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ふにやんま ー 世界の小所低所からー

http://funiyanma.hatenablog.com/  

『1984年のUWF』 柳澤健 が熱い!⑧ 再起動

スポーツ 読書

『Number』4/14号(899号)から。

『1984年のUWF柳澤健 連載第8回のタイトルは「再起動」 

それを先に言うか?という話になりそうですが、第一次UWFのこの件(くだり)は、よほどのプロレス業界マニアでない限り、あまり面白くないです。

連載としても、ひと休みの回の位置づけではないかと。

勝手に決めるなよ!と柳澤氏には怒られそうですが。

読者には面白くなくても、業界的にはセンシティブな内容で構成された回なので、筆者としては気を遣ったことでしょう。この連載全体がそうなのですが。

UWFには未来はない。

最高顧問の新間寿は1984年4月11日の旗揚げ以前から、自らが設立した団体に見切りをつけていた。

新間からすれば、できれば旗揚げシリーズを中止したかった。カネをドブに捨てるようなものだからだ。

撤退を決意した新間は、密かに新日本プロレスおよびテレビ朝日と折衝を続け、旗揚げの2週間前にあたる3月27日には早くも同意書を作成していた。

同意書の中身の引用は控えますが、UWFは提携と言いながらも実質的に新日本プロレスの傘下に入り、シリーズ中の主催興行の確約と、会社の存続においてのみ、かろうじて面子を保つことが出来るというもの。

落としどころをわきまえた、双方に傷のつかない新間氏らしい交渉だと思います。 

TVもなくエースもいないUWFに見切りをつけるのはビジネスとしては当然で、業界に誰よりも精通した新間氏には必然の選択肢だったに違いありません。

 

つぶれかけた団体を素晴らしい好条件で新日本プロレスに引き取ってもらえるのだ。みんな喜んでくれるだろう、と新間は信じた。

しかし、新間の予想は外れた。

かつて新間の部下であり、熱烈な信奉者だった伊佐早敏夫(企画宣伝部長)と上井文彦(営業部)が強硬に反対したのである。

 

ここからがプロレス業界の真骨頂とも言える部分。

みんなビジネスでこの業界にいるわけじゃない。

ビジネスとしてならば、当時の新日本プロレスのスタッフの能力があれば、もっと楽で給料のいい仕事はいくらでもあったはず。

でも、プロレスが好きだからというシンプル且つ骨太な理由で、業界に踏み止まっているアツい男たちの集団が相手だということを、あの聡明な新間氏が読み間違えたというのが興味深いところ。 

我々はあなたの言葉を信じて、新日本プロレスを退社してUWFに賭けた。新日本プロレスに大きく貢献したにもかかわらず、追い出されてしまったあなたを男にしてやろう、という思いがあったからです。

だが、あなたは約束をひとつも果たさなかった。(中略)

旗揚げ戦の大宮スケートセンターには顔さえ出さなかった。

UWFはまだ5大会しか開催していません。戦わずして、尻尾を巻いて逃げろと言うんですか。

啖呵を切って出てきた新日本プロレスに、いまさら頭を下げて戻るわけにはいかない。新日本プロレスと合併するのなら、なぜ団体を作ったんですか。俺たちがUWFに移ってくる必要が、どこにあったんですか。

 

自分たちに勝ち目が薄いことは、反対派も理屈では分かっていたはず。

新間さんの気持ちもわかります。

この先、レールを敷いてもどこかで行き詰まると思った、今のうちにやめさせて、ユニバーサルを興行会社にして、新日本プロレスからこれだけお金をもらって、と俺たちのことを心配して考えてくれたんです。

でも、俺たちは何をいまさらと聞く耳を持たなかった。(中略)

俺たちは男を懸けていたから。

すごいですねー。いい大人が男を懸ける業界。

新日本プロレスの営業スタッフは仕事熱心で優秀な社員が多く、旅から旅への興行生活も厭わず、団体の最盛期をしっかりと支えたというのが定説ですが、男気にも満ち溢れた集団であったことが 伺えます。

 

新間氏にとって大学の先輩にあたる第一次UWF浦田社長は、こういったアツい男たちの熱意にほだされ、新間氏の関与を排除します。

新間氏がいる限り、起死回生の一手、佐山聡のエース就任は決して実現しないという事情も背景にはありますが。

5月21日に京王プラザホテルで開かれた記者会見の席上、新間寿アントニオ猪木UWFにこなかったことを理由に、UWFからの勇退とプロレス界からの引退を発表した。

だが、すでに復讐に燃える新間は、UWFを崩壊に追い込むための新たなるプランを考えていた。

このプランも紹介できませんが、しかし新間寿氏、男を下げますねー。

業界内であちこちの大きな約束を反故にして(本人は反故にされた、と思っていたはずですが)、プロモーターとして最も大事な信用を失った新間氏は、相当やけっぱちな心境だったとは思いますが。

それを差し引いても、自分を信じてついて来てくれたスタッフを逆恨みして、その団体を潰そうなどというのは真っ当な人間の考えることではないでしょう。

 

結局、新間氏の仕掛けたプランは失敗に終わり、前田、木村、剛の3人は引き続きUWFで戦っていくことを明らかにします。

しかし所属レスラーはこの3人のみ。TVなし、外人レスラーの招聘ルートなし、資金なし。佐山聡との交渉は水面下で進んでいたものの、妥結には至る保証なし。

ここでUWFに救いの手を差し伸べたのが、昭和プロレスファンには懐かしくも超意外。更級四郎氏です。

そう、『週刊プロレス』の連載「ほとんどジョーク」イラストレーターと選者を兼ねていた更級四郎氏ですね。

更級氏、単なるイラストレーターだと思っていましたが、こんな一面があるのだと驚きました。

プロレス村がいかに狭いか、いかに利害を超えたプロレス好きが集まっているかの良い証拠かと。

 

余談ですが私、高校2年の時ですから20年ほど前に「ほとんどジョーク」に投稿が掲載されたことがあります。残念ながらイラストになるメインではなく、下段の「いまいちジョーク」(文字だけ)でしたが。1回だけハガキを出してそれが掲載されたので、率はいいよなと非常に嬉しかったものです。田舎の高校生の余談おわり。

 

更級氏のアイデアは以下の2つ。

1.「週刊プロレス」の全面協力を取り付ける

-競合「週刊ゴング」との差別化の意味合いで杉山編集長を巻き込む。

UWFの記事は山本隆司記者、のちのターザン山本に全て書かせる。

文章には文学性があり、記者として飛び抜けた才能の持ち主だ、と更級は山本を高く評価していた。

UWFを全面的に支援する。主な記事は山本隆司が書く。業界最大手の新日本プロレスを怒らせることを恐れず、思ったことをそのまま書く。

のちにターザン山本編集長の下で大躍進を遂げることになる『週刊プロレス』の原型は、この時に作られたのだ。

 

.  藤原喜明を引き抜く

新日本プロレスとの対立姿勢の象徴として。

新日本プロレスの影の実力者、道場主であり若手の精神的支柱である藤原を迎え入れることの意義を「週刊プロレス」に大々的に煽ってもらう。

 

いずれも秀逸なアイデアであり、おそらく更級氏が思った以上の結果が出たことは昭和プロレスファンならばご存知でしょう。

当時35歳の藤原喜明、38歳のターザン山本等、多くの人を運命を変えることになる第一次UWFは、こうして団体としての活動を再開します。

あれ?意外と面白い回でしたね。

 

以上 ふにやんま