[ 連載 ]
社会科学の制度論的転回
第4回 実験経済学の発展が意味するもの
2015年1月26日
瀧澤弘和
1. パンドラの箱としてのゲーム理論
前回は,伝統的なゲーム理論もまた,信念と選好という2つの志向的状態を組み合わせて効用を最大化するという道具的合理性を有したプレーヤーを前提としているということ,その意味で,新古典派経済理論と同じ人間像を共有しているということを述べた.実際,ゲーム理論はナッシュ均衡,新古典派経済学は競争均衡というように均衡概念こそ異にしているものの,道具的合理性を有した主体による選択と均衡概念の使用,さらには方法論的個人主義という観点で,両者は共通点を持つのである.しばしば,ゲーム理論は新古典派経済学の一部であるという主張を聞くことがあるのは,こうした理由によるものだ.
しかし,ゲーム理論が経済学に与えたインパクトはこうしたことをはるかに超えるものである.新古典派経済学の市場均衡では,人と人との関係はあくまで市場を通したものでなかった.技術的外部性という例外はあるものの,あくまで例外である.これに対して,ゲーム理論におけるゲームの定式化では,ある1人のプレーヤーの行動選択が他のプレーヤーの意思決定問題に直接的に影響を与えるようになっている.各プレーヤーの利得は,すべてのプレーヤーたちの選択の組み合わせによって決定されるからである.このことによって新古典派経済学を遥かに超えた表現が可能になった.新古典派経済学の至高の命題が,「各人の利己的・合理的な行動選択が社会的に最適な結果をもたらす」という厚生経済学の基本定理であるとしたら,ゲーム理論はこれとはまったく異なる状況の理解を「囚人のジレンマ」の分析によってもたらしたのである.それだけではない.ゲーム理論は,経済学だけではなく社会科学全般に大きな影響を与えてきた.
本連載の文脈に戻して考えてみるならば,ゲーム理論の浸透は,実験経済学,行動経済学などを大きく飛躍させ,それとともに,それ自身が採用してきた道具的に合理的な人間像に対する批判の余地を拡大してきた.さらに,後に詳述するように,ゲーム理論的なアプローチの徹底した追求は,方法論的個人主義に対する批判に対しても力を貸すことになったのである.
このように考えるならば,ゲーム理論は経済学を始めとする社会科学にとっての「パンドラの箱」のようなものであったということもできるだろう.ギリシャ神話に出てくるパンドラの箱とは,エピメテウスが一目惚れして結婚したパンドラが,神々に決して開けてはならないと言い含められて持たされた箱であり,彼女が好奇心を抑えきれずにそれを開けてしまったところ,さまざまな災いが解き放たれてしまったため,人々が大いに苦しむことになったという.ゲーム理論というツールを取り入れることで,経済学は従来有していた方法論的な統一性を保持することが難しくなったという意味で,経済学者たちを困惑させる面も持っているのである.
2.実験経済学の誕生
長い間,経済学では実験はまったく意義のないものと考えられてきた.1948年に初版が出版されて以来,版を重ねて世界中の多くの経済学部学生にとって定番の教科書となっていたポール・サミュエルソンの著名な教科書『経済学』には,ノードハウスが参加してしばらくするまで,そのような記述が含まれていた.このような見方は当時の多くの教科書に共通しているものである.たとえば手元にある新開陽一・新飯田宏・根岸隆の『近代経済学:経済分析の基礎理論』でも以下のように書かれている.
「多くの自然科学においては,現実の現象の発生を管理することができるから,理論の検証に便利なように個々の現象の個性的な特質が除去され多くの現象に共通な本質的性質だけが観察できるような工夫をすることができる.いわゆる実験である.しかし,経済学のような社会科学においてはそれは不可能である.理論の検証には必ずしも便利ではない実際に生起した現象を観察することができるだけである.そのような場合においても,できるだけ個々の現象の個性的特質を除去し多くの現象に共通な性質だけをとり出す工夫は存在する.確率論に基づいた統計的方法がそれである.統計学を駆使して理論模型の現実による検証を試みるのが,いわゆるエコノメリックス(計量経済学)である」(p.41).
