[ 連載 ]

社会科学の制度論的転回

第3回 ゲーム理論と方法的個人主義

2015年10月23日

syakaigaku201509

 前回は新古典派経済学の基礎をなしている人間観を意思決定理論に即して剔出した.今回は,まず新古典派の人間観が,80年代に急速に経済学に取り入れられるようになったゲーム理論によってどのように変化したのか,変化しなかったのかというところから論じていくことにしよう.そのうえで,方法論的個人主義というアプローチについて説明し,新古典派経済学を含む,合理的選択理論に基づく社会科学がどのような構造を持っているのかを総括することにしたい.

 ゲーム理論という研究プログラム

   前回分析した意思決定理論では,1人の意思決定者による意思決定の状況が分析されていた.これに対して,複数の意思決定者が相互依存的な状況で意思決定を行う状況の分析には,ゲーム理論を用いることが必要となる.

  ゲーム理論は今日では,経済学のあらゆる分野において不可欠なツールとして浸透しており,経済学ならびに社会科学全般の変容に深い影響を与えている.このプロセスのなかで,ゲーム理論は,「進化ゲーム理論」や「認識論的ゲーム理論」など,さまざまなアプローチをその内部に抱えることになってきた.したがって,今日,こられのアプローチを包括したゲーム理論の一般的特徴を簡単に論じることはますます難しくなっている.しかし,ここでは論じる対象をあえて限定し,合理的なプレーヤーを前提として構築されてきた伝統的なゲーム理論(あるいはゲーム理論の伝統的な合理的解釈)を想定することにしよう.

  1人の意思決定者が直面する問題の分析から,複数の意思決定者が直面する問題に移行するとき,これまでの分析は非常に重要な困難に直面することになる.1人の意思決定者が直面する問題では,信念は基本的に,意思決定者の外部にある事情に関して意思決定者が抱くものであると考えてよかった.この事態は,意思決定者が直面する不確実性が「自然」というコントロール不可能なプレーヤーが引くくじによって決定されていると言い換えてもいいだろう.ところが,複数の意思決定者の選択が組み合わされて個々人の利得が決定されるゲーム的状況において個々のプレーヤーたちが直面する不確実性は,外部にある何かによって引き起こされるものではなくなるのである.

 簡単な例を用いて,この問題を例示することにしよう.次のゲームをご覧いただきたい.この表は利得表と呼ばれている.このゲームでは2人のプレーヤー,「プレーヤー1」と「プレーヤー2」が存在する.「プレーヤー1」の右に書かれている「上」と「下」はプレーヤー1の戦略であり,「プレーヤー2」の下に書かれている「左」と「右」というのはプレーヤー2の戦略である.利得表を用いて表現されるゲームは「同時手番ゲーム」とも呼ばれ,それぞれのプレーヤーは同時かつ独立に選択を行うものと想定されているので,4通りの戦略の組み合わせ(これを「戦略結合」あるいは「戦略プロファイル」と呼ぶ)が存在することになる.複数のプレーヤーの行為の選択が組み合わさることで,ある結果が生じると考えればよい.その4つの結果の1つ1つに対応して,2つの数字が書き入れられている.左側の数字がその戦略結合のもとでプレーヤー1が獲得する利得であり,右側の数字がプレーヤー2が獲得する利得である.利得は,すでに述べたフォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用の値であり,したがって各プレーヤーの,個々の結果に対する選好を表示している.

 図2.1(3)

 この状況でプレーヤー1が自分の期待効用を最大化することで合理的選択を行うためには,プレーヤー2が「左」と「右」をどのような確率で選択するのかということに対する信念を持たなければならない.しかし,だとすればその信念はプレーヤー2の選択に依存することになるだろう.ところが同様のことはプレーヤー2に対しても生じており,プレーヤー2もまたプレーヤー1の選択に対する信念を持つ必要がある.このとき,お互いに相手の選択に対する信念は無限後退する可能性が発生するのである.

 このことを一般化して述べておこう.合理的主体同士がゲームにおいて意思決定する状況を考えると,どのプレーヤーにとっても(それをプレーヤー1としよう),相手プレーヤー(たち)がどのような選択をするかに関する信念を抱かなければ,自分の最適な意思決定を決定することができない.ところが相手プレーヤー(たち)もまた,自分と同様に他のプレーヤー(たち)の意思決定に対して信念を形成して,最適な意思決定を行っているはずである.相手プレーヤー(たち)にとっての他のプレーヤー(たち)にはもともと考察していたプレーヤー1のプレーの仕方に対する信念が入っているのである.そこではすべてのプレーヤーたちの信念と行為の選択が同時に解かれなければならないような構造が存在しているとも言うことができるだろう.このように1人の意思決定と複数人によるゲーム的状況における意思決定とは,複雑さが質的に異なるのである.

