こんにちは、今回は前回の記事の続きというか、書ききれなかった話です。
イタリアに古くから有る一族が本家と分家でイタリアの王位継承権について争っています。
イタリアの王位継承権?
イタリアには王様はいないじゃないの?と聞こえてきそうですが・・・
イタリアでは、第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票がありました。
この結果により王制廃止が決定して共和制となり、一族は国外退去を余儀なくされました。
帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていました。
よく「国民には何の力も無い」というコメントを頂きますが、実際にイタリアでは国王を国外退去させるという事例が有るのです。
結局は国民の無関心の隙をついて、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国したわけですが・・・
このイタリア国王の一族とはサヴォイ家です。
サヴォイ家の歴史は11世紀まで遡り、さらには謎の民族、海の民、紀元前まで行ってしまうのです。
サヴォイ家はこの時代以前から、カルタゴ、ヴェネチアに展開する、とても裕福な一族です。
サヴォイ家の「格」はと申しますと、前回の記事でも書きましたように最上階級です。
ロス茶、ロック爺クラス < シェルバーンクラス < デル・バンコクラス < サヴォイクラス
サヴォイと肩を並べるレベルにエジンバラ公などがいるわけです。
栄華を極めたハプスブルク家の下で仕えながら、うらやんでいた連中です。
彼らがハプスブルク家に土地を担保にカネを貸し、傭兵もレンタル。
ハプスブルクを陥れたのです。
断続的に30年間続いた戦争の末、土地も金も奪われたハプスブルク家の地位は凋落。
30年戦争の後で調印されたのが、ヴェストファーレン条約。
そしてスイスの独立が成立します。
スイスには、ヴェストファーレン条約で特権を持った人間達が移動しています。
下記はヴェストファーレン条約の目次です。
条文番号 ラテン語版の番号 条項
第1条 1 〔平和の樹立〕
第2条 2 〔免責〕
第3条 3 〔敵の援助の禁止〕
第4条 4
5 〔フランス・スペイン間で継続する戦争への諸侯の関わり〕
第5条 6 〔ロレーヌ〕
第6条 7 〔諸侯の領土の回復〕
第7条 8 〔返還に対する例外主張〕
第8条 9 〔特に重要な事例を挙げるにあたって〕
第9条 10 〔トリール選帝侯への返還〕
第10条 11 〔トリールの城〕
第11条 12 〔プファルツ問題〕
第12条 13 〔バイエルン選帝侯位の確認〕
第13条 14 〔バイエルンの権利放棄〕
第14条 15 〔プファルツ選帝侯位の再設〕
第15条 16 〔プファルツの処遇〕
第16条 17 〔マインツ選帝侯の管区の再取得〕
第17条 18 〔トリール選帝侯の下プファルツに関する主張〕
第18条 19 〔バイエルン家断絶の場合の上下プファルツ統合〕
第19条 20 〔プファルツの分家〕
第20条 21 〔ユーリヒにおけるプファルツの権利〕
第21条 22 〔プファルツへの補償〕
第22条 23 〔プファルツ関係者への大赦の確認〕
第23条 24 〔上プファルツの放棄〕
第24条 25 〔プファルツ一族への補償〕
第25条 26 〔下プファルツ内の独立伯領〕
第26条 27 〔各地の帝国自由貴族〕
第27条 28 〔プファルツ領内で皇帝から下賜された領土等〕
第28条 29 〔プロテスタントの容認〕
第29条 30 〔ライン宮中伯への返還など〕
第30条 31 〔ブランデンブルクとヴュルツブルクの係争〕
第31条 32 〔ブランデンブルク〕
第32条 33 〔ヴュルテンベルク〕
第33条 34 〔ヴュルテンベルクの分家〕
第34条 35
36 〔バーデン・ドゥルラハ〕
第35条 37 〔バーデン〕
第36条 36
37
38 〔諸侯への回復〕
第37条 39 〔不法な契約の無効〕
第38条 39 〔債務の確認〕
第39条 40 〔強制的な債務の無効〕
第40条 40 〔強制的な債務の無効〕
第41条 41 〔戦争中の裁判〕
第42条 42 〔封土の回復〕
第43条 43 〔ハプスブルク家領以外の人々の権利〕
第44条 44 〔ハプスブルク家領の人々の良心の自由以外の権利〕
第45条 45
46 〔フランス・スウェーデンに加担する以前の没収物〕
第46条 47 〔ハプスブルク世襲領における正義〕
第47条 48 〔回復され得ないもの〕
第48条 49 〔ユーリヒ〕
第49条 50 〔プロテスタントの処遇〕
第50条 51 〔ヘッセン・カッセル〕
第51条 52 〔ヘッセン・カッセル〕
第52条 53 〔ヘッセン・カッセル〕
第53条 54 〔ヘッセン・カッセル〕
第54条 55 〔ヘッセン・カッセル〕
第55条 56 〔ヘッセン・カッセル〕
第56条 57 〔ヘッセン・カッセル〕
第57条 57 〔ヘッセン・カッセル〕
第58条 58 〔ヘッセン・カッセル〕
第59条 59 〔ヘッセン・カッセル〕
第60条 60 〔ヘッセン・カッセルとヘッセン・ダルムシュタット〕
第61条 61 〔ヘッセン・カッセル〕
第62条 62 〔ヘッセン・カッセル〕
第63条 63 〔スイスの独立〕
第64条 64 〔古来の権利〕
第65条 65 〔帝国諸侯の権利〕
第66条 66 〔帝国議会〕
第67条 67 〔帝国議会で確認される権利〕
第68条 68 〔債務の穏便な決着〕
条文番号 ラテン語版の番号 条項
第69条 69 〔通商の再開〕
第70条 70 71 〔水運に関係した権利〕
第71条 72 〔トゥール,ヴェルダン,メッス〕
第72条 73 〔ロレーヌ公〕
第73条 74 〔ピニュロール〕
第74条 75 〔ブライザハとアルザス十都市に関する権利〕
第75条 76 〔アルザス方伯位など〕
第76条 76 〔アルザスの人民など〕
第77条 76 〔アルザスの宗教〕
第78条 77 〔フィリップスブルク〕
第79条 78 〔フィリップスブルク〕
第80条 79 〔スペインも含めたハプスブルク家による権利放棄〕
第81条 80 〔放棄に関連した法の撤廃〕
第82条 81 〔譲渡される領土の帝国からの除外〕
第83条 82 〔防備の破壊〕
