受け止め方の多様性と、グローバル社会
Q それらの表現に対する受け止め方は、日本と海外で、違うのでしょうか?
受け止め方の差は、大きいと思います。日本社会は、マクロ的には、《架空表現は架空のものと割り切る》というリテラシーがよく共有されている社会に思えます。たとえば、私たちは、時代劇で人が斬りあうシーンや斬首のシーンをお茶の間で普通に見ています。それらに触発されて同じことを実行してしまう人がたまたま出てしまったときには大変なニュースになるわけですが、それは、その種の作品を見てもそのようには動かない人が圧倒的大多数であることの裏返しでしょう。
ただ、この要素は相対的・流動的なものだと思います。たとえば、もしもそんなことがニュースにならないくらいに日常化してしまったら、その時は私も「創作表現や架空表現にも法規制が必要だ」と主張する側に立つと思います。が、とりあえず現時点では、日本国内の状況克服のための提言としては、この項目は緊要度において他の項目よりも劣ると思います。
しかしその作品が海外に出たときに、どう受け止められるのかは別の話です。このズレは、文化の多様性をどのように尊重していくのかという視点からも議論しなければならないことだと思います。ある表現がどのように受け止められるかは、社会ごとに異なるわけで、文字通り、文化多様性の問題になってくると思うのです。
遊郭ものの例で言えば、いま日本社会の中でそういう漫画やアニメを見て、「女性を大量に拉致して売春を強制したら儲かりそうだ、やってみよう」と思う人が増える危険はほとんどないと思います。が、海外では、まさにそれが憂慮されるかもしれないのです。
あるいは、無邪気な子どもにみえる登場人物たちが、武闘で念力波を炸裂させあうシーン。日本社会にいる私たちは、アニメの中の戦闘シーンを、フィギュアスケートのジャンプや、空手の演武を見るのと同じ感覚で見ているように思います。しかし土地が違えば、こうした表現が文字通り児童兵士の戦闘に見え、念力波のシーンも手榴弾の比喩表現に見える可能性が、なくはないでしょう。そのとき、日本の表現文化の独自性も尊重されるべきですが、別の土地でなされるかもしれない特殊な受け止め方も、理解しておく必要が出てくるわけです。
たとえばカリフォルニア州が暴力的なゲームを規制した結果、日本のゲームのいくつかが流通できなくなったり、イスラム圏のいくつかの地域では少女が主体的に戦闘アクションを演じるアニメーション(「セーラームーン」など)が放映できなかったりといったことは実際あります。それは受け手の国や州の事情を尊重するべきで、日本政府がそれらの国や地域にたいして「日本のコンテンツ流通を認めろ」と要請することはないでしょう。
しかし国連女子差別撤廃委員会の見解は、日本社会への提言として行われています。そうすると、「女子現代メディア文化研究所」の意見書にあるように、その規制は今のところ、現実の差別撤廃には関係がない、ということになるでしょう。
その筋で言うなら、私は、性表現や暴力表現を含むアニメや漫画よりも、時代劇や家庭ドラマに出てくる「よくできた嫁」とか「家族のために喜んで自分の人生を犠牲にする献身的な母」といったステレオタイプのほうが社会的影響力があるだろうと思います。なぜなら、多くの日本人は、性暴力のようなあからさまな《悪》に対しては、割り切って距離をとることができますが、「誉められること・期待されること」に対しては、距離を取れないことが多いからです。
委員会が、そこもソフトな表現ではありますが指摘しています。教育現場で使われる教科書も含めたさまざまなメディア表現を通じて、男女の役割をステレオタイプ的に固定させるような表現が見受けられ、それが女性の社会進出を阻む要因になっているのではないか、という指摘です。教科書に案内役として登場する架空人物や、人気のあるドラマ・アニメの登場人物となれば、文字通り、シンボルとしての効果を発揮するでしょう。
これは法規制になじむ問題ではない、ということは委員会のほうでも承知していると思いますが、《シンボル》的なキャラクターを用いた《美徳》の表現は、政治的誘導の効果をもってしまうということについて、為政者やメディアには気づきと自戒がほしいところです。政府や教育行政部門やメディア関係者が、この部分の指摘を、そうした意味で心に止めてくれるよう期待したいと思います。
Q 文化の多様性を認める議論からは、むしろそこは、日本の文化の独自性を尊重してほしい、ということにはなりませんか。
