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だれも○○できなかったから、仏教の「色即是空」の思想が現代まで残った

思想・哲学 知識 心理学

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世界三大宗教のひとつである仏教(般若経)には、中心に「色即是空」の教えがある。

般若経の教えは根本的かつブラックホール的だ。それに、認知科学的な思考実験の勧めとも言える。

この教えが現代まで残ってきたのは、だれも○○できなかったからだ。

 

色即是空とは

般若経大般若経)を短くした般若心経の中の、象徴的な一節。

「色即是空」の言葉だけを抜き出せば、意味として、「形があるように思えるものも、実際は存在しないものとみなせる」といった所か。

般若心経の歴史

  • 紀元前6世紀:仏陀(釈迦、釈尊)が仏教を作った
  • ~1世紀まで:出家信者が中心となり、原理的な取り組みをした。これを部派仏教と呼ぶ
  • 1世紀頃:在家の信者たちでも取り組める大乗仏教と、般若経が作られはじめた(実体を重視する部派仏教に対して、般若経は空を強調した教えとなった。般若経大乗仏教の中心となった)
  • ~2世紀:空の哲学はなかなか完成しない(扱いが難しく、実用レベルで落とし込めていない)
  • 2~3世紀:龍樹(ナーガリュジュナ)というインドの学者が、著書「中論」において、縁起という概念で空を説明した
  • 4世紀~7世紀:長大な般若経を要約した、般若心経が作られた(成立時期は諸説あり)

般若経は600巻におよぶ多くの経典により構成されており、般若経と名指される単体の経典はない

般若心経について

以下は般若心経、玄奘三蔵の漢訳である。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄  舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是  舍利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減  是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界  無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故  菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃  三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提  故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
般若心経
觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顚倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛。故說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

摩訶般若波羅蜜多心経 - Wikisource

訓み下しは以下となる。

觀自在菩薩、深般若波羅蜜多を行じし時、五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。

舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はこれすなわち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし。

舎利子、この諸法は空相にして、生ぜず、滅せず、垢つかず、浄からず、増さず、減ぜず、この故に、空の中には、色もなく、受も想も行も識もなく、眼も耳も鼻も舌も身も意もなく、色も声も香も味も触も法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし。無明もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦も集も滅も道もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなく、一切の顚倒夢想を遠離し涅槃を究竟す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。故に知るべし、般若波羅蜜多はこれ大神咒なり。これ大明咒なり。これ無上咒なり。これ無等等咒なり。よく一切の苦を除き、真実にして虚ならず。故に般若波羅蜜多の咒を説く。すなわち咒を説いて曰わく、

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶

般若心經

摩訶般若波羅蜜多心経 - Wikisource

現代的に簡単に、きわめて表面的に説明すると、「現実の全ては実体のない幻にすぎない。認知科学的に考えると、あくまで感覚器が脳に伝えた信号にすぎず、本質的なものではない。思考についても脳内の電流にすぎない。いったん思い込みをリセットすべし。真理の探究をすべし」という具合だろうか。(これはあくまで僕のとらえ方、ということで)

感覚や思考を半ば実体のないものと定義する、思考実験的で興味深い考え方だ。

空の意味

般若経(般若心経)の中で現れる「空」という言葉の意味について説明したい。

簡単に述べると、空=0(ゼロ)であり、空=無ではない。

  • 「1以上」:有(部派仏教で言う実体)
  • 「0」:空
  • 「 」:無

と、こういうことになる。

背景としては、インドで発祥した0という数字の概念を考えるとよい。

0-9の数字による数の表現は、世界でもっとも合理的で使いやすいものだ。

また、0があることで、多くの桁の数列を、矛盾なくわかりやすく表現できる。

少し観念的な説明をすると、「0は、可能性として存在していながら、空を示している」と言える。

しかしながら、古代人たちはしばらく、この空という概念をもてあましていた。

空だ空だと言っていても、現実は生きていけない。しかし、悟りを開くために、空を追求しなければならない。こんな具合でパニックに陥った。

龍樹(ナーガリュジュナ)による空の定義

龍樹というインドの学者が出現し、「中論」という本の中で、縁起理論を唱えた。

縁起理論を簡単に説明すると、

「この世の全ては相対的なもので、観察者の立場でどうとでもあり方が変わる。物事の多様性を認めるべき」

といったところか。(相変わらず無謀な要約だが)

これによって、大乗仏教の信奉者たちは、

  • 原理的な意味で:万物を本質的に空であるとみなして、感覚感情に惑わされず、真理の境地=悟りを目指すという理想
  • 龍樹的な意味で:万物は関係性において存在することを踏まえ、物事を決めつけないようにする(現実的な空的生活の実践)

という考え方ができるようになり、幾世紀にわたる溜飲を下げることができた。

現代まで残っているのは、だれも否定できなかったから

言うなれば般若(心)経とは、あらゆる思想への取り組みを「こだわり」であるとみなす、思想のブラックホール的存在である。

「すべての知覚や感情をリセット&中和するとことからスタートし、悟りを目指す」という視点に立った人から、「その理論はこだわりすぎだから」と言われたら、だれも否定することができない。

つまり般若経とは、諸哲学の上に立ち、「哲学とはこうあるべき」と言っている教えでもあったのだ。

まとめ

般若心経が日本人に好まれる理由としては、

  • 難しい理論を知らなくても実践できる
  • 和の文化に合っている

という点があるのではないかと思う。

そんな般若心経について、僕は以下のように解釈した。

「可能な限り物事を中立の視点でとらえ、なおかつ自分自身で考え続ける。答えがでないのだとしても、その姿勢自体に意味がある」

さて、考えるよりも実践する方が難しい。

これからも僕は無駄に考え続け、無意味なものにとらわれ、苦悶することだろう。

人間にとって、こだわりを捨てるというのはなんと難しいことだろうか。

おわり。

参考文献

大乗仏教入門(大蔵出版 勝又俊教、古田紹欽編)」他