第84条 83 〔ライン川の無砦化〕
第85条 84 〔エンスハイムの負債〕
第86条 85 〔各地の負債〕
第87条 86 〔ハプスブルク家への返還〕
第88条 86 〔ハプスブルク家への返還〕
第89条 86
87 〔ハプスブルク家への返還とライン川の水運〕
第90条 88 〔家臣たちの財産回復〕
第91条 88 〔免責〕
第92条 89 〔ストラスブールとアルザス十都市〕
第93条 90 〔フランスからティロル大公への補償〕
第94条 91 〔エンスハイムの負債〕
第95条 92 〔文書の返還〕
第96条 93 〔文書の返還〕
第97条 94 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第98条 95 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第99条 95 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第100条 96 〔サヴォイ〕
第101条 97 〔サヴォイ〕
第102条 98 〔その他の回復〕
第103条 99 〔マントヴァ〕
第104条 100 〔和平への着手〕
第105条 101 〔返還の時期・方法などの協議〕
第106条 102 〔返還の執行責任〕
第107条 103 〔返還への立ち会い委員〕
第108条 104 〔返還などの実行〕
第109条 105 〔執行の妨害の禁止〕
第110条 106 〔捕虜の解放〕
第111条 107 〔フランス側の撤兵〕
第112条 108 〔諸侯の権利の回復と肩書きについての注記〕
第113条 109 〔返還執行〕
第114条 110 〔文書や物資〕
第115条 111 〔輸送手段の提供〕
第116条 112 〔守備隊駐屯なきこと〕
第117条 113 〔都市や住民の権利〕
第118条 114 〔兵員削減〕
第119条 115 〔批准〕
第120条 116 〔帝国法への組み込み〕
第121条 117 〔条約に反することの禁止〕
第122条 118 〔平和の攪乱者の処罰〕
第123条 119 〔紛争の平和的解決〕
第124条 120 〔紛争の解決〕
第125条 121 〔圏システムによる平和維持〕
第126条 122 〔兵員の他国通過〕
第127条 123 〔他の参加国〕
第128条 124 〔調印〕
内容までは転載しませんが、ヘッセン、ヘッセン、ヘッセンと、かなりの特権が与えられた事が分かります。
このようにして、ヘッセン、サヴォイらが特権を握り、スイスが独立国となりました。
そこにヘッセン、サヴォイといった、皇帝に反発した勢力の金が裏でスイスに結集。
さらに、この時代の武器製造は、動力が水車。
精密機械産業に適した豊かな淡水を持つ地域、スイスに産業が集まってきました。
要するに、神聖ローマ帝国に対抗して出来上がった国がスイスといっていいでしょう。
このサヴォイが、デル・バンコに対し、スイス(ロンバルディア)に銀行を作るよう指示を出したんですね。
第2回十字軍遠征に必要な費用を貸し出す為の銀行をスイス(ロンバルディア)に作った訳です。
この記事の最後にサヴォイア家の家系図を付けておきましたが、どうりでイタリア出身のサヴォイア家がジュネーブに派生しているわけです。
さて、このサヴォイ家なのですが、もともとはサルディーニャ島という、地中海の島を本拠地にしていた王様の家系といわれています。
ず〜と、ず〜と昔から。
サルディーニャ島というと、ピンと来る人もいると思います。
謎の民族「海の民」
新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。現在もこの民族の子孫が7000人以上いる。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。
以下は英語版の項目en:History of Sardiniaからの翻訳である。
先史時代
1979年、15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島のトスカーナから渡ってきたとみられている。島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の矢じり(約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。
石器文化と黒曜石の時代
石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) は重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃の青銅器時代(またはAneolithic Age)の土器が展示されている。
ヌラーゲ文化の時代
先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリ県バルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。このヌラーゲは紀元前1800年から250年頃にわたって造られ、紀元前1200年から900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していたことがわかっている。
エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャをHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)a(イクヌーザ)となった。ノーラ遺跡の石碑は、フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。
サルデーニャにおけるフェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人
