5月1日に
嫁氏のはからいもあって、文学フリマにいくことができた。実質的にこのイベントでしか会えないいくらかの友だちと会ってお話をした。そこで「らくせん」についての友だちの感想とか、それを読んだっていうぼくが知らないひとの感想をきくことができた。
らくせんVol.2を出したとき、ぼくはこのブログにこんなことを書いた。
ぼくらのサークルは別に統一的な小説への見解を持ったりしているわけでもなく、そして組織としての活動などは一切やってなくて、ただ文フリの時期が近付いたら手持ちの作品を一冊の本にまとめるという「遊び」をやっているに過ぎません。文学賞の落選作であることを謳うことにも、既存の「文学」への反発の姿勢を“組織として”表明しているということもなく、ただそうした方がおもしろそうだから、という理由になります。すくなくとも、ぼくはそう思っています。
同時にぼくらがこの本に掲載する作品たちが、商業的に流通している本に比べ“劣っている”ともおもっていません。もちろん、個々に否定しがたいなんらかの欠点は抱えているでしょう。問題は、「らくせん」に掲載される作品たちが、文フリという場を離れ、「らくせん」という媒体のコンセプトを外してだれかに読まれたとき、それが読み手にとってどう価値づけされるのか、ということにあります。
そういう意味でひとつの可能性を提示してくれたのが澤雪さんの解説です。ぼくらが何を考えるとか考えないとかそういうものとは無関係に、どうしようもなく現代に書かれてしまった小説たちは文学という系譜のどこかに存在してしまう。かつて固体物理やら統計物理やらをかじっていたぼくは「自己組織化」ということばを想起してしまうのですが、構造というものはどうしようもなくミクロにもマクロにも生じてしまいます。作品と作品、作品と読者、作品と歴史、作品と世界、書かれてしまった文章と未だ書かれていない文章――考えられる相互作用の組み合わせはそれこそ無数にあって、それらのあいだに生じる相互作用について厳密に知る術をぼくらは人間であってしまったがゆえに知りえることはできないかもしれない、けれども知りえないからこそ生じてしまうこの余白へ踏み込むことこそ、小説の“ひとつの”可能性なのかもしれない、とぼくは考えます。
友だちや、友だちの友だちからあった「らくせん」という本に対する思うところのひとつに、「文学賞の落選作品だというレッテルをあえて貼ることに、媒体としてのどんな価値付けがあるのか」ということのようにおもえた。上記のぼくの「らくせん」という本に対する考えは変わらないけれど、「媒体としての価値付け」という点は、きっと「らくせん」という本を出すという表現行為を指す。そのことを突きつけられると、ぼくはこれまで「媒体を作る」という表現に対してあまりにも無関心でありすぎたし、それを表現とすらみなしていなかった。
とくに、小説を文学賞という文脈で提示することについて、もうすこし考えるべきだった。
世界、ということばについて
創作においても、そしてふだんの生活のなかでも、「世界」ということばを使うにはなんとない緊張がある。世界、ということばは慎重に使われなければならないものだとずっとおもっていた。だけど、いざじぶんのなかで「他愛のない遊び」にすぎなかった行為について、それこそ生き死にをかけた次元での「表現」というまなざしを受け得るという事態をおもい知って、「世界」というものはじぶんの意思で呼んだり呼ばなかったりするようなものではないのだと確信した。
世界というものはぼくがいままでおもっていたものよりも、ずっと、はるかに巨大なもので、たぶん生きている限り、死んでもなお、ひとやひとだけでなく知覚されたり想像されたりするすべてのものがその外側に行くことができない規模のものなのだとおもう。それがたまらなく窮屈なのか、それともどれだけはげしく遊んでも壊れない頑丈で安全な広い場所と考えるのかは、状況によって変わってくるだろう。けれども、そこからどうやっても出て行くことなんてできない、っていうことをぼくはいま知ることができてよかった。
いぬのせなか座について
言葉や絵がつねに、特定の社会のなかの特定のルールのうちで認められた「存在するもの」を写すものでしかないのであれば、存在することがもっとも優位であり、持っていないことは持っていることよりつねに下位であり、利を得ることこそが高貴なのだという資本主義的な社会が一番という話になってしまいます。なにか目に見たりさわったりすることのできるものをつくったところで、それを買ったり売ったり所有したりする富める者のステータスを高めることに寄与するだけにしかならない世界においては、覆されるべき重力はつねに無視され、意識されることがない。
それは、別でありえた可能性を制作が抱え込むという問題になるのでしょうか。なまけさんがいうように、存在しないもの、存在できなかったものを抱え込む、としたときに生じるのは、存在するものを存在するものとした政治性を、どのように存在しないものに差し向けるかということになります。私が生きていること、私ではないだれかが死んでしまったこと、それをナイーブな追悼の意志に回収されない位置で思考するためには、描くことにおいて生じた省略の仕草を、どのような論理において位置付けるかということでもあるのかな、とおもいます。存在しない環境とは、そこにおいて初めて考えられるようになる。さらにやっかいなのは、そこで用いられる論理そのものが、選ばれた死者に対するものになる、つまりは、政治性を付帯させる可能性があるということです。だからこそ、可能なパターンの網羅という問題がつきまとうことになるわけですが。
それこそ、政治性というとき、一人の私ではなく、おのれの身体に内在的な障害を抱えた無数の私らによる、(書き言葉に限られない、今回の座談で示された意味での)言語を介した社会が想起されるべきでしょう。死者を追悼の意志に回収しない論理、不在に関する省略の仕草を位置づけるべき論理、社会における相互交流・相互教育の成否によって測られるところの論理――としての言語。そんな政治的な道具が作られることによってはじめて、死者は、むやみやたらな集合体としてではなく、独自の障害を抱えた身体をもつ生き物として、自ら語りはじめるんじゃないか。
※以上、いぬのせなか座2号、座談会3「不在の環境・生きものらに向けた身体の動かし方、環境の掛け合わせとしての言語」より引用
ここで語られる死者とは、かつてここにいたけれどいまはいない者、を指す。死者は記憶を持つけれど、いまここにいないがゆえに生者にもよって語られることもない。いまここにいる者がそうでない者を黙殺するという力学(=政治性)を敏感に知覚できるのは黙殺された者(死者)で、それに抗うためにはかれら自身が語るしかない。
この力学圏こそ、ぼくが「世界」とおもったものなんだろう。そして死者が語る(=死者が死者として生きる)ことは、たぶん世界を構築している力学に対して抗ったことにはならないようなきがする。それは単に死者が生者になったにすぎない。ただし、その転移を「進化」っていう。
その進化は最近の小説でも度々「人称の問題」として現れてはいるけれど、それはいつも「文章技巧」として回収されがちで、技巧以外の意味づけがなされないまま「一時代の流行り」として、このままだとそういった表現じたいが死者になる、それどころか、「現象」として自然科学的な思考がなされないままであれば、見いだされた表現は死者にすらなれない。
いぬのせなか座でなされる数々の議論はとてもむずかしい。だけど、これまでにあったことをちゃんと「死者」にできる強さを持った批評ができる場所だった。