たしかにそうですね。多文化主義とか文化多様性の議論からすると、《自国の文化的伝統だ》と言える事柄については「介入するな」と言いやすい。一方、比較的新しい大衆文化である漫画やアニメについては、そういう反論はしにくいので規制の提案を受け入れやすい、ということになるのかもしれません。
しかし《文化的伝統だから》といって開き直ることが多文化主義なのか、というところは、丁寧に論じていく必要があります。多文化主義とジェンダー平等の間には深刻な緊張関係があり、欧米諸国はこの問題に悩んできました。日本もこの問題に直面せざるをえないところに来ていると思います。(注)
(注)この問題の理論面については、志田陽子「多文化主義とジェンダー」全国憲法研究会編『憲法問題23』(三省堂、2012年)で考察を試みた。
今回の女子差別撤廃委員会より以前に、国連人権委員会では「ブキッキオ報告」というものが出され、これが政府に対して、漫画やアニメ、コンピュータ・グラフィックなどの分野での性表現規制を求めていました。ただ、提言の根拠となる事実について、たとえば「秋葉原」という場所で流通している表現物について、より丁寧な検証をしてもらうことが必要だと思います。その多くは、国際社会が真剣に危惧しているようなタイプの児童虐待ポルノやその架空表現とは違うものだという指摘が、表現者たちから聞かれるからです。
委員会が持っている問題関心は、作家の意図や良識の問題を離れて、作品がどういう社会的作用を持つのか、というところにあるのだと思います。ふとどきな作家を罰したい、という関心はないでしょう。この関心においては、実写表現か架空表現かの区別は、それほど重要ではないだろうと思います。
たとえば今、若い女性や児童を奴隷化することを公言しているような集団が出てきていますけれども、委員会は、そういう残虐な状況を視野に入れて憂慮を示しているのかもしれません。その残虐な状況を防ぎたい、という関心と、日本のアニメや漫画が関係するのかどうか。日本のアニメや漫画を規制すれば、そうした状況に少しでも歯止めがかかるのか、ですね。
これについては、委員会が関連付けをしたい心情は、心情としては、わかります。日本の漫画やアニメの一部のものが、可愛らしい絵柄ではありながら、もしも実写に置き換えたら性暴力や児童兵士戦闘に当たるものを描いていて、それが消費文化の一部を形成していると。とくに日本の漫画・アニメの誇張表現に慣れていない人が見たとき、多くの作品にそういう印象をもつことはありうると思います。
そういう作品がインターネットを通じて海外に流出して、結果的にそうした行為への一般人の「許容度」toleranceを上げてしまう。これを委員会が心配していることは、報告書からも読み取れます。この憂慮が、そのまま普遍的な通用力を持つのか、あるいは、文化の多様性を尊重する視点を漫画アニメといったポピュラーカルチャーにも認めていくか、ですね。
これについて、果たしてシリアのISやアフリカのボコ・ハラムなど、女子教育を否定し女子の奴隷化を公言し、児童を戦闘に利用している集団が、日本の漫画やアニメの影響を受けているかどうか。そこを関連付けるとしたら、具体的な検証(立法事実の提示)が必要です。
もしもその関連が事実として実証されたなら、ここで被害を受けている女性と児童の現実の問題は、生命と人身という《普遍的な人権》の問題だと思いますので、日本政府はこの事情を理解し、一時的にでも、関連が特定された表現物について海外への流通を見合わせるよう業者に協力を要請しても良いと思います。…今のところ、私には、その関連性は想像しにくい気がしますが…。
ただ、そこまで極端な状況ではないけれども、児童の奴隷的労働や女子の早期結婚が問題となっている地域では、もしかしたら、日本の漫画やアニメがある程度の社会的影響力を持っているのかもしれず、一部、輸出を控えるべき事情があるのかもしれません。そこは「見解案」の抽象的な記述からは、わかりませんでした。しかしその問題は、日本国内に規制法を作ることではなく、国際間で協議する場を作ることによって、対話的解決を図るべきだろうと思います。(注)
(注)国連女子差別撤廃委員会の「見解案」の上記の部分の読み方については、主に大屋雄裕「国連機関による報告書二件に関する所見」(前掲)を参照した。
リアルで困難な問題への支援を
Q フィクションへの規制や取り締まりは問題の解決につながらない、とすると、どんな取り組みが必要と考えていますか?
