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1930年代

1932年1月20日、昭和初期に滋賀県から上京し、実兄の仕事(シンフォニー楽譜)を手伝っていた草野貞二が東京都新宿牛込弁天町25番地に新興音楽出版社を創業する。当時のいわゆる流行歌を演奏するための「ピアノ・ピース」と呼ばれた楽譜を出版することから事業は始まる。
「軍艦行進曲」「君が代行進曲」等の楽譜がベストセラーとなる。
1937年3月、社屋を東京都新宿区戸塚町4丁目590番地に移転。当時は『バイオリン独習』などの独習書関係や時代を象徴した空前のヒット曲「愛染夜曲」「君恋し」などの『流行歌集』が出版物の中心であった。
歌謡曲の投稿誌『ミュージック・ライフ』を創刊。より新しい音楽家達と新しい音楽を世に広めてゆく。
1938年、当時24穴が主流であったハモニカを改良し、複音効果を持つ画期的「ニュー・ミヤタ・バンド」を開発。
『ミュージック・ライフ』が当局の干渉の為に『歌の花籠』と改題される。

1940年代

1943年、戦時下で紙類統制令のため休業となる。
1945年、太平洋戦争終戦。
社屋を東京都杉並区松ノ木町に移転し事業を再開する。

1950年代

1950年10月4日、株式会社に改組。新興音楽出版社(制作)及び新興楽譜出版社(販売)という体制となる。
5月、社屋を東京都中央区日本橋両国32番地に移転。
アメリカのポピュラー・ミュージックの楽譜出版に着手。
1951年、「リンゴの歌」「憧れのハワイ航路」等の楽曲をピアノ伴奏、歌詞、ハモニカ楽譜を加えた当時30円程のピースとして出版。
9月、『ミュージック・ライフ』復刊。
1958年3月、音楽雑誌『ウエスタンの友』発刊。当時の日本人カントリー&ウェスタン歌手を支援してゆく。
現在まで300万人以上ものピアニストに愛用されている『ピアノ小曲集』(小川一朗著) が発刊される。
日劇ウエスタン・カーニバルを支援。寺本圭一、小坂一也、ミッキー・カーチス、平尾昌章、山下敬二郎などがこのイベントをきっかけとしてスターダムに登っていく。

1960年代

1960年
2月、新宿区四ッ谷に編集部門を移転させる。
「ワルチング・マチルダ」で初の海外著作管理権を獲得。
米国のジャズ誌『DOWN BEAT』と独占提携し、同誌の日本版を創刊。
1962年
「赤鼻のトナカイ」「ウインター・ワンダーランド」等を海外著作権契約・自社翻訳収録した『クリスマス・ソング集』を出版。
海外出版社のヒル&ランジ、エイカフ・ローズ、アルドン・ミュージックと契約。ハンク・ウイリアムズやエルヴィス・プレスリー等のサブ・パブリッシャーとして著作権管理を行なう。
自社で訳詞したコニー・フランシス「かわいいベイビー」「バケイション」等を中尾ミエ等の歌手がカヴァーすることにより、海外ポップスのカヴァー・ブームをリードする。
『ミュージック・ライフ』が、日本の雑誌では初めてビートルズのインタビューをイギリスで行なう。またビートルズ来日時には日本唯一のインタビューを果たす。
米ポップス歌手ジョニー・ティロットソンに浜口庫之助氏作品の「涙君さよなら」を提供し大ヒット。日本でのレコード原盤制作の端緒となる。
1963年
4月、神田淡路町に編集部門及び著作権部門の事務所を設立する。
1965年
ブラザース・フォー、キングストン・トリオといったアメリカン・フォーク・ソングを紹介。その動きが後のカレッジ・フォーク・ブームを生む。
マイク真木の「バラが咲いた」で日本初の邦楽原盤制作を行なう。当時レコード・メーカーの独占的制作物であったレコード音源をメーカー以外で初めて制作し大ヒット。
ベンチャーズのパート別譜面を日本で初めて出版。また同時に日本初の本格的エレキ・ギター教則本を出版することにより、エレキ・ブームを起こす。
1966年
邦楽原盤制作の活発化。スパイダース「夕陽が泣いている」「あの時君は若かった」、テンプターズ「神様お願い」「エメラルドの伝説」などの邦楽原盤レコードを制作することによりGSブームを起こす。
英国TROエセックス社と日本初の海外100パーセント資本の管理契約を開始。ローリング・ストーンズ、ザ・フー、後にジョージ・ハリスンなどの楽曲を管理。またポール・サイモン、後のサイモン&ガーファンクルの全著作権も獲得。また同時期に出版された『S&G楽譜集』もベストセラーとなる。
1968年
2月、社屋を東京都千代田区神田司町2−13(和光ビル) に移転。
市川染五郎「野バラ咲く路」、森山良子「この広い野原いっぱい」を制作。
1969年
7月、プレイ雑誌『ヤング・ギター』創刊。フォーク・ブームを起こす。