 この難問を解決するのが先頃亡くなった数学者ジョン・ナッシュが提案した「ナッシュ均衡」という概念である.ナッシュ均衡とは,「他のプレーヤー(たち)の選択に対して最適な選択をしているということが,すべてのプレーヤーについて成立しているような戦略結合」のことである.上のゲームにおけるナッシュ均衡は,(上,左)と(下,右)である(これは戦略結合であり,左側がプレーヤー1の戦略,右側がプレーヤー2の戦略を表している).このようにナッシュ均衡は複数存在しうるにも注意しておこう.

 1つのナッシュ均衡を固定しておき,各プレーヤーが他のすべてのプレーヤーについてナッシュ均衡通りのプレーを選択するだろうという信念を抱くならば,すべての合理的プレーヤーはナッシュ均衡で指定された戦略を選択することが最適である.こうして,ナッシュ均衡がプレーされている状態においては,各プレーヤーが抱く信念は相手のプレーに対する正しい信念となるので,無限後退に陥ることもなくなる.逆にいえば,無限後退がなくなるような状態をナッシュ均衡と定義することで,信念とそれに対する最適反応との同時決定を行っているわけである.

 このように考えることによって,ナッシュ均衡においては結果的に,各プレーヤーは(正しい)信念と選好に基づいて自分の最適な選択肢を選んでいることになる.つまり,各プレーヤーはすでに説明した「道具的合理性」によって合理的選択を行っているという仮定を保持することができる.言い換えれば,ゲーム的状況においても各プレーヤーが道具的合理性に従って行為を選択しているという仮定を保持するためにナッシュ均衡という概念が導入されたのだと考えることができる.ゲーム理論はこのように,信念と選好を組み合わせて合理的に意思決定する主体,すなわち道具的合理性をもった主体という人間像を逸脱することなしに,複数の意思決定者が含まれるような状況(それは社会の中でほとんど至るところにみいだされる状況である)を分析するという研究プログラムなのである.

 このようにゲーム理論という,ある種の「研究プログラム」は非常によくできたものであるが,それは新たな問題をも生み出す.それは,ナッシュ均衡においてゲーム的状況が生み出しうる無限後退という難問が解消されているとしても,どのようにしてナッシュ均衡のプレーが実現されるのかという問題はとりあえず問われていないからである.この問題はそれほど簡単に解けるものではない.実は,ナッシュ均衡が実現されるプロセスまで考慮するとき,個々の合理的主体が信念と選好という2つの志向的状態のみに基づいて意思決定した結果だというだけでは済まされなくなる.もう少し言うと,均衡へ向けた行為選択の調整には,個々人の合理的な行為選択の合計以上のものが含まれているので,

   信念と選好に基づく各プレーヤーの合理的行動の合計 = ナッシュ均衡

とはならないことが,ノーベル経済学賞を受賞したゲーム理論家オーマンなどによる研究で明らかにされてきたのである.このことは,あくまで信念と選好という2つの志向的状態という「資源」だけで,戦略的状況にまつわる問題を解決していいのかという問いにもつながっていく.少々話が先回りしすぎてしまったようである.この問題の社会科学にとっての意味については,後に戻ってくることにしよう.

 方法論的個人主義とは何か

  以上のように新古典派経済学もゲーム理論も,根本のところでは,道具的合理性をもった経済主体やプレーヤーの存在を想定している.この経済主体のモデルを基礎として,新古典派経済学は市場均衡という概念を媒介として市場メカニズムで発生する状況を説明しようとし,ゲーム理論はナッシュ均衡という概念を媒介として社会的インタラクションで生じる現象を説明しようとする.

 これらのどちらにも共通していることは,すでに信念と選好を組み合わせて合理的選択を行う能力を完全に兼ね備えた主体を前提として置いたうえで,社会現象や社会秩序を説明しようとしているということである.そこにおいては,その能力が社会の中でどのようにして形づくられてきたのかということについては一切触れられていない.ジョセフ・ヒースの『ルールに従う』によれば,社会現象,とりわけ社会秩序を説明する際のこのアプローチもまた,ホッブズに起源を持つものである.ヒースはこれを社会秩序に対する「ホッブズ的説明戦略」と呼んでいる.

 このアプローチが意味しているグロテスクな感覚は,ホッブズが自分の方法の特徴について解説した,次のような言葉によく表現されている.