実在する女性や児童の人権が侵害されている、あるいは実現できていない、という問題がたくさんあるわけですから、これについて、まっすぐに取り組むことが必要です。当たり前すぎる答えですが、この当たり前のことを、とにかく言わないとならないんです。これは、日本国内の問題と、世界全体の問題があります。
日本国内については、まず、女性の貧困化が進んでいる、とりわけ幼い児童を抱えたシングルマザーの貧困化が進んでいる、ということが問題です。これを自己責任論でもって放置していることが、多くの悲劇を生んでいます。
日本では、子どもを育てるのに大変なお金がかかることになっています。その中で、女性が一人になってしまうと、育児と仕事の両立があまりにも難しくなり、精神的にも経済的にも追い込まれてしまいます。育児ができなくなる女性が出ると、ひたすら女性を非難するのが日本社会ですね。その前提として、母親というものに対する過度の理想化があると思います。これを変えないと。
また、貧困問題を含めなんらかの事情で児童を養育する力を失っている家庭で、結果的に育児放棄などの児童虐待が起きているという問題に、国が本気で対応しなければいけないと思います。これは現在争点化している保育所の問題ともつながっていますし、里親制度をもっと活性化させるなどの方策も必要だと思います。
児童虐待の事例として表面に出てくるのは氷山の一角で、数字に出てこない問題がたくさんあると考えるべきです。これらは福祉的観点から支援するのでないと、問題を把握すること自体ができないのです。親が「知られたら警察に踏み込まれる、逮捕される、社会から非難される」と思ってしまったら、どこまでも隠そうとするからです。
童話の「北風と太陽」と同じで、刑罰によって責めるのではなく、「できないならできないなりに、支援を求めてください、それが子どもとあなた自身のためです」と呼びかける支援策が必要だと思います。これは、児童の問題であると同時に女性差別撤廃のための課題として、緊急を要する課題だと思います。
次に、世界の課題としては、女子への結婚強制、とくに早すぎる年齢での結婚強制の習慣をやめさせて、教育の機会を提供することが課題となっています。日本はこの分野では、憲法24条で家制度に基づく強制結婚を断ち切り、27条3項で児童労働を断ち切り、そして26条で教育を受けさせる・学校へ通わせるというプラットフォームの平等化に成功した国です。その成果をここで止めてしまわず、日本国民がその成果をもっと健全なかたちで享受し、世界にどう助力できるかというところに目を向けられるよう充実させることが求められていると思います。
世界の比較的貧困な地域では、今でも、女性に次々に出産をさせて、その子どもを人身売買の目的とする、といったことが発覚したりします。また、児童奴隷労働という言い方がされますが、不当に安い賃金で不当に長時間働かされ、その結果教育が受けられない子どもがまだ多数いることが報告されています。そういう問題への取り組みには、日本もぜひ積極的に協力するべきでしょう。
たとえば人身売買問題については、日本も、刑法の中に人身売買罪の規定を設けています。そうすることで、国際社会の中にまだ残っている人身売買に、少なくとも日本の民間人が加担することのないよう、禁止をかけるという取り組みをしています。
こういう最小限の普遍的人権の分野では、厳しいペナルティを科すような法規制も必要で、ここで国際社会がルールを共有して連携することは、文化の独自性を超えた必須の事柄と考えられます。女子差別撤廃委員会の見解の内容の中でも、女性の社会進出への社会的障壁を取り除くという課題については、こういった強い取り組み姿勢が求められるのではないでしょうか。
Q 「国連女子差別撤廃委員会」の主旨について、どうお考えでしょう? この委員会から出されてくる勧告に対して、政府はどのような対応をすべきでしょうか?
