大正14年自動連結器化の偉業
手持ちの古文書から、連結器でファンの皆さんが興味を惹きそうなところを拾い出して紹介していますが、我が国ではやはり、1925年、大正14年に実施されたネジ式から自動連結器への一斉取替を抜きにしては語れないだろうと思います。「客貨車工学」の著者、小坂狷二氏が実施計画そのものを担当したとのことで、本書には3頁を割いてその実際が記録されています。
次は、その経緯のクダリです。
この難工事が美事に遂行されたのは現場従事員の熱誠努力にも拠るが、計画に当たられた車両課客貨車の主任小山磐氏の功績に没すべくもない。最後のドタン場に氏はNew York工作局派出所主任として渡米され、筆者が後に取り残されたのであったが、小山氏の綿密な計画を踏襲して事なきを得た。
で、この「小山磐」氏ですが、検索すると「日本エスペラント運動人名辞典」に出ているのです。長野県出身の1882年生れ、東大卒、技師とありますから当時43歳。これはもう百パーセント本人に間違いなく、著者とはこの面でも親交のあった方のようです。この時、小坂狷二氏は1888年生まれの37歳ということになります。
また、この一大事業に関してはウィキペディアの「連結器」の項に「日本のねじ式連結器廃止」として結構詳細に説明されているので、ここではそれ以外の点について紹介することにしましょう。
1917年8月大井工場において代表的貨車8種に設計案を施したものにつき最後の比較調査を行い、翌1918年から改良費予算が組み込まれていよいよ改造工事に着手した。
第1期 改造工事 全車両に対し漸次予算に応じ改造工事が実施された。要は中梁に伴板守を取り付け、自動連結器胴を入れる様に端梁中央下端を切り欠き、上下胴受を取り付け、端梁の切り取り箇所に再び座を埋め込んでネジ連結器を取り付けるのであるが、なにぶん当時貨車の1/3は木製中梁のものであり、これは適当な補強工事を施さねばならず、また中梁間隔も狭くて自連を受け入れられぬものもあって、これは中梁取り拡げという大改造工事になる。その上鉄道国有、地方鉄道買収の結果、台枠の構造も千差万別であり、構造に応ずる改造図面を1冊の本にして配布せねばならなかった。
第2期 自連の釣り下げ工事 機関車、客車は配属が決まっているから取り替え当日工事場を計画指定できるが、貨車は共通車で全国を渡り歩いているのであるから、自分の自連を持って歩かせることにし、枠、バネ、伴板を付けて組み立てた連結器を各車端台枠下に釣り下げ、解放テコも同時に取り付けた。
第3期 検査と訓練 色々なゲージを作って第1期工事の正確さを検査し、ナットに給油を行ったのであるが、旧連結装置を取り外し、同時に釣り下げた連結器を下ろして実際に取り付けを行った。取り替え当日はスパナを手にしたことのない塗工などまで総動員で施行するのであるから、この取り外し、取り付けはあまねく各予定の作業班をしてこれを実施せしめた。すなわちこの方法をもってすれば第1期工事の良否の検査と作業訓練とが同時にできたわけである。また各所に講習を開いて従事者のみならず一般の者が自動連結器採用の重大な意義を理解し、熱意をもって協力するようにし向けることに努めた。
かくて予定のごとく8年間の準備工事が完了し、大正14年(1925年)7月17日、九州を除く全線一斉に取付替を行い、何らの蹉跌もなく目出度く曠古の改良事業を成し遂げ得たのであった(九州は7月20日付替)。7月17日を選んだのはお盆の休み明けで統計によって貨物の出回りが少ないからで、また日も長く気候も良く、気象統計でも天気が良いことになっていたからである。
自動連結器採用による成果 ネジ連結器の欠点とせられる次の点が改善せられたことになる。
(1)引張力の制肘 ネジ・鎖連結器は腕力を持って連結を行うのであるが、当時の引張力10tの基本連結器は重量20kgあり、それ以上は強さ(すなわち重量)を増し得ない(当時引張力8tの連結器も相当残存していた)。自動連結器を採用すれば50%以上列車重量を増加し得る(当時の1-D-1形式新機関車は既に13tの引張力を有していた)。
(2)作業性 既述のごとく本邦使用の連結器は1車端にネジ、他車端に鎖連結器が取り付けてあり、同種連結器が向かい合った場合には連結ができず、車両を転向するか、連結器の取付替をせねばならぬ(1916年の1ヶ月平均取付替え件数93,530、存外に大きな数字に上がっている)。自連になればその要が無く、また連結解放にも手数時間がかからぬゆえ、関係従業員人数を減少し得る。自連採用前に連結手4,083人であったのを583名減員し、これを他の職に転ぜしめた。14.3%の人員節約である。また環状線の分岐駅には前後連結器取付替のため108名の検査手を配していたが、これは全然要らなくなった。
(3)列車分離事故 在来の連結器は華奢であるから折損が多い。
(4)連結関係従業員の死傷 動く車両の間に立ち入って重いネジ・リンクを引っ掛けるのであるから死傷が多い(しかも死亡の割合が多い)。多数の従業員を昼夜命取りの仕事に晒すことは人道上許すべからざることである。次図は1925年7月以前と以後とにおいて、1千万列車km当たりの列車分離事故と連結関係従業員の死傷者数がいかに違うかを如実に物語っている。
(5)修繕費 ネジ連結器は上品な仕上品であり、摩耗も多く修繕費がかかる。また前述のごとく引張力に劣る基本外の連結器が残存しており、その基本化改造に費用を要していた。自連修繕費(北海道鉄道管理局管内は自連を用いていた)はそれよりも費用は少ない(摩耗した面は盛金ですむ)。1915年度1車当たりの修繕費は次表の通り。
連結器取り替え改造工事費用 次表の通り
外に、地方鉄道への補助金1,470,115円、取り外し品処理が1車当たり約半t、全量16,142t、指定の工場へ回送。利用しえるものは再生、外は売却した。
「お盆」といえば今は8月15日前後ですけれど、この頃は旧暦の影響が根強くて7月15日を中心としていたのでしょうか。ただ、いくら「気候が良い」といっても夏で、長い歴史でのただの1日とはいえ大変な作業だったことでしょう。そういえば某社の電車線電圧変更は12月でした。実施日の選定は一体どういう理由だったのでしょうね。
列車分離事故のグラフで、件数が減少するタイミングが1年ほど遅れているのは、新造した自動連結器に粗悪品が混じっていたのかとも思います。また、それぞれの年度の上半期と下半期で、下半期が多めとなっているのは、寒冷期ゆえの低温脆性でしょうか。
アメリカがピンリンク式から自動連結器への転換を法律で決定したのが1893年で、こちらは両方の連結器を共用することが可能だったので、10年を掛けて斬進的に移行したデータも示されています。
以上、これは計画した立場の人間による記録ですので、ウィキペディア(出典不明)と種々見解が異なるのも面白い面です。特に施工両数に開きがあるのはどうしたことでしょう。機関車の3,200両と、客車の9,000両はよいとして、貨車の46,000両はこちらに示してある51,552両とは大きな隔たりがあります。予定と実数の違いなのでしょうか。
なお、最上部に掲げた4枚の写真は、1955年ポプラ社刊、小沢俊雄・福島善清共著「少年産業博物館(8)日本の鉄道車両」に掲載されているものです。そう、この著者名に注目ですが、こちらについてはまたいずれ。
■「ねじ式連結器の知られざる真実」や「バッファーの力学」もご参考まで
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