 「人々を,あたかもたった今地上に湧き出し,互いにいかなる約束をすることなく,突然(キノコのように)完全に成熟するかのように考える」(Hobbes 1998, pp.102-3)

   このように,信念と選好を兼ね備えた個人が社会の中でインタラクトすると想定し,その結果生み出されるものとして社会現象を理解しようとする方法論は「方法論的個人主義」と呼ばれてきたものである[1]

 もちろん経済学が伝統的にこのような方法論を採用してきたことには,それ相応の理由がある.方法論的個人主義という言葉は『理論経済学の本質と主要内容』(1908)においてヨーゼフ・シュムペーターが始めて使用したものだが,ここではマックス・ヴェーバーの『経済と社会』の冒頭部分における社会科学方法論の内容を見てみたい.

 われわれは社会現象を日常的に論じる際,国家や会社などのような社会的集団をあたかも個別の人格を持った存在であるかのように語る傾向にある.しかし,ヴェーバーによれば社会学的研究においては,これらの集団的現象は個々人の行為を通して理解すべきものである.ヴェーバーは以下のように述べている.

 「更に別の(例えば,法律的)認識目的や実際的目的から見れば,社会集団(国家,協同組合,株式会社,財団)を個人(例えば,権利および義務の主体としての,また,法律上の重要な行為の実行者としての)と全く同じように取扱うのが便利なこともあるし,また,避け難いこともある.ところが,社会学による行為の理解的解釈から見れば,右のような集団は,諸個人の営む特殊な行為の過程および関連にほかならない.なぜなら,私たちにとっては,諸個人だけが意味ある方向を含む行為の理解可能な主体であるから.」(マックス・ヴェーバー 1972,p.23)

  ここで登場する「行為」という言葉は,われわれがすでに「行動」と区別して説明した通りの意味であり,志向的状態によって動機づけられた行動である.ヴェーバー自身が上に引用した箇所の前に「行動」と「行為」を区別したうえで,社会学の対象を「社会的行為」に限定することを宣言しているのである.行為とはなぜ行動を排除し,行為を説明の対象とするのか.それは,われわれは主体の背景にある動機を理解する能力を持つため,行為を解釈することができるからである.ヴェーバーによれば,ここから出発できることは社会科学者にとっての特権である.なぜならば,社会科学者には「個々の個人の行為に対する主観的理解という,自然科学では到底なしえないことをなしえることができる」からである.

 20世紀を通じて主流派であった新古典派経済学もまた,どこまで自覚的であったかは別としても,結果的にこのような方法論にのっとって発展してきたと考えることができる.通常大学の経済学部で最初に学ぶミクロ経済学のテキストではおそらく,企業は利潤を最大化する経済主体であるとされているだろう.これはヴェーバーの述べたような意味での方法論的個人主義に反すると思われるかもしれない.確かにそうだが,80年代くらいからは主流派経済学もゲーム理論を取り入れてきたため,企業組織をそれ自身が目的を持って意思決定する単一の主体とみなすのではなく,株主,経営者,従業員等,利害を異にする主体から構成されるものとして分析するようになってきた.このような分析に違和感を抱く経済学者はほとんどいないはずである.つまり,集団の選択も可能な限りで,個人の意思決定から説明しようとすることは,自然に受け入れられる原則だったのである.

 方法論的個人主義の限界

  おそらく20世紀社会科学は,方法論的個人主義という視点を持つことで,それまでは見逃されてきた多くの現象の説明で,大きな成功をおさめてきたということができるだろう.方法論的個人主義と対置される,集団がそれ自身で目的をもっているという考え方はある意味で非常に直観的であり,われわれはそうした発想の誘惑に勝てないこともしばしばである.「生物の集団は集団として自然選択のプロセスに服している」と考える進化生物学における「集団選択(group selection)」の理論もまた,基本的に同様の発想に基づくものである.しかし,「囚人のジレンマ・ゲーム」が明確に示しているように,集団的利益とその集団を構成する個々人の利益が食い違うという現象はわれわれの身の回りに頻繁に発生している.囚人のジレンマでは,2人のプレーヤーが「協力」することが集団的には望ましいものの,各自が自己利益によって意思決定するために,お互いに裏切るという悪い結果に陥りうることが非常にわかりやすく説明されている.リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』の中で,こうした観点から集団選択の理論を手厳しく批判した.

 社会科学者にもっともよく知られている例をもう1つ例示するならば,マンサー・オルソンの『集合的行為の理論』を挙げることができるだろう.同書のアプローチの根幹をなしているのは,利益集団の集団としての利益が必ずしも,その構成員の自己利益と一致しないという視点であり,あくまでも行動を選択するのは個人であるという方法論的個人主義が採用されている.オルソンはこの観点から,集団規模が公共財の供給といった集団内の個人的行動にどのような影響を与えるのかを分析した.そのより広い文脈は,経済学においては公共財供給問題として知られているものである.そこでは,他の人々が集団的に望ましいことをやってくれる限り,自分は利己的に振る舞うということを意味するフリーライダーという言葉は,今日,不可欠な用語となっている.

