安保法制が施行された。若干遅きに失した感はあるが、憲法と安全保障関連の問題は、今後ますます多くの議論が戦わされることになるだろう。だが、どうしても議論は、集団的自衛権の必要性と、9条の扱い、つまり解釈も含め変えないのか、解釈を大幅に変えるのか、憲法を変えるのか、というあたりに集中してしまう。つまり、中国・北朝鮮の軍事的な脅威にいかに向き合うのかという極めて現実的な問題と、憲法9条の掲げる理念との間で、どのような折り合いをつけていくのかの問題として論じられがちである。
日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって(後略)」とあるが、「恒久平和の念願」と「崇高な理想の深い自覚」は、十分に国民の間に果たされているであろうか。当たり前のこと過ぎて、念願も自覚も形骸化してはいないであろうか。理念の形骸化した法規範がリアリズムに巻き込まれれば、結局は、法規範が現実を肯定し、あるいは追認するものに堕ちてしまう。そんな危険性に慄然とするこの頃の論調である。
言うまでもないが、この領域は私法の領域ではない。つまり、現実や慣習が法になる世界ではない。むしろ、規範が現実を作っていかなければならない領域である。戦争放棄の規範があればこそ、武力によらない国際問題の解決への努力を基調にする現実が作り出されてきたというものである。憲法とのかかわりで言えば、形式的な意味で最高法規としての価値は指摘もされるし論じられもする。しかし、憲法が最高法規であることを支える実質的価値のレベルで何が目指されているのか、このことが見極められてはじめて現実を作り出す法規範にもなりうる。
本論では、これまであえて論じられていない感さえある実質的価値の部分について、イスラーム法の構造から見落とされがちな視点を提供しておきたいと思う。
法と道徳の対立を包み込むイスラーム法
唐突ではあるが、対人関係のいざこざについて解決を考えたとき、第3者に仲介してもらうと有効に解決が導かれることが多いのはご承知のとおりである。裁判所に間に入ってもらうというのは典型的なケースと言える。そのときは、共通のルールに従ってもらうというのが当然の前提となる。
国際問題の場合、厄介なのは、裁判所にあたるものがとにかく脆弱だということ。国連にしても大国にしても、公平で実効性のある仲介者にはなったことがない。よく言われることではあるが、国連とは戦勝国の連合である。あるいは、G7にしても経済的な「勝ち組」の集まりである。強者・勝者に分からないのが敗者・弱者の気持ちだ。結局、共通のルールが想定できず、それぞれの当事者の国益が大きな影を落としてしまう。
憲法の最高法規性を保ちながら、各国が同意できる法秩序を形成するためにはどうしたらよいのか。一つひとつが最高の憲法なのだから、普通であれば最高のもの同士は並び立たない。であるとするならば、そうした最高性を超越する根本的な規範を想定してみる。そうすれば、憲法の最高法規性はその根本規範に則していることによって支えられる。
しかしながら、圧倒的な価値相対主義の世界では、人類全体をカバーするような「べき論」は存在しない。もちろん、ある特定の民族なり階層なりの優越性によって、世界は支配されて然るべきというような「べき論」は御免だ。しかしその一方で、価値の相対性を徹底してしまうと、結局は弱者の価値観は体よく踏みにじられ、強者と勝者の理屈が全面化する。しかもその根本規範までもが、ただ憲法の最高法規性を無条件に裏書きするものと位置づけられ、そのことによって普遍的だとされてしまうと、強者と勝者の独善にはいよいよ手がつけられない。
しかしながら、核兵器であれ、原子力発電所であれ、気候変動であれ、地殻変動であれ、感染症であれ、全人類が一致して立ち向かわなければ対応の難しい問題を突きつけられている今、「法規範と道徳規範は別物であり、いずれもその価値は相対的である。だが、法に関しては「普遍性」を付与するためだけの根本規範が想定しうる」としただけで十分であろうか。
一方に、壁に手をかけている者がいたら泥棒に違いないから殺して構わない、という自分たちの権利を守るためならば疑わしきも罰するという法的な強者の理屈。他方に、右のほほを殴られたのならば左のほほを出してやれという道徳的強者の理屈。ここで考えなければならないのは、どちらを取るかではなく、両方を包み込んでくれるような考えの提示である。
つまり、求められるべきは、徹底して法実証主義的なユダヤ的立場と、これもまた徹底して道徳的なキリスト教的立場とを止揚する位置にあるイスラームだということになる。法をとるか、道徳をとるかの議論を重ねても、選民思想的な考えで特定の人々の現世的な価値を優先するのか、それとも現世に背を向けて困難に置かれていることに悲嘆し、ただひたすらに救いを求め続けるのかの選択にしかならない。
この二つの選択肢の間の往復運動に世界が巻き込まれているとするのは言い過ぎかもしれない。しかしながら、この二つしか選択肢がなければ、結局は、現世に強い関心のあるごく一部の少数者が、来世の救いにすがろうとする大多数の人間たちに対する支配を加速化させるだけである。
そこで求められるのが、この二つの対立を包み込み、かつ現実を然るべき方向に変えていけるような社会規範のありようである。すべての人々に開かれていて、しかも、法と道徳の間に乖離がなく、一つの体系の中に納まるような広い意味での法体系。それがイスラーム法である。
アッラーの意図とは?
