4月5日
J-POP界の開発屋、なぜ角松敏生はいつも早すぎるのか? vol.1
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角松敏生のセカンドアルバム「WEEKEND FLY TO THE SUN」がリリースされた日
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会社に勤めた人にはわかると思うが、「開発屋」といわれる人種がいる。新しい商品を試作したり、異分野に進出したり、ときには他社と合弁プロジェクトを始めたり…と何もない原野を切り拓くことを専門にしている連中だ。一進一退しながら鉱脈をさぐり当ててると、後は別の部隊に託して、また違うところへ赴く。最初に井戸を掘った人の名は忘れられ、後から来たやつらが美味しく水を飲む。当の本人たちは、だれも手をつけていない仕事をやる喜びが中毒みたいになっているが、側からみれば単なる便利屋。かくいう私もそのクチだったから、開発屋の悲哀はよくわかる。
 
J-POPシーンにおける、まさに「開発屋」が、角松敏生である。ラップ、スクラッチ、化粧ビジュアル、ギターインスト、民族音楽…まるで生き急いでいるかのように自分の音楽に新しい要素を取り入れ、しかし、ちょっとすると、もう次のことに関心が向いている。角松のやったことを、別のミュージシャンがもっと洗練させたり、大衆化させたりして、その分野の第一人者ヅラをしている… なんてことが一度や二度ではなかった。我らがKADOMATSU、器用貧乏なんだよなぁ。
  
そもそも、何で角松がJ-POP業界の「開発屋」になってしまったのか?その原因は、彼のデビュー時にさかのぼる。1981年、若干20歳でデビューするも、たどり着いたら、すでに山下達郎(1953〜)という巨大な壁があった。角松(1960〜)は、ちょっとだけ遅く生まれてきてしまったのだ。しかも「シティ・ポップスの若き旗手」みたいなレコード会社の売り出し方が災いした。ミーハー女子大生にウケそうな、優男のルックスも、このときは却ってマイナスに作用した。挙句、達郎本人にも「あれは僕のコピーです」と揶揄される始末。
 
しかし、達郎と活動を共にした吉田美奈子、村上ポンタ、斎藤ノブ、佐藤博といった有力ミュージシャンが、揃いも揃って、角松の実力を評価し、協力を惜しまなかった。ただ、こうした面々とのセッションは、シュガーベイブやはっぴいえんどの跡を必死にたどっているだけのようにも見える。まるで、最後まで芥川龍之介の幻影から逃れられなかった太宰治のように。「タツローの二番煎じ」というレッテルに、角松は必死に抗い、差別化を模索し始める。その悔しさ、焦りが、そこからの角松の「早すぎる・急ぎすぎる」キャリア、「開発屋の気質」を形成する原因となる。そして、気がつくと時代に追いつき、追い越し、常に先を行き過ぎてしまう悲劇を生むことになる。(つづく)

2016.05.05
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カタリベ
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