このテの回顧で挙げられるのは、まあ運動会だとか文化祭だとかの行事とか、或いは友達やクラスメイト、もしかしたら想い人の青春目録だろうか。
私の通っていた学校では、おおよそ月に一回の頻度で席替えが行われた。
季節ごとに都合のいい場所、先生に解答役を求められにくい場所、仲の良い友達や気になっている子の近くだとかを願う人も少なからずいたのではないだろうか。
だが、私にとって常に由々しき問題であったのは、「席が替わること」そのものだった。
なぜかというと、席が替わるということは、次回からはその場所に慣れる必要があったからだ。
翌日からは間違えて以前の席に座らないようにだとか、場所が変わったことで見える景色、そういう微細な一つの一つの変化に慣れつつ、長時間勉強する事が苦痛だった。
何とか慣れて、自分の今いる環境に多少の愛着が湧いてきたりする頃には席が替わる、その繰り返しだ。
学年が上がることで、クラスメートや教室が変わるのも辛かった。
あの頃の私は、なぜ席替えにあそこまで不快感を覚えていたのか自分でもよく分からなかったが、いま考えると「変化」が嫌いだったのだろう。
より正確にいうなら、その変化に対応するために労力を割かなければいけないことが。
そして、あれらイベントは、いわば変化に慣れて対応するための一環だったのだとも思った。
まあ実際のところ、社会人になった私は今でも変化を好まない人間なのだが。
今の労働を有意義に感じなくて転職を考えることもあるのだが、そのために何をするか考えただけで辟易する。
パソコンのOSが変わる度に舌打ちをし、ケータイの機種が入れ替わるごとに溜息をつく。
行きつけの店が潰れたり、移転したり、この世は個人にとって些細なことですら変化に溢れている。
そういえば、「進化」の反対は「退化」だが、「無変化」ともいうらしい。
つまり限りなく退化に近い状態を自ら望んでいるということだが、それを踏まえてなお変化を受け入れられないあたり末期なのかもしれない。
いずれにしろ、変化は私のことを待ってはくれないのだが。