[ 連載 ]

社会科学の制度論的転回

第5回 行動経済学の勃興(Ⅰ)

2016年4月4日

syakaigaku201603

 前回は,経済学を始めとする社会科学が,それまでこの研究領域において意味がないものとみなされてきた実験をどのようにして1つの研究手法として取り込むようになったのかということについて見てきた.20世紀後半には,この動きと並行して,人間行動について伝統的経済学とは異なる前提をおく経済学が発展してきた.それが行動経済学である.今回は行動経済学の勃興について論じていくことにしたい.

 1.行動経済学とは何か

   今日では,どこの書店の経済学書の書棚を見ても,行動経済学について書かれた啓蒙書のベストセラーに気づかされないことはない.『予想どおりに不合理:行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』,『不合理だからすべてがうまくいく:行動経済学で「人を動かす」』(ともにダン・アリエリー),『実践行動経済学:健康,富,健康への聡明な選択』(セイラー&サンスティーン),『ファスト&スロー:あなたの意思はどのように決まるか?』(ダニエル・カーネマン),『プライスレス:必ず得する行動経済学の法則』(ウィリアム・パウンドストーン)など,これらの邦訳書のタイトルは非常に魅力的である.そこで共通しているのは,まず人間が不合理であるという日常にありふれた直観に訴えていること,不合理性には一定の法則性があること,そして,その法則性を知るならば,さまざまな場面でその知見を実践できるというイメージである.本連載のテーマは,このような社会科学的人間観の登場が持つ意義を検討し,それが今後の社会制度を構想するうえでどのような意味を持つのか,今後の社会科学はどのような方向に発展していくのかということであったことを想起しておきたい.

 このために行動経済学とは何かを暫定的に定義しておくところから始めよう.手元にある日本人の手で書かれた行動経済学の教科書,大垣・田中(2014)はその冒頭部分で,行動経済学を「利己的で合理的な経済人の仮定を置かない経済学」と定義している.もちろん,この定義の背後には,それまでの経済学が逆に利己的で合理的な経済人の仮定を置いて理論化を行ってきたという前提の了解が存在している.

 すでに本連載でも述べたことだが,「行動(behavior)」という言葉の意味にも注意しておきたい.もともとbehaveという言葉はその形を見れば直ちに推測できるように,持つことに関係しており,再帰代名詞とともに「自己を持する」を意味していた.これが一般的に人間の行為一般を包括的に意味するようになり,動物の行動すら意味するようになったのは,20世紀初頭のアメリカである(Heukelom 2014).1920年代から1930年代にアメリカで勃興した心理学の一大運動である「行動主義」という言葉にはすでにこのような意味が込められている.これに対して「行為(act)」という言葉はより古くから人間が行うこととして用いられてきたといえるが,今日では行動という言葉との対比によって,人間行動の中でもより意識的・志向的な部分を指示するようになっている.この対比は,道具的に合理的な経済主体を想定する新古典派経済学と,その仮定に縛られることなく人間の実際の行動に焦点を当てる行動経済学との対比に対応しているのである.

 再度Heukelom(2014)によるならば,「行動経済学」という言葉が最初に一般的に用いられるようになったのは1940年代のミシガン大学社会研究研究所であるが,研究者によってその言葉に込められた意味はバラバラであった.今日われわれが理解しているような意味での行動経済学は,ダニエル・カーネマン,リチャード・セイラー,エリック・ワナーらが経済学の内部に意識的に既存の経済学とは異なる経済学を立ち上げようとしたことに由来しているのである.

 2.行動経済学の主な内容

  前回述べたように,行動経済学を開拓してきたカーネマンはもともと心理学者であるが,2002年にノーベル賞を受賞している(長年共同研究してきたトヴァースキは1996年に亡くなっている).今日では行動経済学という領域が経済学の一部として確立していると言ってよいだろう.またそれは,一部の研究者の先端研究領域としてのみならず,ある程度整理された内容が一部の大学の学部でも教えられる学問領域にもなりつつある.そこではどのような内容が教えられているのだろうか.全体を網羅することを意図せずに,主要な内容をリストアップすると,以下のようなことになる.

1.ヒューリスティクスとバイアスの理論

2.プロスペクト理論

3.異時点間の選択と双曲割引の理論

4.心の二重過程理論

5.社会的選好の理論

  以下,1から4のそれぞれについて簡単に解説しておきたい.詳細については前述の大垣・田中(2014)等を参照していただきたい.

 2.1 ヒューリスティクスとバイアス

 「ヒューリスティクスとバイアスの理論」はカーネマンとトヴァースキが発展させてきた理論である.この理論が取り上げているのは,主として不確実性の下での意思決定の状況である.彼らによれば,不確実性のある場合など,複雑な意思決定のタスクに直面したときに,人間はいくつかのヒューリスティックな原則を用いて問題を単純化するのである.その際に用いられているヒューリスティクスの数は原理的には限定されていないが,よく引用されるものとしては,代表性(representativeness),利用可能性(availability),アンカリング(anchoring)がある.

