この記事のブコメを眺めていて感じたこと。
ネガコメやクソリプ
ブログ記事に対するネガティブなコメントや、言葉は少々汚いがクソリプなどから我らはとかく目を逸らしがちである。かつて僕はそのようなレスポンスに辟易し、特定のユーザーを見えなくする措置をとっていたことがあるし、気に入らないリプライを飛ばしてくるツイッターユーザーをことごとくブロックしていた。
ネットに親しみのない時期は特にここらへんが繊細になると思う。耐性が極端に低い人は、露出が増えてきたあたりで遭遇するネガコメに疲弊し、引退してしまうこともある。これはネットリテラシーの低さも相まって、ある程度は仕方のないことなのかなと。
最初はムカついてた。そういうのを見るだけで1日ムカムカしたり、そのことばかり考えて。「あのコメントをつるし上げてやろうか」記事を立ち上げようとして止めたことは数知れず。なんだったんだろうね、あの感情は。
今では非表示機能を使うことなく、ツイッターもごく一部のユーザーを除いてはブロックを解除した。許すとか許さないとかそういう尊大な感情が起きたわけではなく、受容できるようになったのだと思う。今までは否定・拒絶反応しか起こせなかった彼らに対して「それはそれで」と考えられるようになったのだろう。
ブログを始めて他のブログを読むようになり、色々なサイトを巡るうちに不文律のようなものが何となく解ってきたのかもしれない。もちろん、悟ったとは考えてないけど、海原に漕ぎ出した半年前の自分とは明らかに差がある。
反対意見や批判もコンテンツ
冒頭で引用した記事では「ちきりんのサイトは賞味期限切れなのか」ということを述べている。人気度も下降し、露出度も落ちてきていると。これに対するコメントとして擁護する意見はほとんど見られなかった。興味深かったのは多数が述べている「双方向性の消失による凋落」である。
自分が考えている枠組みから出ることができず、さらに意にそぐわないものを見ないようにする施策が現状を招いているのだろう、と。具体的にはコメント欄の封鎖であるとかツイッターでの積極的なブロック。「ちきりんブロック」という言葉があるくらいに、彼女は先回りしてユーザーをブロックしてしまうことがあるらしい。
「コメント欄を見るのが面白かった」という意見もあるほどだ。それほどまでに彼女の記事に対するレスポンスはエンターテイメント性があったし、何よりも双方向性があった。意見の発出に対する反対意見や批判など、そこにそれが書き込まれた時点で大勢のユーザーに供覧され、楽しまれる。
かつての人気はここに隠されていたのかもしれない。これが事実だとすれば、腹が立つ・見たくないという理由でコメ欄を閉鎖したりブロックを多用するのは、長期的にブログの衰退を招くのではないかと思われる。
ブログ鎖国は非推奨
反対意見や批判は受け止めるのにエネルギーが要るし、玉石混交なものだから時には人格否定も交じってたりして十把一絡げに「見ない」という極論を出してしまうユーザーも少なくない。だけど、今回の件を見てると意見を発出してそれに対するレスポンスを可視化するというのは重要なことなのではないかと思う。
色々なメディアから日々情報を得ることも視点の多様化には有効かもしれない。けれど、もっとも強烈に違う視点を獲得したいのであれば自分の発出した意見に対して反対の見方や批判を正視するのが一番の近道じゃないかな。
真摯に向き合って石ころの中から宝石を拾い上げる作業ができればベターだけど、それができなかったとしてもコメント欄は活かしておいたほうが良い。そこ自体がエンターテイメントとして多くの需要を生む可能性もありうるから。かつて人気を誇ったちきりんブログ然り。
鎖国は自国の文化を醸成するかもしれないけれど、それは国家というものに対してあてはまるものであり、ことブログにおいては衰退してしまうのかもしれないね。人間なんてのはバイアスの塊だから、他者の刺激(意見)なくしては多角的視点の獲得なんてできないのだろう。
というわけでブログ鎖国は非推奨です。
あ
この記事で「ちきりんブロック」食らうかもしれない!