イスラーム法とは、すべての人々のみならず、この世もあの世も含めたあらゆる存在を創造し続ける、全知全能の創造主アッラーを立法者の位置に置く法体系である。アッラーは真理によってこの世を創造しているのであり、森羅万象が従う節理と同じような意味ですべての人間たちが従うべき節理があるという考えをとる。
この教えは誰を拒否することもない。法と道徳の違いは、この世で罰せられるか、あの世で罰せられるかという違いであるが、根本はアッラーの教えであるため、両者が矛盾・対立することはない。アッラーは時代と場所を超えて存在する。しかも法に限らず、道徳に限らず、人間も自然もすべてを創り出しているのだから、そしてその摂理を「法」と呼んだならば、この法はそもそも存在することになる。それは先験的で超越的だ。
その根本的なルールが下されているのが、クルアーンという聖典である。アッラーの存在が時空を超え常にあり続けるのと同様で、アッラーの書たるクルアーンもまた時空を超え、この世の終わりまで決して失われることはない。イスラーム法では、このクルアーンと、アッラーの御使いムハンマドの言行(スンナ)が不易不動の法源をなす。
このクルアーンとスンナに記されているルールと、その二つから人間が解釈によって引き出したルールとからなる法体系がシャリーアである。したがって、そこには啓示が直接的に命じる部分と、人間が時代や場所や状況の中で解釈した部分がある。この人間の側が行う解釈による法発見の努力をイジュティハードという。
イスラーム法は、このイジュティハードの存在によって、つねに現実に即しつつも、同時に現実をアッラーの大きな意図のもとに方向づけることができる。アッラーの意図のもとに、というとまさに宗教じみて聞こえてしまうが、アッラーの意図とは全人類をこの世でもあの世でも幸せにすることにあり、したがって、クルアーンとスンナとイジュティハードからなる法体系(シャリーア)は、全人類が幸せになるよう現実を方向づけることになる。
このとき、ムスリムが大多数を占める各国の憲法はどこに位置づけられるのか。それらは必ずしもイスラーム法を直接的な法源として成立したものではないので、クルアーンやスンナの下部的な法規範とすることには若干無理がある。しかし、クルアーンやスンナの存在を否定するのかといえばそれも違う。中東諸国の大抵の憲法には、イスラーム法を究極的な法源とする旨の規定を見出すことができる。実定法がカバーしきれない問題については、イスラーム法がその判断の根拠となるというのである。
また、民法などの実定法については、各国の民法典編纂がイジュティハードの一つとして数え上げられることもあって、その場合ではより明確に、上位規範、あるいは判断の根拠を与えるものとしてのクルアーンとスンナが位置づけられる。実定法はクルアーンやスンナの下部的な構造として、時代や場所や状況による制約の中から引き出された法規群として位置づけられるのである。
最高法規とされる憲法であるが、クルアーンやスンナを変更するような規定が置かれることはない。最高法規とは、人間が国家・社会のために作った法としては、最高の地位を占めうるが、アッラーの有する二つの法の根拠から比べれば、時代や状況とともに変化を余儀なくされる法にすぎないのである。その意味においては、憲法といえども必ず改正されることにはなるのだが、そうであるとするならばなおさら、改正が改悪にならないためにも、何を目指しているのか、その改正を支える価値なり方向性は何なのかを十分に検討しなければならない。【次ページにつづく】
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— Synodos / シノドス (@synodos) 2016年4月29日
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