 代表性は,何か(誰か)がある種類に属している可能性の大きさを判断する状況にかかわるものである.人はこの可能性(確率)の大きさを,それがその種類の代表的なイメージに合致している程度で置き換えて判断してしまう傾向性を持っている.これが代表性ヒューリスティクスである.利用可能性とは,ある事象が起こる確率の大きさを,それがどれほど頭の中で思い浮かべやすいかで判断してしまう傾向性のことである.また,アンカリング効果とは,人間が初期値を修正して判断するときに,判断の結果が初期値(アンカー)に引き摺られてしまうことをいう.

 ハーバート・サイモンもまたヒューリスティックやそれに関連した言葉を用いて人間行動を研究しているが(Simon 1955),サイモンがヒューリスティクスを意思決定のルール・オブ・サムであり,状況に応じ,学習を通して適応可能なものと考えたのに対して,カーネマンとトヴァースキはヒューリスティクスとバイアスは意思決定の状況を扱い可能な仕方で再構成する機能を果たしており,生物学的に規定されていて不変であると考えている.しかし,カーネマンとトヴァースキにとって,このことは人間が必ず不合理な選択をすることを意味しない.最初に意思決定の状況に関するインプットを処理する際に人間が用いるものがヒューリスティクスであり,その後にヒューリスティクスによって得られた判断を推論による判断で置き換える可能性は排除されないのである.このことが後に見るような,二重過程理論の理論構造にも関連している.

 2.2 プロスペクト理論

 「プロスペクト理論」もまたカーネマンとトヴァースキによる理論で,1979年に発表された画期的論文「プロスペクト理論:リスクのもとでの意思決定の分析」で提起されたものである.ここでは,不確実性の下での意思決定の問題が,経済学者にとってより馴染み深い仕方で再定式化されている.

 本連載第2回で,期待効用理論では,合理的な意思決定主体のクジに対する選好は期待効用の大小に反映されることを述べたが,期待効用は,結果に対する効用関数(フォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数)の期待値を(客観的な)確率を用いて計算したものであった.

 第2章クジ

たとえば,図1のようなクジに直面した場合,期待効用理論によれば,経済主体の選好を表現する期待効用は

スライド1

と表現される.

 プロスペクト理論もまた期待値計算に依拠しているのだが,期待効用理論における効用関数は価値関数に置き換えられるとともに,期待値計算に用いられる確率は主観的な歪みを反映した確率ウェイト関数によって表現される.すなわちプロスペクト理論ではこのクジの価値は

スライド2

のように表現される.ここで,確率ウェイト関数は客観的な確率の値を主観的に受け取った結果を反映している.また,価値関数も(1)状況ごとに主観的に設定される参照点からの変化を引数とし,(2)損失に対してより敏感に反応するとともに,(3)損失局面では危険愛好的であるという性質を持っていることが想定されている.

 注意すべきことは,プロスペクト理論の登場によって,それ以前のヒューリスティクスとバイアスの理論が置き換えられたわけではなく,ヒューリスティクスとバイアスの理論を特定の状況において1つのわかりやすい枠組みに落とし込んだものがプロスペクト理論だということである.しかし,このようにして期待効用理論と直接比較可能な仕方で定式化することによって,カーネマンとトヴァースキの理論は経済学者にとって大変受け入れやすいものとなった.1980年代以降,リチャード・セイラーを始めとするファイナンス研究者たちが,金融市場のアノマリーを説明するものとしてカーネマンとトヴァースキの理論を熱烈に受け入れるようになった背景には,この定式化があるといってよいだろう.

 2.3 異時点間の選択と双曲割引

 「異時点間の選択と双曲割引の理論」は,異なる時点で発生する報酬(あるいは損失)が存在するときにどちらを選択するのかという問題である.たとえば今日100万円もらうという選択肢と,1年後に(確実に)100万円もらうという選択肢が与えられた場合にどちらの方を選択するのかという問題を扱うものである.このような選択に直面すれば,たいていの人は今日100万円もらう方を選択するだろう.このことは,人々が1年後の報酬100万円を今日の報酬100万円と比較する場合には100万円と考えるのではなく,価値を割り引いて,たとえば今日の90万円に相当すると考えていると解釈することができる.

 伝統的な経済学では,経済主体は将来の報酬をその将来の時間がどれほど現在と離れているか否かにかかわらず,一定の割合で割り引くと考えてきた.上述した例で1年後の100万円を今日の90万円に相当するように割り引く場合,割引因子が0.9であるという.一定の割合で割り引くというのは,今日と1年後に限らず,1年後と2年後,2年後と3年後の間でも同様の割引因子が成立すると考えることを意味している.このような割引の仕方を指数割引という.

 しかし,心理学者ジョージ・エインズリーによるハトを用いた心理学実験において,割引因子は時間とともに変化し,一定ではないことが立証されてきた.むしろ直近の割引因子の方が将来の割引因子よりも小さいという性質を示す双曲割引の理論が提唱されてきたのである(エインズリー2006).このような心理学研究の影響を受けて,人間の割引の仕方も双曲割引的であることが,ジョージ・ローウェンステインとデイヴィド・レイブソンによって提起されてきたのである.