図2.2(3)表3.1:囚人のジレンマ

 しかしながら,社会科学の方法としての方法論的個人主義にはそれ固有の限界がある.たとえば人口転換という現象である.20世紀の半ばには,2100年に世界人口が200億を超えるかもしれないとの観測がなされ,「人口危機」が叫ばれていたが,今日,世界中の大半の地域で出生率が低下していることはよく知られている.人口転換とは,多産多死から多産少子を経て,少産少子へと至るプロセスのことをいうが,今日世界は少産少死の後半に入っているといわれている.その要因を方法論的個人主義によって,個々人の合理的行為によって説明することは可能だろうか.

 おそらく不可能ではないだろう.世界中の母親(あるいは出産の意思決定に影響を与える人)にたずねて見るならば,子供の出産という意思決定に作用している「信念」と「選好」があぶり出される可能性があるし,経済状況がその意思決定に与える影響についての計量分析も可能である.しかし,教育水準の向上,都市化の進展等々のように,意思決定者に意識されないような要因もまた,このプロセスの理解にとっては同様に重要である.後の回で詳細に述べることになるが,行動経済学では人間の潜在意識のレベルで機能するバイアスが生み出す行動も対象とされる.志向性に基づく説明が不可能だからといって,それが意味を持たないということは出来ないのである.

 かなり多くの論点を述べてしまったので,最後にまとめておきたい.

 20世紀に主流であった新古典派経済学では,合理的な個人の意思決定を理論的出発点として,社会現象を説明しようとする戦略が採用されている.方法論的個人主義である.ここで合理的な個人という場合に意味されているのは,信念と選好という2つの志向的状態だけを考え,それらを組み合わせることで合理的行為を選択する個人という描像である.また,道具的合理性には帰結主義と選好の非認知主義という2つの側面があることも述べた.

 このように新古典派経済学は,いくつかの「あれかこれか」で一方の側に方法論的にコミットしているわけだが,そのどの1つをとっても,反論が可能であることは容易に理解できるだろう.実際,20世紀後半に立ち上がってきた人間科学・社会科学の新しい潮流は,このようなコミットメントに対する挑戦とみなすことができるのである.次回は,これまで述べてきたような経済学の人間像と対比しつつ,20世紀の末になって登場してきた経済学の新たな潮流が明らかにしつつある人間像について述べることにしたい.

 注

[1] フリードリヒ・ハイエクもまた1950年代までは方法論的個人主義を積極的に主張してきたことで知られている.ハイエクの方法論的個人主義は,以下に説明するヴェーバーの方法論的個人主義とは強調点が異なっている.ハイエクの場合,個々人の観点に限界があること,そのために個々人の行為から「意図されざる結果」が生み出されることが強調される.

関連図書

[1]  マックス・ウェーバー(1972),『社会学の根本概念』,岩波文庫.
[2] マンサー・オルソン(1983),『集合行為論:公共財と集団理論』,ミネルヴァ書房.
[3] ハーバート・ギンタス(2011),『ゲーム理論による社会科学の統合』,NTT出版.
[4] ヨーゼフ・シュムペーター(1983),『理論経済学の本質と主要内容』,岩波文庫.
[5] リチャード・ドーキンス(1976),『利己的な遺伝子』,紀伊国屋書店.
[6] ジョセフ・ヒース(2013),『ルールに従う:社会科学の規範理論序説』,NTT出版.
[7]Heath,J.(2011),“Methodological Individualism,” Stanford Encyclopedia of Philosophy, http://plato.stanford.edu/archives/spr2011/entries/methodological-individualism.
[8] Hobbes, T. (1998), Hobbes: On the Citizen (Cambridge Texts in the History of Political Thought) , Cambridge: Cambridge University Press.

文献案内

ヤン・エルスター(1997) 『社会科学の道具箱――合理的選択理論入門』 海野道郎訳、ハーベスト社

エルスター(3)本連載では,筆者自身にとってもっとも馴染み深い新古典派経済学とゲーム理論を例として,20世紀社会科学理論の理論的構造について述べてきた.本書はより広く「合理的選択理論を基礎とする社会科学」一般について,人間の合理的行為を単位として制度や変動を説明する方法論的個人主義の考え方を,経済学以外の例を豊富に引きながら説明している.