紀元前8世紀から、Tharros(ターロス)、Bithia(ビティア)、Sulcis(スルシス)、Nora(ノーラ)、Karalis(カラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。フェニキア人はレバノンの出身で、地中海で交易を行っていた。彼らは島のあらゆるエリアに定住した。サルデーニャはカルタゴ(現在のチュニジア)、スペイン、ローヌ川(フランス)、エトルリア(イタリア半島)の間にあったため、西地中海の中心として特別な地位を獲得していた。イグレージアス周辺の鉱物地帯は、鉛や亜鉛の産地として重要であった。都市は防御しやすく天然の港になる、多くは河口に近い半島部や島のような、戦略上の重要な地点に造られた。フェニキア人ののちに、紀元前500年ごろカルタゴ人(Punic、ポエニ)がサルデーニャ周辺の地中海の覇権を確立した。カルタゴの影響はサルデーニャのほぼ全域に及んでいる。
紀元前238年、ローマ人が島を獲得した。ローマはカルタゴと第一次ポエニ戦争を戦ったが、戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため、ローマはこの年サルデーニャに上陸し、占領する機会を得た。ローマ人がサルデーニャを獲得した時点で、既に社会基盤と(少なくとも平野部では)都市化された文化があった。サルデーニャはシチリアとともに、エジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯のひとつでありつづけた。フェニキア・カルタゴ文化は、ローマ人の支配下にあっても紀元後数世紀まで根強く残った。Tharros(ターロス)、Nora(ノーラ)、Bithia(ビティア)、Antas(アンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)らは、建築と都市計画の調査に非常に重要な考古学遺跡となっている。
中世
ローマ帝国の滅亡後、サルデーニャは何度と征服の対象とされている。東ローマ帝国による帝国の一部としての奪還に先立ち、456年北アフリカのヴァンダル人に占領された。711年からは、サラセン人による沿岸部の都市への攻撃が始まった。これが原因となり、9世紀には1800年の歴史を持つターロスが放棄され、内陸のオリスターノが取って代わった。アラブ人に対抗するために、海洋共和国であったピサとジェノヴァによる支援が求められた。
1063年から、この地域のビザンティンの政治行政組織を踏襲する形で、審判による統治を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度が形成された。中世後期において最も特筆すべき、今に至るまで島のヒロインと慕われる人物は、ジュディカーティであったアルボレア国の妃エレオノーラ・ダルボレア(Eleonora d'Arborea)である。彼女は法制の整備に尽力し、1395年に発効した先進的な民法典カルタ・デ・ログ(Carta de Logu)は1827年まで使われた。
同じ時代、アラゴン=カタルーニャ王国の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。アラゴンの塔と呼ばれた見張り台が沿岸部全域にわたって作られ、アラブ人の侵入を防ぐことに役立った。これらの見張り台のいくつかは、ちょうど戦略上の重要地点にあったフェニキア都市の石を使って作られた。教会建築への再利用としての好例は、古い都市オトカ(Othoca)の跡に建てられたサンタ・ジュスタ(Santa Giusta)教会にみられる。当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも伺える。
サルデーニャ王国の誕生から現代
スペイン継承戦争でサルデーニャがスペインからオーストリアに渡った後、1720年にシチリア島との交換によりサヴォイア家が領有してからイタリア統一の1861年まで、サルデーニャはピエモンテとサルデーニャ王国を形成していた。社会基盤の開発は遅れていたが、19世紀初期にカルロ・フェリーチェによる統治のもと、南のカリャリから北のサッサリに至る島の大動脈が建設され、いまでも彼の名がこの道につけられている。
1861年にサルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改めた。1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。
ムッソリーニ政権下では、オリスターノ周辺の沼沢地が干拓され、最も成功した農村コミュニティとなったアルボレアの基盤が作られた。またムッソリーニは鉱業の中心地としてカルボーニアを建設した。第二次世界大戦後、石炭の重要性は低下し、観光業が盛んとなった。雇用を創出するための様々な施策は、安価な労働力をもっても埋め合わせることの出来ない高い運送費のために、これまでのところうまくいってはいない。
今日、サルデーニャは自治州であり、その歴史は言語と文化の中にいまだ息づいている。また注目すべきは沿岸部と内陸部の差異である。沿岸部は常に外部からの影響に対してよりオープンであった。今日サルデーニャは、船や飛行機の便がよい北部の海岸や島々(ラ・マッダレーナ、コスタ・ズメラルダ)と南部カリャリ周辺の海岸によって、最もよく知られている。
(Wikipediaより)
名無し先生はですね、エジンバラ公側勢力の人間と直接話をするようなお方です。
先生によると、エジンバラ公側勢力の人間は上記のような事を信じていて、サルディーニャが重要拠点となっているそうです。
10世紀より前から、サルディーニャはサヴォイの血筋。
カルタゴ、ヴェネチアに展開する裕福な海洋族の元が、ここなので、デル・バンコに命令し銀行を作らせるような高位にいたと言う事。
今でも、マルタ騎士団のような海洋族由来の騎士団が存在しますよね?
ところで、現在イタリアに王様は居ません。
ところが、馬鹿げた話に聞こえますが、実は現在でもイタリア王位継承権を巡り、サヴォイ一族の2派閥が争っているのです。
イタリアのメーソンプロパガンダ2(P2)を仕切っていたのが2派閥の一つ、本家の方です。
サヴォイア家(伊: Casa di Savoia カーサ・ディ・サヴォイアもしくはサヴォイヤ)は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった家系。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王国の王家となった。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。