経済学では実験が役立たないという発想の大本を尋ねてみると,筆者の知る限りではジョン・スチュアート・ミルの経済学方法論にまで遡ることができる(Mill 1844).ミルによれば,自然科学と異なり,経済学では「決定的な実験(experimentum crucis)」が不可能である.このことが,自然科学とは異なり経済学が「ア・プリオリな方法」を採用しなければならない理由なのである.ミルがいうア・プリオリな方法とは,「事実からではなく仮定から推論する」方法である.つまり,事実からの帰納ではなく,仮定(原理)から演繹して結論を導く方法である.ミルは「少ない富より多くの富を好む」という人間の本性をそのような仮定として措定した.また,この仮定自体は内省によって得られるものであり,それ自体を経験的証拠によって直接的に反駁することができないとされる.この理論的枠組みは,行動経済学が登場する前まで,経済学者の多くに受け入れられてきた方法論である.
しかし,今日では経済学でも実験が有用な研究手法であることは広く受け入れられている.ダニエル・カーネマンとヴァーノン・スミスが2002年にノーベル経済学賞を受賞したことはそのことの何よりの証左といえよう.行動経済学の創始者であるカーネマンについては後に再び取り上げることになるので,ここではヴァーノン・スミスに着目しよう.ノーベル賞選考委員会によれば,ヴァーノン・スミスに対する授賞の理由は「経験的な経済分析,とりわけ代替的な市場メカニズムの研究における経験的な経済分析におけるツールとして,実験室実験を確立したこと」である.
ヴァーノン・スミスが実験研究を始めるきっかけになったのは,独占的競争の理論で経済学の教科書に登場するエドワード・チェンバレンがハーバード大学で行っていた実験に参加したことであり,戦後間もない時期のことである.しかし,一般均衡の数理的分析に焦点を当てていた当時の経済学会のなかでは,実験研究はほとんど注目されなかったであろう.このため,ヴァーノン・スミスの論文は主流派の経済学者を説得するためにきわめて周到に書かれている.経済学方法論に対する考察も,現在読んでも読みごたえのあるものである.
ヴァーノン・スミスの主張の中心にあるのは,実験室でもコントロールされた環境が実現できるということである.それは実験に参加する被験者たちに対して,金銭的報酬を与えることによって,理論が想定しているようなインセンティブを創出することができるという考え方に基づいている.スミスは実験環境がコントロールされたものとなるために,満たさなければならない条件をいくつかまとめているが,そのうち今日の実験経済学でもよく引用されるのが次の3つの条件である[1].
- 非飽和(non-satiation):被験者はつねにより多くの報酬手段をもたらすような選択肢の方を選択する.すなわち,効用は貨幣的報酬の増加関数である.
- 顕著性(saliency):報酬が,被験者自身や他人の選択,制度の特性に対し,被験者が明確に理解できる仕方で依存している.
- 優越性(dominance):実験における報酬構造が被験者の効用を決定しており,他のいかなる影響にも優越している.
コントロールされた実験にこうした条件が必要だという理論は「価値誘発理論(induced value theory)」と呼ばれている.
ヴァーノン・スミスが主に行った実験は市場実験である.読者のなかには,どのようにして理論に合致した市場環境を創出するのかに興味を持つ人もいるかもしれないので,簡単に解説しておきたい.この手法はエドワード・チェンバレンによって開発されたものである.
たとえば,ある財に対して,最大限1000円まで支払ってもよいと思っている人が5人,500円まで支払ってもよいと思っている人が5人いるとしよう.これらの金額は,各人の財に対する評価額 を表わすものであり,価格 がその額以下であるときにのみ,財を購入しようとする(需要する)ことになる.各人は1単位しか財を需要しないとしよう.そうすると,1000円を超える価格では需要は0,500円より大きく1000円以下の価格では需要量は5,500円以下の価格では需要は10となる.この情報から需要曲線を描くことができる.
