2013年の初冬。
母が若年性認知症のひとつ『前頭側頭型認知症(ピック病)』だと診断されました。
更に2015年、突然の介護でてんやわんやしていた私自身が『ADHD』だったと発覚!
私がADHDだと診断されてからは、それまでと母との接し方が変わりました。
けれども母の病気は待つことなく、常に進行していきます。
今回は、母と母を取り巻く環境の変化について触れたいと思います。
母の一人暮らしが限界に
一人暮らしの母。
ピック病を発症してからは、ヘルパーさん方の力を借りて生活を整えつつ、
私が母のところへ通う形で1年と数ヶ月、介護を続けてきました。
しかし、母の病気が進むことで状況は常に変わります。
母は食事やトイレ等の問題から、一人暮らしの継続が難しくなりました。
誰かが母と同居して介護をするのか、施設で生活してもらうのか、
考えなければいけない時期にきたのです。
ですが、私にはどうしても同居という選択肢が選べませんでした。
育児や仕事の上に、更に介護を同時進行させるのは無理だと感じ、
母に合う施設を探して入ってもらうことを考えたのです。
結果として、弟夫婦が帰ってきて母と同居をするという話に落ち着きました。
環境が変わるということ
「ご本人の環境をできるだけ変えないよう心掛けてください。」
急激な変化はストレスとなり、ピック病の症状が進む原因になるとのこと。
以前、母の主治医にそう言われたことを私は再度思い出します。
2015年の春。
弟夫婦は介護での同居に際し、家の家財道具や物品の整理をはじめました。
かなり大量に捨てスッキリすると同時に、物が一気になくなったのです。
弟は、“全て母に了承を得て、捨てている” と私に言いました。
母は弟に言えなかったのか、私の顔を見て「捨てられた…。」とこぼしたのでした。
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その日からでしょうか?
広くなった部屋で意欲を失い、しょんぼりと椅子に座っている母の姿が
強く印象に残りました。
母の体の異変
2015年の秋のある朝、母がなかなか起きてこなかったそうです。
寝室への声掛けに返事はあるのですが、一向に起きてくる気配がない…と。
弟夫婦は母が起きてこないことを不思議に思い、寝室に入ります。
目は覚ましているもののベッドに横になった状態の母。
起こそうと母の体に触った時にはじめて、“体の筋肉が硬直して曲がらない”
ことに気がついたそうです。
そういえば、母の体の変化には私も思い当たるふしがありました。
- 法事の際、正座ができず小さな椅子に座っていた
- 体が真っ直ぐにならずに、支えられていたこともあった
- 足が上がらないことで歩幅が極端に小さくなっていた
春からわずか半年で、母は自力でベッドから起き上がれなくなりました。
入院、そして…!?
2015年の年の瀬、弟から母の入院の連絡を受けました。
体の機能を維持回復させるため、リハビリ入院を勧められたとのこと。
母はピック病が進行することで、パーキンソン症候群*1も併発していたのです。
入院からしばらく経ってお見舞いに行った私が目にしたのは、
“元気に歩いている母の姿”…でした!
“他の人と一緒に生活をすることで、きちんとしなければ
という意識が働いたのかも!?”
周りにそう聞いて、なんとも母らしいと思いました(笑)
ピック病は病状が進むと、最後は寝たきりになるそうです。
実際に自力で動けなくなった母を見た時はピック病の進行を感じました。
ただ、母はそこから驚きの復活を遂げたのです。
母の幸せとは?
母の入院中、弟夫婦と話し合いをしました。
もしかすると母はこのまま家に帰るより、他の人と一緒に生活をする環境の方が
楽しく元気に暮らせるのではないか?と。
それから、弟夫婦は母に合いそうな施設探しを始めます。
色々な施設を回った結果、母が好みそうな大きな公園のそばに建つ、
環境のいい施設を見つけました。
今の母には穏やかな暮らしよりも、新鮮で刺激のある暮らしの方が
向いていると考えています。
それは、母がまだ60代と若いことに加え、人と話をすることが大好きだからです。
今現在、母は新しい生活の元、リハビリに励みにながら生き生きと過ごしています。
母の話については一旦終わりますが、またそのうち触れたいと思います。
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