1970年代

1970年
ボブ・ディランの楽曲を著作権管理。
『ヤング・ギター・フォーク・イン』を開催。吉田拓郎、赤い鳥、遠藤賢司、RCサクセション等と共にフォーク・ムーヴメントの育成に努める。
長谷川きよし「別れのサンバ」、長谷川きよしと加藤登紀子のデュエット「灰色の瞳」などを制作し大ヒット。
1972年
『ミュージック・ライフ』が紹介したことにより、クイーン、キッス、エアロスミス等が日本で大ブームとなる。
1973年
アーティスト・マネージメント開始、チューリップがデビュー。「心の旅」はチャート1位 を記録。ニュー・ミュージック・ブームを起こす。
日本では未開発であったコンサート・マーチャンダイジングに着手。コンサート会場でのパンフレット、オリジナル・グッズの開発・販売を行なう。
8月25日 初代社長 貞二 没(72歳)
1975年
9月、社屋を東京都千代田区神田小川町2−12(進興ビル) に移転。
作曲家:浜圭介、作詞家:千家和也のマネージメントを行ない、「雨」(三善英史)「終着駅」(奥村チヨ)などのヒット・レコードを制作。
『ミュージック・ライフ』がベイ・シティ・ローラーズをスターダムに送りだす。また来日時の特別号は専門誌として社会現象的発行部数を記録する。
1977年
1月、ビジュアル洋楽雑誌『ロック・ショウ』創刊。
アバの著作権、及び原盤権を獲得。「ダンシング・クィーン」などの大ヒットを生む。
甲斐バンドのマネージメントを開始。「ヒーロー」などチャート1位となるレコードを制作。
英国ノーザン・ソングス社と契約。ビートルズ楽曲の著作権管理を行なう。
1978年
1月、ドイツのグループ、アラベスクの原盤をメーカーに提供。「ハロー・ミスター・モンキー」などの大ヒットを生みディスコ・ブームを起こす。
4月、作詞家松本隆氏のマネージメントを行なう。
海外ロック・グッズのライセンス生産販売を開始する。そのショップ展開として「ロック座」をオープン。
12月、新タイプのロック誌『JAM』創刊。
1979年
「さとう宗幸」のマネージメントを行なう。後に「青葉城恋歌」はチャート1位を記録。レコード大賞新人賞・歌謡大賞最優秀新人賞を獲得。NHK紅白歌合戦・『二年B組・仙八先生』などの出演も果たす。
ARB(石橋凌)のマネージメントを開始する。
5月、ダニエル・ブーンの「ビューティフル・サンデー」の原盤を提供。200万枚を売り上げる大ヒットとなる。

1980年代

1980年
ディズニー音楽の著作権管理を開始。また『ディズニー・ピアノ・ランド』等の楽譜集を出版する。
1981年
東京・原宿にファッション・ショップ「BLACK」をオープン。
1982年
イベント『ジャパン・ヘヴィ・メタル・フェスティバル』を開催。日本にヘヴィ・メタル・ブームを起こす。
1983年
3月1日、東京都千代田区神田小川町2−1に新社屋「シンコー・ミュージック・プラザ」が完成・会社移転。同時に社名を現在の(株)シンコー・ミュージックと改名する。
本社・社屋内にファッション・ショップ「ROCK-ZA」(後のダブルデッカー)をオープン。ジミー・ペイジ等の海外アーティストも多数来店する。
1984年
ヘヴィ・メタル誌『BURRN!』創刊。
レベッカのマネージメントを開始。後にシングル「フレンズ」がチャート第1位 を記録。第1回日本ゴールド・ディスク大賞獲得。
1985年
10月、国内アーティスト・マガジン『バックステージ・パス』創刊。
後のバンド・ブームの一因ともなった『バンド・スコア』(パート別楽譜集)シリーズを発刊。
1986年
4月、プリンセス・プリンセスのマネージメントを開始。
現在までに30刷以上の再版を重ねているギター教則本『ロック・ギター・ハンドブック』を発刊。
1987年
5月、音楽出版社SBKミュージックを買収。極東でのメイン・パブリシャーとしての権利を獲得することによりビリー・ジョエル、ピンク・フロイド等の楽曲を著作権管理。
1988年
3月、著作権管理を行なっていたビートルズが日本ゴールド・ディスク大賞を受賞する。
4月、ARC MUSICを買収。R&R、ブルース系のレーベルを得ることによりチャック・ベリーなどの極東パブリッシャー権を獲得する。
洋楽雑誌『クロスビート』創刊。
1989年
プリンセス・プリンセスが西武球場でコンサートを行ない、8万人を動員。
邦楽プレイ雑誌『ギグス』創刊。
世界初のビートルズ全213曲バンド・スコア集『コンプリート・ザ・ビートルズ』が発行される。後に英米でも同著は翻訳出版される。

