事実であるので、時代が変わらなければ変わらない。
それはともかくとして……したがって、話している内容は見た目に比べるとかなり重要度が下がる。
この見た目というやつは、イケメンだとか美人だとかそういうことではなくて、もっと汎用性のある、『好感が持てるかどうか』というもので、イケメンじゃないからどうだとかそういうものは関係ない。
有り体にいうと、この段階で「好き」「嫌い」のどちらかに分類される。
コミュニケーションはイージーモードになる。相手が寄ってくることで、自分は受け入れらていると安心することができて、そうして落ち着いた言動を取ることができる。
あとはこの「好き」を増幅していくといったノリ。
不幸にも「嫌い」に分類された場合は、コミュニケーションの難易度が高まる。一般的な人は「やや嫌い」ゾーンから始まるので大抵難易度が高い。
そうして長期間のコミュニケーションによって「好き」だの「やや好き」だの「嫌い」だの「死ね」だのに分類されていく。
「嫌い」に分類されるとコミュニケーションが本当に難しい。
なぜなら心を開いてくれないので、どう話しかけても、何をしても、余計嫌われるだけだからだ。こうなっては誰にも止められない。
もっとメタな、間接的なコミュニケーションによって好感度を地道に上げていくしかない。
人間に対して心が開いているかどうかというのは、ものすごく重要である。
結局「どこまで心を開かせるか」というのが最終的な目標である。
これは「好き」とか「嫌い」とかそういう次元を超越したもので、「いないと死ぬ」という究極の依存である。要は相手の脳内に自分という麻薬をどれだけ注入できるかということに近い。
一般的に、心を開いてる(ように見える)人間は、顔がどうであれ好かれる傾向にある。
「いい天気だよね」「今日こんなことがあったよ」「いま散歩してる」「見てこの景色綺麗じゃない?」「ご飯作ったから撮った!」などという発言は良い傾向である。
たとえば「ご飯作ったから撮った!」というのは、「あなたはわたしがご飯作ったっていうわたしの生活状態の一部を見る権限があるよ。そしてそれを見てなんらかのリアクションをわたしは求めているよ」の省略表現である。
「おいしそうじゃない?笑」は「おいしく作れたと思うんだけど、あなたはどう思いますか?肯定を望んでいるけれど」の省略表現である。
なので全然親しくない人間に対して、こういうことをする人は少ない。
もし親しくない人間にされたら間違いなくこう思うはずだ。「で?知るか。死ねよ」と。
親しい人間からされたからこそ「おー!すごい!おいしそう!」とか「可愛い。しかも料理できるとか。嫁にしたい」とか思うわけ。
余談だがここから「一般人のくせに生活状態をパブリックに晒しまくる女は、簡単にヤレる。そしてメンヘラである」と導出可能。
心の開き具合が違いすぎると、コミュニケーションにギャップが生じてくる。
「ご飯作ったから撮った!」「で?知るか。死ねよ」というのはまさにそれだ。
コミュニケーションを円滑にするためには、相手の心の開き具合を見極めて、そうしてその少し上ぐらいを自分が開くことで、良いスパイラルを生み出すことができる。
コミュ障の1つの指標として、『これを知ってるかどうか』というのがあると思う。
基本的に無意味に開きすぎると、「キモい」「死ぬほど嫌い」と思われる。
「こんにちは……」
「こんにっちわー!」
「ちーす!」
「ちわわーす!」
「ちわわーん!」
「こんちわ!」
「こんにちは!」
「こーんーにーちーわー!」
「こんにちは。」
「こんにちわ〜」
「こ…こんにちは……」
と、文字だけでもこれだけの表現の違いがある。つまり、話の内容よりも、話し方の方がよっぽど大事なのだ。
「こんにちは……」なんて、どう頑張っても好印象にはならない。たった2文字余分についただけなのにだ!