売り手たちも1単位しか財を供給できないとし,財を供給するコストが300円の売り手が3人,800円の人が7人いるとする.そうすると,価格が0円から300円未満のときの供給量は0,300円以上800円未満のときは3,800円以上のときは10となるので,ここから供給曲線を描くことができる.競争均衡は需要曲線と供給曲線の交点であり,均衡価格は800円,均衡取引量は5となる(図1).
このような理論的状況に対応する実験環境では,評価額が1000の人買い手5人と評価額500の買い手5人を創り出す必要があるが,それは評価額Vの人が財を P円で購入したときV-P円の報酬を与えることにし,評価額を各買い手に知らせておけばよい.また,買い手が財を購入しなかった場合の報酬は0円である.同様にコストC円の売り手を創るには,財をP円で売ったときにP-C円の報酬を与えるようにし,各自のコストを知らせておく.こうしてコスト300円の売り手を3人,800円の売り手を7人創るのである.
実際にどのように市場取引を実現させるのかにはさまざまなバリエーションがある.たとえば売り手と買い手の双方がオファーをするダブル・オークションや買い手が値段を設定するポスティド・オファーなどである.均衡への収束の速さなどによって,それぞれの制度のパフォーマンスを比較することが可能である.ヴァーノン・スミスの研究は,こうしてさまざまな取引制度のパフォーマンスを比較し,被験者たちが市場環境を完全に知らない方が,知っているときよりも均衡への収束が速くなることを示したのであった.
ちなみにヴァーノン・スミスが市場実験を行った目的は,行動経済学者のように人間の不合理性を炙り出すことではなかった.彼は,時間を通じた学習によって,市場メカニズムが人間の行動をいかに合理的なものにしていくのかを明らかにしようとしたのであった.彼は時間という概念を導入して,新古典派経済学を豊富化しようとしたのである.行動経済学と実験経済学は同じ実験という手法を用いながらも,目的をまったく異にしていたのだが,このことは後に再び触れることにしたい.
3. 実験ゲーム理論の発展
実はヴァーノン・スミスらの市場実験に先立って,ゲーム理論においても実験は行われていた.もっとも有名なものは,メルヴィン・ドレッシャーとメリル・フラッドが1950年に行った囚人のジレンマの実験である[2].しかし,実験経済学が1990年頃から大ブレイクした背景に,1970年代と80年代を通したゲーム理論の経済学への浸透があったことはほぼ間違いない.価値誘発理論に則って,ゲーム理論が想定するような状況を実験室の中で実現することは容易である.このため,さまざまなゲームが実験室で実験されるようになり,ヴァーノン・スミスが行った市場実験とは異なるさまざまな新しい発見をもたらしたのである.この間の事情は,市場設計の実践に対する功績によってノーベル賞を授与されたアルビン・ロスによって次のように語られている.
「むしろゲーム理論は経済学に対して,実験的探求に適し,ある場合にはそれを要求するような新種の理論をもたらしたのである.その理由は,ゲーム理論が個人的行動(フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数という形で)と経済的環境の両面で正確なモデルを提供しようとしているからである.取引が行われる制度とメカニズム,「ゲームのルール」に対するこの関心は,個人の行動と個人に利用可能な情報に関する正確な仮定とともに,実験室でテスト可能な理論を生み出したのである.」(Roth 1995, p.18)
ここでは実験研究の中から目覚ましい結果を1つだけあげることにしよう.それは通常,「公共財の自発的供給」と呼ばれているゲームである.今,4人のプレーヤーが存在し,20単位のコインを与えられているとしよう.各プレーヤーはこのコインを私的に支出することもできるが,公共財のために供給することもできる.ここで私的支出はそのまま各プレーヤーの利得となるが,公共財の方は全プレーヤーの支出が合計されて,その0.5倍が各プレーヤーの利得に追加される[3].公共財への支出1単位は0.5倍されて自分に返ってくるものの,1単位の私的支出が削減されることになるので,各人にとっては,公共財にまったく支出しないことが最適な戦略である.しかし,全員の利得の合計という観点からは,全員がすべてのコインを公共財生産のために支出することが最適になる.このゲームを実験するとどうなるか.