 双曲割引のモデルを使用すると,人間がしばしば直近の誘惑に弱く,自制心を働かせにくいという事実が説明できるようになる.この問題は長年の間,哲学の文献において,アリストテレスによって提起された「アクラシア(自制心の欠如)」や「意思の弱さ」がどうして発生するのかという問題として論じられてきたものである.双曲割引のモデルによれば,今日の時点で行った意思決定が,時間が経つと変化する(心変わりする)ことが「選好逆転」として説明できる.

たとえば,次の2つの選択状況を考えてみよう.

1) すぐに現金化可能な100万円の小切手と3年後に現金化可能な200万円の小切手

2) 6年後に現金化可能な100万円の小切手と9年後に現金化可能な200万円の小切手

 読者はそれぞれの状況でどちらを選択するだろうか.どちらも2つの選択肢の間に3年間の時間経過があり,遅れて得られる報酬が200万円,その時に得られる報酬が100万円という構造を持っていることに注意して欲しい.双曲割引のモデルを用いると,第1の状況では,現在の100万円の小切手を選択し,第2の状況では9年後の200万円を選択するということが起こりうる.これに対して,指数割引のモデルでは,その時に得られる100万円と3年後に得られる200万円の間の選択という側面のみが抽出される結果,どちらの選択状況でも選択が逆転することはないのである.

 このように時間とともに最適な選択が変化することを経済学では「時間的不整合性(time inconsistency)」と呼び,さまざまな分野で応用されているが,双曲割引の概念を用いることで,それがきわめて自然に説明することができるのである.

 2.4 二重過程理論

  時間的不整合性が発生する状況は,現在の自分と将来の自分という2つの主体が存在して,どちらもが意思決定を支配しようとしている状況としても捉えることができる.このことから,人間の心の中に2つのシステムが存在し,それぞれが結果に影響を与えようとしているという「二重過程理論(dual process theory)」が提案されるようになっていった.このようなアイデアは認知心理学,社会心理学,神経心理学などのさまざまな分野の専門家たちによって提起されてきたものであり,論者によってさまざまに異なる仕方で呼ばれてきた.スタノヴィッチ(2008)にはこれに関連するさまざまな文献リストがよく整理されている.スタノヴィッチは,自動的でヒューリスティクスに基づき,演算能力をあまり要求しない処理システムを「TASS(The Autonomous Set of Systems)」と呼び,直列的で,規則に基づき,しばしば言語を基盤とし,演算能力への負担が大きい処理システムを「分析的システム」と呼んでいる.ここではカーネマンが『ファスト&スロー』で使用している「システム1」と「システム2」という用語を用いて説明することにしたい.それぞれのシステムの特徴は以下のようである.

  • システム1:モジュール化と分散処理,インプットによる駆動,処理が速い,個人差が少ない,進化的に古い
  • システム2:逐次的処理,言語的・論理的,処理が遅い,個人差が大きい,進化的に新しい

 人間の脳内に2つのシステムが存在していると考えることによって,たとえば,多くの被験者が実験室の中でしばしば不合理な選択をしてしまうということが容易に説明できるようになる.何らかの刺激を受けたときに,システム1が先に駆動し,その刺激をヒューリスティクスを用いて処理しようとするのである.ここにバイアスが生じる理由が存在する.このような傾向をもう一つの処理システムであるシステム2が抑えることで,より合理的な判断ができるのである.簡単に言うと,システム1が人間の不合理な部分を表現し,システム2が合理的な部分を表現しているということができるが,カーネマン自身は合理-不合理という言葉は使用せず,システム2は推論(reasoning)を司ると表現する.

  以上のような行動経済学の内容からは,この分野が基本的に一人の意思決定の状況の分析から発生してきたことが理解できるだろう.このことの意味は重要である.こうした「欠陥」は通常,行動経済学の教科書においては「社会的選好の理論」という章を設けることによって補われている.ここで取り上げられているのは,前回の実験経済学のところで触れたように,実験室で観察されるゲーム的状況における経済主体の行動が予測と異なることを行動経済学的にどのように理解すべきなのかというテーマである.このために,経済主体が不平等回避的な選好を持つことや互恵性を重視することなどを取り入れたさまざまな理論が提起されてきた.しかし,本連載は,こうした理論だけでは社会的文脈における人間の意思決定を理解するには不十分であるということをこれから展開していくことになるので,ここでの紹介はこれだけにしておきたい.

(以下(Ⅱ)に続く) 

文献案内

6011ジョージ・エインズリー(2006)『誘惑される意志――人はなぜ自滅的行動をするのか』 
本文中にも述べたが,著者はハトの実験で異時点間の選択を実験し,選好逆転の現象を実験的に証明した最初の人である.本書は,ドラッグ,酒,タバコ,ギャンブル,問題の先送りといった人間の「意志の弱さ」にまつわる諸現象を双曲割引や「複数の自己(multiple self)」の観点から総合的に説明している.