サヴォイア伯ウンベルト1世から始まるサヴォイア本家の他、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟トンマーゾ・フランチェスコを祖とするサヴォイア=カリニャーノ家などが分家として成立した。 1831年にサヴォイア本家の男系子孫が途絶えるとサヴォイア=カリニャーノ家が全ての爵位を継承、勢力を発展させてイタリア王国を成立させた。王家となって以後のサヴォイア=カリニャーノ家の分家には、初代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の弟フェルディナンドを始祖とするサヴォイア=ジェノヴァ家、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男でスペイン王位にも就いたアオスタ公アメデーオに始まるサヴォイア=アオスタ家がある。
第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外退去を余儀なくされた。帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていた。
2012年時点で、ウンベルト2世の子たち(長男ヴィットーリオ・エマヌエーレ、旧ユーゴスラビア王族と結婚した長女マリーア・ピア、次女マリーア・ガブリエラ、三女マリーア・ベアトリーチェ)などが健在である。
サヴォイア家は欧州でも屈指の名家であり、権威ある貴族の一族だった。家祖ウンベルト1世ビアンカマーノはラテン民族とケルト民族からなる北イタリアの血筋に加え、オック人やサクソン人の大貴族とも縁戚にあった。特に後者に関してはフランク族のカール大帝に敗れた英雄ウィドゥキントの血も引いていると言われ、ザクセン朝からの庇護を受けるきっかけともなった。
13世紀のイングランド王ヘンリー3世は、王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの母方の縁戚であるサヴォイア伯トンマーゾ1世の息子たちを重用し、彼らにリッチモンド伯の爵位やカンタベリー大司教の位を与えている。サヴォイ宮殿 (Savoy Palace) はリッチモンド伯ピーター(のちのサヴォイア伯ピエトロ2世)によって建てられた。
ここまではいつものWikipediaの記事なのですが、これ以下はまさにマフィア映画に出てくる、どこかで見聞きした内容ばかりです。
ゴッドファーザーの世界ですよ。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(Vittorio Emanuele di Savoia、1937年2月12日 - )は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男で、現サヴォイア家当主及び王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において、王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、国内に残る王党派は「ナポリ公ヴィットーリオ・エマヌエーレ」と呼んでいる。また、一部急進派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」と呼ばれているとされる。
イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされている。しかしその一方で、亡命先のスイス・フランスなどで様々な非合法事業に加わり、また私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもある。
管理人コメント:エルサレム王位については、次の記事で触れますので、ここではスルー。
生い立ち[編集]
1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプトへ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。
しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて妹たちとスイスへと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。
貴賎結婚[編集]
20歳の時、スイス人の女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)と結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した[1][2]。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている[3]。王位請求者としての権限で、リコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた[4]。
サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは、ヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立王位請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派(ヴィットーリオ・エマヌエーレの系統)とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。
非合法活動[編集]
ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[5]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。
銃撃事件[編集]
1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[6]。