実は,このゲームを実験すると,多くの人がある程度の貢献を行うが,同じゲームを何回も繰り返すと次第に貢献の割合が減少していくことが知られている.「知られている」というのは,このような結果は多くの異なる人々の実験結果で再現されているという意味である.
このことは,明確にゲーム理論的予測と異なる実験結果が得られるということを意味している.これをどのように解釈したらよいのだろうか.
現在では,これが実験環境のコントロールの失敗で発生していると考える経済学者はほとんどいない.むしろ,実験環境のコントロールにもかかわらず,被験者たちが先に述べたような行動を選択するのはなぜなのかと問うのが通常である.また,理論的予測と実験結果が異なっているのだから,単純に理論が間違っていると考えているのかというとそうでもない.読者にはこのことは不思議に思われるかもしれないが,このことについては,モデル分析の意味とは何なのかという問題として,後に再び取り上げることにしよう.いずれにせよ,ゲーム理論の実験研究によって,伝統的ゲーム理論が与える予測とは異なる結果が次々と提出されるようになった.
4.社会科学における実験と因果関係
今日の経済学において,「実験」という概念は,コントロールされた実験室実験に適用されるだけではなくなっている.たとえば,より自然な環境に近いところで行われるフィールド実験や,研究者が意図的に実験環境を作り出すのではなく,現実世界のなかに実験に相当する状況を見出して分析する自然実験を用いた研究が盛んに行われているからである.そのような傾向は経済学に限ったことではなく,政治学などにも波及している.こうした潮流の背景には,20世紀の後半に統計学においても因果関係を探求する研究が盛んになってきたほか,人工知能の分野でも因果推論の研究が進んできたことが影響している(パール, 2009).
因果性とは何なのかというのは非常に難しい問いである.近代以降の哲学でこの問題を本格的に扱ったのは,18世紀スコットランドの哲学者デイヴィド・ヒュームである.ヒュームは2つの出来事が空間的に隣接し,時間的に連続して随伴的に発生するときに人間の心が抱くものが因果性であるとした.また,バートランド・ラッセルが完全に因果関係の存在を否定していたことは有名である.筆者は,因果性とは何なのかという形而上学的ないし存在論的な問いに答える自信もなければ,あまり関心もない.しかし,人間が因果関係をどうようにして知ることができるのかという問いはきわめて重要である.
読者の多くは統計学を学習したときに,「相関関係は因果関係を含意しない」ということを教えられたはずである.カール・ピアソンのように統計学を切り開いた偉人でも,因果関係という概念の必要性を否定しており,統計学で真剣に因果関係が分析されることはほとんどなかったのである.
なぜ因果関係の把握は難しいのだろうか.それは反事実的な状況で何が起こるのかを知らなければ,因果関係の把握ができないからである.J. S. ミルの帰納の理論で述べられていることを現代的に簡単に言い換えてみよう.ミルは4つの方法を列挙しているが,そのうちの1つ「差異の方法」は次のようなものである.ある要因Xが他の要因Yに因果的に影響を与える状況を考えると,「Xがx0という値をとることが,Yがy0という値をとることを引き起こしている」といえるのは,それ以外の一切の要因を同じにして, Xがx0 という値をとることが,Yがy0 という値をとるか否かだけでなく,Xがx0 以外の値をとるときに,Yがy0という値をとるか否かを調べる必要がある.ここで,その他一切の要因を同じにしてということが重要である.これは経済学において,しばしば「その他の条件の等しき限り(ceteris paribus)」という言葉で登場するものである.
しかし,このようなことは可能だろうか.たとえば喫煙者であるAさんがガンに罹ったとして,その因果関係を知りたいとしてみよう.Aさんが喫煙したことがガンに罹ったことの原因かどうかを調べるには,Aさんが喫煙しなかった状況で何が起こるのかと比較する必要がある.この比較の効果を「因果効果」というが,他の一切の条件を一定にして両方の状況を観察することは不可能である.同じAさんについて,両方の条件を観察することができないからである.これは「因果推論の根本問題」と呼ばれている問題で,このために因果関係を正確に推論することは根本的に不可能だということになる(Holland 1986).ではどうしたらいいのか.それは,理想的な状況に「近い」状況をいかに創出するのかを考えることである.