1990年代

1990年
3月、プリンセス・プリンセスのシングル「ダイアモンド」が日本ゴールドディスク大賞を受賞。日本全国でコンサート・ツアーを行なう。また『LOVERS』などアルバムが100万枚以上のセールスを記録。また同時に出版されたバンド・スコア集も記録的セールス。
1991年
URCレコード及びアート音楽出版を買収。はっぴいえんど、五つの赤い風船、フォーク・クルセダーズなどの楽曲を獲得、著作権管理を行なう。
1992年
マネージメント・アーティスト、NOKKO(元レベッカ)がソロ・デビュー。
1993年
神田錦町に別館新社屋「シンコー・ミュージック・アネックス」が完成。
雑誌『音楽と人』創刊。
ビジュアル・ロック・マガジン『ヴィシャス』創刊。
マネージメント・アーティストの斉藤和義がデビュー。
管理楽曲「ピース・ラヴ・アンド・アンダスタンディング」が映画『ボディガード』のサントラに使われる。
1994年
(株)ロック座で「シャリラ・レコード」設立。スーパー・ジャンキー・モンキー等のアーティスト・マネージメント、コンサート及びアルバム・リリースを行なう。
マライア・キャリーが歌唱した管理楽曲「ウィザウト・ユー」が大ヒット。
尾崎豊の著作権管理会社である(有)アイソトープの業務管理代行を開始。
ヒップホップ/R&B専門誌『フロント』(後の『ブラスト』)を創刊。
1995年
マネージメント・アーティストのフラワーカンパニーズがデビュー。
1996年
K.K.ミュージック・セールス設立。これを契機に英ミュージック・セールスとの協同出版を強化する。
アメリカの国民的作曲家アーヴィング・バーリンの著作権管理契約を結ぶ。
『ジョー宮崎音楽基金』が発足し、第1回授賞式を行なう。
1997年
小社初のエデュテインメントCD-ROM『ローリー・ポーリーズの七転び八起き』、プレイステーション用ゲーム・ソフト『ソールド・アウト』発売。
ヒップホップ・カルチャー・マガジン『ウーフィン』創刊。
邦楽スコア雑誌『せ〜の!』創刊。
管理楽曲「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」がJASRAC外国作品賞を受賞。
1998年
マネージメント・アーティストのCLOSEがデビュー。
マネージメント・アーティストのオセロケッツがデビュー。
漣健児(草野昌一)がレコード大賞功労賞を授与される。
マネージメント・アーティストのビスケット・ファンがデビュー。
1999年
4月、デジタル時代の音楽ネットワーク・マガジン『デジット』創刊。
草野昌一、藍綬褒章を受章。
6月、新社長に緒方庶史、会長に草野昌一が就任。

2000年代

2000年
7月、台湾で『音楽と人』が翻訳出版される。
8月、雑誌ごとの才能発掘オーディション開始。
9月、J−popファンが作るコミュニケーションマガジン『music Life!』創刊。
12月、音楽総合サイトmusiclife.co.jp開設。
2001年
マネージメント・アーティスト広沢タダシがデビュー。
2002年
ニューヨーク、ナッシュビル、ロンドンにブランチのあるアメリカ・ロスアンゼルスの大手出版社BUG MUSICと契約。
オランダのレイモンド・ラップと“ラブリー・ベイビー”を契約し、ラブリー・ベイビー・ミュージックの3種類のCD発売。以後シリーズ化され継続して発売。
アーティストOCTOPUSとマネージメント契約。
シンコー・ミュージック・プラザをシンコーミュージック・コピーライツに改称し、従来の不動産管理業務の他、音楽著作権管理業務専任の会社に再構築する。
携帯電話への着うた配信開始(邦楽 200曲)
2003年
草野昌一 MPA30周年 功労賞 受賞
麻布大学 動物人間関係学研究室ドッグ・チームの協力をえて「犬の憩い」「猫の憩い」のヒーリングCDを発売。
ミュージック・シーオー・ジェーピー社と携帯での着うたの配信契約(洋楽1,000曲)
6月、草野夏矢 代表取締役社長に就任。
2004年
バーチャル・バンドS.V.B.B.(シブコン・バレー・ビート・バンド) 携帯サイトからデビュー。
EZチャンネル・コンテンツとしてMUSIC LIFE復刊。
10月、社名を株式会社シンコーミュージック・エンタテイメントと改称。
2005年
6月6日  会長 昌一 没 (74歳)