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日本製のゲームはアーケード、家庭用ゲーム機ともに早くからアメリカに進出していましたが、それはPCゲームにおいても同様でした。もっとも、PCゲームの場合は大きくふたつの時期に分かれます。おおまかにいうと1980年頃と1987年頃のことで、いずれの時期も、発売された作品数こそ多くないものの、歴史に残るようなヒット作が生まれています。
80年代後半のアメリカでもっとも成功した日本産のPCゲームが「テグザー」でした。アメリカでは86年にシエラから発売され、数々の名作で知られる同社の歴史においても、とりわけ大きなヒットになった作品です。

シエラの1989年度版製品カタログは、創業10周年記念ということで、例年にまして充実した内容になっているのですが、その中に興味深い記事がありました。それはシエラの創業社長、ケン・ウィリアムズが初めて日本を訪問した時の思い出をまとめたもので、来日中にあった出来事をいろいろと語っているのですが、その中には「テグザー」との出会いも含まれています。その内容を以下にまとめてみました。

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「初めて日本に行ったときは、シエラのゲームを日本で売るための下調べが目的だったんだ。だけど、すぐに気がついた。アメリカのソフト会社の方こそ、学ぶべきことがたくさんあるってことにね」

1986年、シエラの社長であるケン・ウィリアムズは初めて日本を訪れました。当時の彼は日本市場について、ほとんど何の知識も持っていませんでした。考えていたのは、PCの使い方について日本人は学ぶべきことがたくさんあり、それを自分が教えてやりたい、ということでした。

日本市場を調べるうちに知ったのが、任天堂の「ファミコン」という機械でした。それはカートリッジ式の家庭向けゲーム機で、大変な売れ行きを示していたのです。

当時、任天堂のアメリカにおける知名度は微々たるものでした。ところが、日本では任天堂のファミコンは400万台も売れており、「スーパーマリオ」というゲームはそれこそ全国的なブームになっていました。

日本ではゲームというものがすっかり世の中に浸透しており、日本の子供たちが披露するゲームの腕前は驚くほどの水準にありました。そして何よりケンを感心させたのが、日本製ゲームの出来栄えでした。そこにある職人精神に大きな感銘を受けたのです。

「初めて日本製のPCゲームに接した時から、すっかり惹きつけられてしまった。グラフィックもサウンドもじつによく出来ているんだ。本当に信じられないくらいでね。これはもうプログラミングなんてもんじゃない、ひとつの芸術だと思ったよ」

こうして、自社製品を売るつもりで来日したはずが、逆に日本の製品を持ち帰ってくることになったのです。また日本のソフトウェアから得た知見は、後にシエラの自社製品向けスクリプト言語SCIにも取り入れられました。

(SCIは「キングス・クエスト4」「スペース・クエスト3」などに使われたシエラ内製のゲーム開発ツール)


テグザーとの出会い

来日中、とりわけ印象に残ったのが「テグザー」というゲームでした。ロボットが変形するという趣向は、最近になってアメリカの子供たちにも、おもちゃを通じて人気を呼ぶようになりましたが、テグザーはそれだけでなく、ゲームとしても実によくできていたのです。

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すぐれたアクションゲームに共通の要素として、分かりやすさがありますが、テグザーにもそれが備わっていました。どういう内容のゲームなのか、やり始めればたちどころに分かります。ゲームを進めるうちに、難易度はしだいに高くなり、キャラクタの動きも早くなります。そして何より、内容に深みがあるのです。

ケンはこのゲームに熱中し、店頭のデモ機で遊んでいたのですが、長いこと独占したため、3つものお店でプレイを控えるよう丁重に注意されたほどでした。それでも、どうしても3面がクリアできなかったのです。結局、ケンはテグザーと、それが動作するNECのPC-8801というコンピュータを買ってきました。

「シエラに持ち込まれたPC-88は、電源の関係で、アメリカで動作するよう改造しないといけなかったんだけど、それから社内の開発がすっかり滞ってしまったんだ。なんせプログラマや品質管理の連中がテグザーに興味津々って感じになってしまったからね。それで、このゲームをアメリカで出せないかと思うようになった。そうなればみんな仕事に戻ってくれるだろうし」

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(シエラの社内に設置されたPC88)

テグザーがアメリカで発売されたのは1986年の暮れのことでした。それは1987年度のシエラでもっとも売れた製品となり、(ケンにとっては困った話ですが)シエラ社内でもあいかわらず熱心に遊ばれていました。そして次の大きな波がやってきたのです。それが「シルフィード」でした。


シルフィード襲来

やがてシエラは、テグザーの開発元である日本のゲームアーツと親密な関係となったのですが、その彼らが次にもたらしてくれたのが「シルフィード」でした。

シエラの業務を停滞させたのがテグザーなら、シルフィードは社員みんなのやる気をかきたててくれました。というのも、シルフィードは面ごとに違う曲が流れるため、誰かが新しい面に到達すると、たちまちその周囲に人だかりができるのです。

結局、88は開発室から出されてしまい、階段下のカギのかかる小部屋に移されました。当時、シエラにはゲームアーツから派遣された日本人プログラマが常駐していましたが、88は彼専用のマシンになったのです。そして、他のプログラマは業務時間中その部屋に立ち入ることを禁じられてしまいました。

それでも夜になると、階段下のあの部屋から、シルフィードの曲が聞こえてくるのです。

「ある時、真夜中ごろに会社に立ち寄ったら、ものすごい音量でシルフィードの曲が流れていたんだ。それで、てっきりプログラマの誰かだろうと思って、音が聞こえてくる先をたどっていったら、そこにいたのは経理部長だった」

「それが、もう大変な入れ込みようでね。真っ暗な部屋の中で、ジョイスティックを手に握って、夢中になっていた。ミサイルの発射音も口マネしていたと思うよ。本人は認めないだろうけど」

「それで確信したよ。こいつもヒットするに違いないってね」

テグザーはシエラの歴史でも有数のヒット作となりましたが、シルフィードがそれを上回るものになるかどうかは、1989年4月に出たばかりということで、まだ結論を出すには早いといえるでしょう。

もっとも社内ではあいかわらずプレイされています。今では社内でもすべての面がクリアされ、曲もすべて知られているのですが、それでもなお、シルフィードはそのすぐれた内容によって、皆を惹きつけているのです。

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結局、「シルフィード」は「テグザー」には及ばなかったのですが、それでもかなりのヒットになりました。その後もシエラは「テグザー2」「ソーサリアン」「ゼリアード」などの日本産PCゲームを移植し、アメリカで発売しています。

変形メカという、いかにも日本的なギミックが盛り込まれた「テグザー」と、角度のついたシューティングという趣向の「シルフィード」は、いずれも当時の主なPCゲームとはまったく似ても似つかない個性的な作品で、海外の人々に強い印象を残したといいます。

あまり長くは続きませんでしたが、アーケードや家庭用ゲーム機と同様に、日本のPCゲームも海外で人気を呼んだ時期が確かにあり、それを象徴する作品が「テグザー」と「シルフィード」だといえるでしょう。


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(シエラの商品カタログで紹介された「テグザー」と「シルフィード」)