国連女子差別撤廃委員会の主旨は、「女子差別撤廃条約」の実現のための取り組みを具体化する、ということです。日本もこの条約に加盟していますので、その実現に向けた責務を負っています。
委員会は、世界各国の女性差別の実態を把握し、平等な社会づくりを目指して各国に改善を促しているわけですが、その提言の具体的内容に強制力はありません。日本は直接に義務を課されるというわけではないのです。が、その一つひとつにどう答えるかは、国際社会が見ているわけで、日本政府の見識が測られることになります。委員会が日本政府に対してさまざまな気づきを促していることに真摯に対応すべきです。
日本政府は、たとえその指摘は当たっていない、と思うことがあったとしても、外からはそう見えている、という《他者の視点》をまずは受け止める必要があると思います。日本の憲法には、先ほど挙げた24条、26条、27条3項以外にもたくさんの人権規定があり、その多くは世界人権宣言や国際人権規約の内容と合致しており、国際スタンダードと言える内容です。
日本という国は、まだ自国の憲法を本当に真剣に遵守しているとは言えない国です。せっかく国際社会がお尻を叩いてくれたのですから、そろそろ真剣に腰をあげましょう、と言いたいです。強制力のないものだからこそ、それを対話の端緒と受け止めて、自らの意思で腰を上げることで、国際社会から一目置かれる存在になってほしいと思います。
Q 問題を《法規制のルート》と《対話のルート》の二つに整理できるとして、問題をどちらのルートで解決すべきか、交通整理をすべきだ、ということになりますか?
そうです。私は、架空表現規制については、憲法との緊張関係だけでなく、差別撤廃の取り組みの焦点をぼかしてしまう点で、反対の立場に立ちたいと思っています。日本は女子差別撤廃と児童福祉についてはまだ本当に後進国で、プリミティブな現実問題のほうにまず手を付けねば、という段階だと思います。「法制度を創設ないし改善すべき」という提言は、そちらの問題に絞ってほしいのです。
一方で、委員会が架空表現について問題にしたいこと、防ぎたいと思っていることについては、日本の作家も理解する必要があると思います。ただし、ここから性急に表現規制に踏み込んでしまうと、クリエイターが血の通った対応をしにくくなると思います。
少なくとも私が知っているクリエイターの方々は、課題には果敢に応じる人々です。「海外のあの土地では、これこれの社会事情があって、この表現をされると真剣に困る人がいて、修正をお願いしたいと要望が来ている」という「相談」を受けたなら、それを課題条件として受けとめ、心ある配慮をするタイプの人々が多数いるでしょう。しかし、そういった人々の気概と自尊心が、上からの法規制、とくに刑事規制になってしまうと潰れてしまい、血の通った配慮ができなくなっていきます。
だから、世界にそうした事情があるというときには、政府に法規制を求めるよりも、日本のクリエイターとそうした人々の間で、情報共有・対話・調整のテーブルを設けることが必要だと思います。そのセッティングのために政府が一役買う、あるいはその調整のためにNGOが動く、といった場面は、あっても良いのではないでしょうか。
そして、しつこいようですが、今の日本は、現実の生命・生存・養育・教育・社会進出の平等、といった問題のほうに、まっすぐに切りこむことが必要だと思います。
(この論説は、3月16日時点での既公表報告書と新聞報道、論評記事に基づいて書かれています。)
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