因果効果を個々の人について剔出することは不可能であるにしても,集団レベルでは可能かもしれない.そのためには,集団を完全に同質的な2つの下位集団に分け,両者に喫煙と非喫煙という条件を課して,因果効果を調べてみる以外にない.完全に同質的な2つの下位集団に分けることも現実的には不可能であるが,それに近い状況は,集団全体を完全にランダムな仕方で2つの下位集団に割り当てることで近似することは可能である.これが「ランダム化統制試行(RCT: Randomized Controlled Trial)」という発想である.
RCTのもともとの発想は,統計学者・集団遺伝学者のロナルド・フィッシャーによる実験計画法の発明にまで辿ることができるものだが,1990年代初頭の医学において,治療が専門性や伝承,伝統といった知識に過度に頼ることなく,厳密に確立された証拠に基づいて行われるべきだという文脈のなかで重視されるようになったものであり,今日日本でもよく聞くようになった「証拠に基づく政策(evidence-based policy)」と強く関連している.実際の研究では,ランダムに分けられる下位集団は2つに限られないが,2つのケースでいうと,調査したい条件を課した下位集団を「トリートメント・グループ」と呼び,そうでない下位集団は「コントロール・グループ」と呼ぶ.これら2つのの下位集団間でトリートメントがもたらす効果の違いを見ることで,因果効果を調べることができる.
統計学におけるこのような革新が,労働経済学をはじめとして,多くの経済学の分野で応用されるようになった.もちろん先に述べたゲーム理論によって触発された実験室実験でも,実験計画という手法を通じて,同じようなことを行っているわけだが,統計学発の革新は別の方向から経済学における手法の革新に寄与したわけである.その成果の一端は,全世界的ベストセラーになったレヴィット&ダブナーの『ヤバい経済学』で紹介されているので,知っている方も多いだろう.また,今日では開発経済学においてもRCTの手法が多く用いられており,多くの新しい知見をもたらしている.関心のある読者は,たとえばバナジー&デュフロ『貧乏人の経済学』やカーラン&アペル『善意で貧困はなくせるのか?』,フィスマン&ミゲル『悪い奴ほど合理的』を参照して欲しい.そこにはRCTによって得られた知見の多くの実例が見られる.
さて,本論に戻ろう.実験という概念には一種の「介入」が関連している.介入は多かれ少なかれ人為的なものだと考えてよいだろう.介入によって,「実験環境」が創出されるのである.これによって,3つの要素の関係を問うことが可能になる.1つはモデルによって表現される「理論」であり,第2は「実験環境」であり,第3が「現実」である.これら三者の関係によって,さまざまな実験のタイプの違いとその狙いがある程度明確になる.
実験室実験では,できるだけ理論で想定されているような実験環境を創出しようとするため,人為的介入の度合いが非常に大きくなる.また,自然実験は単に実験的介入と同様なことが現実のなかに見出されるだけなので,人為的介入の程度は低くなる.その分,コントロールは甘くなってしまうだろう.フィールド実験はその中間に位置している(図2).
実験室実験は,理論に近い状況を再現するので,理論の検証を行うのに適したものである.また,理論に近い環境を創出したにもかかわらず,理論的予測と違う結果が得られた場合には,理論との乖離を発見するという発見的意義をも持つことになる.自然実験のように,実験環境が現実に近い場合には,先に述べたように因果効果の発見が容易となるであろう.しかし,理論との紐づけはルースになってしまうので,どうしてそのような因果効果が生じているのかについては,多くのことを言うことができなくなる.このことの意味については,後にさらに考察することになるだろう.
今回は経済学が実験という方法を導入し,ゲーム理論を実験することで,さまざまなアノマリーが発見されるようになったことを述べた.また今日,経済学において実験概念が一般化されつつあることの意味についての筆者なりの理解を説明した.次回は実験経済学の発展と平行しながら発展してきた行動経済学が登場してきた意義について検討していくことにする.
