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しっきーのブログ

ひろいこころで\(^o^)/

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松屋で「ごちそうさま」を言うか問題

日常

 最近、「松屋」に行くことが多い。普段はブロッコリーを食べてるのだけど、それに耐えられなくなると行ってしまう。


 松屋はカレー系が特にうまいと思う。牛肉がたっぷり入ってるカレーという時点で多幸感がある。新作の「ごろごろチキンカレー」も美味しかった。

 カレーは他の食べ物へのデバフ効果があるから、店に客がたくさんいるときは「やられる前にやれ」の精神でカレー系を頼むことにしている。



 あと、松屋はメニューのバリエーションがとてもいい感じだ。

 僕は通うお店で選ぶものが固定しがちなんだけど、松屋の場合、牛めし、ネギたま、おろしポン酢、ビビンバ丼、キムカル丼が、その日の気分次第でどれもアリな選択肢として生きてる。カルビ焼肉定食みたいなちょっと豪華なオプションがあるものよい。


 味が特別いいわけでもないんだけど、なんというか、牛丼屋としての分をわきまえた佇まいがあるところがいいんだよね。気取ってもないし、いい感じの気安さがある。


 松屋、すき家、吉野家の牛丼屋を比べてみても、個人的には松屋が一番好きだ。



 それぞれホームページの写真を見ると、すき家が圧倒的に美味しそうで、松屋と吉野家は野暮ったい。でも牛丼屋のHPをお洒落にしてどうするんだって話ではある。すき家はブラック労働が一時期話題になってからは行かなくなってしまった。


 吉野家は昔よく行ったけど、今は松屋のほうが上だと個人的には思ってる。吉野家は食券券売機を使わない方針でやっている。この良否については議論が別れるだろう。


 松屋が採用している料金前払いの券売機システムだが、ここから一つの重大な問題が発生する。それが『松屋で「ごちそうさま」を言うか問題』である。



 以前、マイクロソフトのちょまどさんという松屋好きで有名な方が、松屋はコミュ症に優しいとTwitterでつぶやいていた。



 たしかにその通りなのだろう。しかし、一言も発さなくていいからこそ、店員と接触することを強制されないからこそ生じる問題もあるのだ。

 松屋のシステムは、ガチのコミュ症にとっては優しい世界かもしれないが、僕のようになまじ向上心を持っているコミュ症にとって、重くのしかかってくる問題を孕んでもいる。



 無言で食券を買って無言で立ち去ることができる。それは松屋に行く者の特権だ。

 しかしその松屋において、食べ終わった後に「ごちそうさま」と言う人が少なくないのも、事実ではある。


『モテキ』という久保ミツロウの漫画があって、「ごちそうさま」を言わない男達に女の人がキレてたシーンが印象に残ってる。

モテキ(1) (イブニングコミックス)

モテキ(1) (イブニングコミックス)

 ご飯を食べ終わったら「ごちそうさま」と言うこと。これ、とても大事。



 もちろん、僕は「ごちそうさま」くらい、いくらでも言ってやるつもりである。だがそれは、店員さんが目の前にいたらの話だ。

 コンビニで「ありがとうございます」というのは余裕だ。今の僕ならおでんのネタだって自在に頼むことができる。


 しかし、松屋の場合はそう簡単にはいかない。店員さんが直接お会計をするのであれば、お釣りやレシートを渡されたタイミングで「ごちそうさまで〜す」と言ってしまえばいいだろう。だが松屋では、食べ終わった後はそのまま立ち去っていいので、明確に「ごちそうさま」を言う機会が与えられないのだ。


「ごちそうさま」は詰まるところ単なる自己満足かもしれないし、一人でそう言って帰ってしまえばいいのだが、店員さんの「ありがとうございました」などのレスポンスが返ってこないと、かなりバツの悪い感じになってしまう。勇気出して「ごちそうさま」と言ったが店員に無視されて顔真っ赤になったこともある。

 言葉は人に向けて発するものであり、基本的には店員さんに向かって「ごちそうさま」を言う形になるのだが、問題はそれをどれだけ自然にやれるかなのだ。


 食べ終わったタイミングで店員さんが近くにいると楽だ。注文をとろうとしている忙しい状況じゃなくて、テーブルを拭きに来たみたいな感じだと非常に嬉しい。

 店員さんがなかなか近くに来ないことは当然ある。食べ終わった後に携帯などをいじって時間稼ぎするのは「いやお前ごちそうさまって言うために待ってるのかよw」みたいな感じで恥ずかしい。店員さんが遠くにいたとしても、やはりどこかのタイミングで切りださなければならないのだ。


 なんだかんだ、去り際の「ごちそうさま」という一言だけでも、個々人のコミュ力の全貌が見える気がする。その人が積み重ねてきた周りの空気を読む力、人と接するときの距離感、声を発することの慣れのようなものが、一瞬で顕わになるのだ。


 どれだけ自然な所作で「ごちそうさま」を言えるかを極めること。これこそが松屋の深淵であり、僕がよく松屋に行くのは、「ごちそうさま」の深みにハマってしまったからなのかもしれない。松屋で完璧な「ごちそうさま」ができるようになる頃には、僕の対人能力はある程度のレベルに達していると言えるのではないだろうか。


 上達への道は、他の人の「ごちそうさま」を観察することだと思っている。

 人それぞれの「ごちそうさま」スタイルがある。


 おっさんは、年配特有のふてぶてしさと声の大きさで強引に押し切る感じの「ごちそうさま」スタイルが多い。店員の状態に関係なく声を届けてしまう攻撃力重視のスタイルだ。どこか粗雑さが許された時代の名残が見えて、なかなか悪くない趣がある。


 女性で松屋に来ている人は、何もしゃべらない人が多い。ただ、食事の後に一人でちょこっと手を合わせて立ち去る姿が様になる人もいる。ちょまどさんもそんな感じなのかもしれない。これも一つの「ごちそうさま」スタイルだろう。


 見た目がDQNでも、ちゃんと「ごちそうさま」と言うやつはいる。しかも、タイミングとか声の大きさとかが自然で上手なやつがけっこう多い気がする。もちろん僕は、そういうDQNを「案外いいやつじゃないか」と思ったりはしない。

「見た目に反していい人」なんてのはありえない。人を威圧する外見とか態度をわざとしてる時点でそいつは悪だ。そこからまともな振る舞いをしたとしても、マイナスからの振れ幅による認知バイアスを狙ってるわけで、そういう魂胆を持ったやつがいい人なわけがないだろう。その種の人間が最初からまっとうにやろうとする人よりも有利になってはいけないと思ってる。

 DQNがどれだけ見事な「ごちそうさま」を言っても、彼らに対して好感を抱くことはない。

 しかし、だからこそ、負けるわけにはいかないと思う。


 僕は、僕なりのやり方で、自分自身の「ごちそうさま」スタイルを極めていく。

 最近は、仮に店員さんが反応してもしなくても心が乱れないような、最低限一人でつぶやいても形になるような、防御力重視の「ごちそうさま」スタイルを目指して修行中である。


 たまにだけど、完璧なタイミング、声の大きさ、自然さで「ごちそうさま」を言うやつがいる。一連の所作が、少しも空気を震わせることなく世界にぴったり収まるような、松屋を極めた人間のみに許される「ごちそうさま」……。


 目指すところは、遥か先にある。