1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[6]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[7]。
イタリアへの帰国[編集]
イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に、帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した[8]。共和国政府側も折れることなく対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国を決定した。
2002年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレはピエモンテ=ヴィネツィア公エマヌエーレ・フィリベルトと共にイタリア共和国憲法を承認する宣言を行った[9]。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオ・エマヌエーレは、イタリア国内の要人と会見した後、ヴァチカンに招かれて教皇ヨハネ・パウロ2世と会談した[10]。
王政復古を行わないことを条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。しかし、既に王政廃止から50年が経過しており、王政時代を知る国民は少数派になっていた。国民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復権に無関心であった[5]。また、出生地であるナポリでは両シチリア独立運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた[11]。
王政復古の否定は、たび重なる問題行動に敵意を深めていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタらアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。
アオスタ公殴打事件[編集]
対立が続く中、スペインのフェリペ王太子とレティシア妃の結婚式を翌日に控えた2004年5月21日、スペイン王フアン・カルロス1世がサルスエラ宮殿で開いた晩餐会に招待されたヴィットーリオ・エマヌエーレは、同じく招待されていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタと口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした(アオスタ公アメデーオ殴打事件)。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちた[12][13]。
ギリシャ王妃アンナ=マリアがアメデーオの出血を布で押さえる間、フアン・カルロス1世は「このようなことは許されない」と晩餐会が王位請求者同士の諍いに利用されたことに激怒したという[13]。
再逮捕[編集]
2006年6月16日、マフィアの犯罪事業に関わっていたとして、ヴィットーリオ・エマヌエーレはイタリア警察に拘束された[14]。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオは「サヴォイア家家長」および「サヴォイア公」を自らが名乗ることを宣言した。ヴィットーリオ・エマヌエーレは、アメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こした。2008年6月6日に最初の審理が開かれ、現在も裁判中である。
(以上、Wikipediaより)
ゴッドファーザーのワンシーンが目に浮かびますね。
これが世の現実です。
事実は小説より奇なり・・・
マフィアがイタリア王位継承を巡って争っている・・・
もっともっと大昔、紀元前からの家系図がかければ良かったのですが、さすがにそれは残っていません。
エジンバラ公側が信じていることは伝説の域ですね。
今回はこの辺で一旦、切りたいと思いますが、次回予告として、ちょっとだけ書かせてください。
(仮面ライダー、次回予告)
【ショッカーのアジトはロンバルディア】
ロンバルディアは、ヨーロッパの歴史を語る上で欠かせない場所です。
ここでフランク王国時代のイタリア貴族エステ家、ヴェルフ家から、ヘッセンまでの血縁を見てみましょう。
すべての家系図を書くと、とてもではありませんが、記事になりませんので、直系のみ掲載します。
エステ (Este) は、人口16,859人のイタリア共和国ヴェネト州パドヴァ県のコムーネの一つである。ゲルマニアのランゴバルド人の血統のイタリア貴族エステ家の家名の由来の地である。(ランゴバルド=ロンバルディア)
このエステ家の始祖、アルベルト・アッツォ2世・デステからヴェルフを含むヘッセンまでの直系の系図です。
アルベルト・アッツォ2世・デステ フルク4世・ダンジュー
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ヴェルフ1世 フルク5世・ダンジュー
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ハインリヒ9世 ジョフロワ4世
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ハインリヒ10世 ヘンリー2世
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ハインリヒ獅子公ーーーーマティルダ・オブ・イングランド
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オットー4世 ヴィルヘルム
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オットー1世
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アーデルハイト(1244–1274) - ヘッセン方伯ハインリヒ1世と結婚
おまけでサヴォイア家の家系図です。