石垣りんの『崖』
詩を感じられるようになりたいと思って、大学生のときは、よく読んでいた。
そんなときに、石垣りんの『崖』を読んだ。
戦時中に、サイパン島に上陸したアメリカ兵につかまることを恐れて、逃げたい一心で崖までやってきた女性が、ついに足から飛び込んで自殺したことを詠んだ詩。
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
『私の目にはじめてあふれる野獣の涙』p.64-65
今も落ち続けてる女性。
「それがねえ」などという平凡な日常用語で、それが、あたかも事実のように描写される。
この最終連の、「それがねえ まだ一人も海にとどかないのだ。」を読んだとき、かなり衝撃的で、詩を感じた気がした。
崖の前まで連れてこられて、ふっと置いてけぼりにされたような感じ。
詩とは何か
落ち続けているという未完了によって、底知れない悲しみを表現しているけど、落ち続けているということは事実ではない。
現実には、岩にあたって死を迎えた、というのが事実であって、落ち続けているわけではない。
落ち続けているという反事実によって、私の感情は動かされてしまった。
感情は、現実に起こっていることや、起こりうることにしか、反応しないように見えて、じつはこうして、非知覚的な虚構によって動かされることもあるようだ。
事実ではないような、でたらめな虚構によって、自分の感情が動いている。
感情が動けば、ときには、生き方や考え方を決定する。
しかし、虚構によって現実を決定してしまうのは、麻薬中毒者の幻想決定と変わらない。
これを回避するためには、詩の虚構は、何らかの意味で現実性や真理性をもつと主張しないといけない。
これこれの事情があって、こういう文脈で、最終的には岩にあたって死を迎えた、と全活写できたとして、それだけで、しかるべき意味は出るのだろうか。
意味不明な反事実によってしか表現できないようなものがあるのではないか。
現実から離れた別の空想をしてるんじゃなくて、その現実を説明するために、どうしても避けられないようなもの。
一方で、俳句のような詩には、そういうあからさまな虚構はないように見える。
ある時点の、時と場所と場面を限定して、その中でつぶさに観察した局所的一点を正確に活写するような、現実的な規定性をもった描写の仕方をしてるように思う。
このことによって普段気にしなかった現実のある部分を、新しく発見することができる。
しかしどちらも、見えないものを見ているという点では、共通している。
普段は見えないものを見ている。
普段は見えないけど、たしかにその場面を通してでしか、見えないもの。
その場面と切り離すことはできないということは、その場面の別の見え方ということ。
別の見え方をすることによって、はじめて別の部分が現れてくる。
別の部分によって誘われている。
その別の部分によってでしか、現実が決定的に見えないことがある。
それは別の部分に、現実が依存しているということ。
現実が虚構だった。
詩とは、現実が虚構であることを暴くもの。