ことは,実験経済学が発見したアノマリーを説明するアプローチとして行動経済学が発展してきたというほど簡単なものではない.それはむしろ,人間行動の説明に関する心理学と経済学との居心地の悪い関係から登場してきたのである.行動経済学は伝統的な合理的人間像と対比されるような人間像を提起している.このことの意義が深く検討されるべきなのである.
註
[1] 詳しくは,フリードマン=サンダー(1999)などを参照せよ.本文での記述は,Smith (1982)を参考にしつつも,それを簡単にしたものである.
[2] この実験はドレッシャーとフラッドが行ったものだが,当時は「囚人のジレンマ」と名づけられていたわけではない.この実験に興味をもったアルバート・タッカーが,今日われわれが知っているようなストーリーを作り上げて,このゲームを「囚人のジレンマ」と名づけたのである.詳しくはパウンドストーン(1995)を見よ.
[3] たとえば,プレーヤー の公共財への支出を と書くとき,プレーヤー の利得は
となる.全員の利得の合計は
なので,全員が公共財への支出を最大にすることで,この値を最大化できる.
参考文献
Holland, P. (1986), “Statistics and Causal Inference,” Journal of the American Statistical Association, Vol. 81, No. 396, pp.945-960.
Mill, J. S. (1844), “On the Definition of Political Economy; and on the Method of Investigation Proper to It”, in Collected Works of John Stuart Mill, Vol. 4: Essays on Economics and Society, Indianapolis: Indiana, Liberty Fund, pp.309-339.
Roth, A. (1995), “Introduction to Experimental Economics,” in Kagel, J. and A. Roth (eds.),The Handbook of Experimental Economics, Princeton: New Jersey, Princeton University Press, pp.3-109.
Smith, V. (1982), “Microeconomic System as an Experimental Science,” The American Economic Review, Vol. 72, No.5, pp.923-955.
新開陽一・新飯田宏・根岸隆 (1987)『近代経済学:経済分析の基礎理論[新版]』有斐閣.
ディーン・カーラン&ジェイコブ・アペル(2013)『善意で貧困はなくせるのか?:貧乏人の行動経済学』,清川幸 美訳,みすず書房
ジュディ・パール (2009)『統計的因果推論:モデル・推論・推測』,黒木学訳,共立出版
ウィリアム・パウンドストーン (1995)『囚人のジレンマ』,松浦俊輔他訳,青土社
アビジット・バナジー&エスター・デュフロ(2012)『貧乏人の経済学:もういちど貧困問題を根っこから考え る』,みすず書房
レイモンド・フィスマン&エドワード・ミゲル (2014)『悪い奴ほど合理的:腐敗・暴力・貧困の経済学』,田村 勝省訳,NTT出版
ダニエル・フリードマン&シャムサンダー (1999)『実験経済学の原理と方法』,川越敏司・森徹・内木哲也・秋 永利明訳,同文舘
スティーヴン・レヴィット&スティーヴン・ダブナー(2007)『ヤバい経済学[増補改訂版]』,望月衛訳,東洋経済 新報社
文献案内
レイモンド・フィスマン&エドワード・ミゲル (2014)『悪い奴ほど合理的――腐敗・暴力・貧困の経済学』田村勝省訳,NTT出版
著者の1人であるエドワード・ミゲルは,西ケニアで寄生虫駆除のランダム化統制試行をハーバード大学のマイケル・クレマーと行ったことで有名な経済学者である.世界各国の腐敗・暴力の問題に取り組んだ本書は,現代の経済学者が徐々に利用可能になったデータとRCTのようなさまざまな手法を用いて,社会問題の取り組んでいることを示す好例である.
ウィリアム・パウンドストーン (1995)『囚人のジレンマ』松浦俊輔他訳,青土社
ゲーム理論がどのように生まれ,発展してきたのかを知るには最高の本である.ゲーム理論の発展には,フォン・ノイマンやジョン・ナッシュなど映画の主人公になるほど魅力的な人物が多数関わっている.本文で触れた囚人のジレンマの実験も詳しく触れられており,理論が発展していく様子を臨場感をもって理解させてくれる.