相手が超イケメンでも、これのせいで「は?根暗かよ」と、好感度がかなり急降下する。その後はもうひたすらdisる箇所を見つけられていって、最終的にあぼーんするだけだ。
言葉が同じだからといって、意味や想いまで同じだと、思うなよ。
少し前にあいさつの魔法とかいうのがはやったけど、ほんとうにこれは魔法的な効果があるものだ。
元気いっぱいにこんにちは!というだけで、「あ、この人はいい人なのかも」と思わせることができる。そうして勝手に心が開かれる。
現代人は基本的に元気がないので、元気がある人はレアキャラなのである。
みんなレアは好きだ。しかも元気をもらえるような気がするからなおさらだ。
ただこれは存外難しい。なにせ、自分はそんなキャラではないから、とてつもなく恥ずかしいし、あいつどうしたんだなんて思われたくもないからだ。
もし下がったとしたら、それは相手が歪んでいるので、心配することはない。これはもう徐々に変えていくしかない。
ぼくはコミュ障だったので、心を開くとかいうものの意味がわからなかった。
「食べたいなら自分で買えばいいじゃん。なんでシェアするんだ。あほなの?」と思っていた。
「お菓子の交換」は「お菓子食べたいから」ではなく、「お菓子を交換しあうことができるぐらいの仲の良さを確認し合うコミュニケーションフレームワーク」なのである。
だから「ガムいる?」は「俺おまえとちょっと仲良くなりたいって思ってるよ」という意思を示しているわけだ。
なので「いやいいよ笑 今はガム食べたい気分じゃないし」などと拒絶すると
「拒絶された!」と思われて、相手の自分に対する心の開き具合がかなり緩やかになるわけである。
ガムがほしくなかった場合は、「いやガムはいいや。グミだったらもらったけど笑」と言えば、「お菓子の交換を拒否されたわけではない」と思われて、軋轢を生まないのだ。
実際のところどうなのかは、とんと知らんがね!!!
こういった、リア充が先天的に獲得していて自然に行っているハイレベルコミュニケーションは、後天的に獲得したコミュ障にとっては、ものすごく難しいものである。
それはコミュ障をジェネレートするような家庭に育った自分を嘆く他ないが、コミュ障になってしまったものはしかたがない。
ただ知ってしまって身につけてしまえば、そのリア充よりも上をいくことになる。
リア充は拒絶されるとただ傷つくだけだが、後天的に身につけた人は「あ、今そのレベル。了解です」と思うことができるからだ。
信頼というのは、極めて重要だ。
なにを成すにしても、相手を疑っていてはキリがないからだろう。
「横断歩道で青になったから渡ろう」というのは、「今ここにいる車を運転している人は、少なくとも赤信号のときは止まってくれるだろう」という信頼の上に作られた強固な信念である。
ぼくは人なんて大体信じていないので、車の運転手の顔と仕草、車のスピードを必ず確認する。
道行く人のこともこれっぽっちも信じていないので、いつ刺されるのか戦々恐々としている。もうこれは病気の域なので許してほしい。
ただそんなぼくでも、状況によっては信じていることもあるので、もうなんか、毎日波乱万丈で命がけめいた生活を送っている。
これはこれでアドベンチャーめいて悪くはない。
さっき書いたみたいに信頼がなければ何もできないので、人と人とで信頼関係を結ぶのだ。
結局そこが重要だ。
人は他人に対して「自分の人生を預けられる人か」「全部委ねても問題のない人か」というのを求めているわけ。
ぼくはそれは大嫌いだ。自分の人生を人に委ねるな。お前のことはお前が決めろと思う。嫌なら俺に食われろと。代わりにぼくはきみに愛をあげるから。
特に万人受けするようなコミュニケーション手法はない。ある人にはバシッと一致したやり方が、別の人には全くヒットしないことも数多ある。
整形したけど好きな人には見向きもされなかったということもあるだろう。おもしろい悲劇だ。
でも一般的にはすべてのコミュニケーションは、この上に書いたような概念で成り立っているとぼくは思っている。
かなり抽象的なものだが、この概念を体得することによってコミュ障はコミュ障でなくなれると信じている。
ぼくはこれらの上に書いたことを自分の人生経験によって後天的に獲得したけれど、未だ極致には及んでいないと思っている。
でもそれでも、昔のぼくみたいに、コミュ障で苦しみ抜いている人の、何か手助けになれば嬉しいと思います。
あ、あと彼女募集中です