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田中俊明氏の「継体大王と武寧王」の講演を聞く
今日(4月26日)、橿原考古学研究所主催の春季特別展「継体大王とヤマト」に関連する講演会に出掛けた。
講演は1時開始。開場は12時。念の為に、11時30分過ぎに会場に到着した、が駐車場は既に何処も満車であった。
やむなく橿原神宮駅前まで車を置きに戻り、今度は徒歩にて11時45分に到着。
講演開始1時間以上前にも拘らず、既に道路にまで人々があふれていた。
私が知る限りでは、最多の講演会参加者であった。
「何かあったのか?」 といぶかる程の、異様な人気ぶりである。
継体大王人気なのか、講演者の人気なのかは分らない。
列に並んだ隣の人の見解は、「今、新しい指導者の登場を欲しているのでは」、だった。
今日の講演者は、今回の特別展の企画を担当した坂氏と、ゲストの田中氏であった。
坂 靖 (橿考研総括学芸員) 「継体大王とヤマト」
田中俊明 (滋賀県立大学教授) 「継体大王と武寧王」
来場者の多さに終始顔が緩んでいた、坂氏。
しかし悪い予感どおりに、講演の開始が遅れた。
想定以上の人の多さで、椅子の追加手配に手間取ったのである。
玄関前に並んでいる異様な人の数をみて、なぜ開場を30分でも早めなかったのだろうか・・・疑問である。
定刻より15分ほど遅れて、坂氏の講演が始まった。
講演終了時間が決まっているので、坂氏の持ち時間を短縮しなければならない。
時間を気にしながら、所どころ話を端折っていかなければならない。
その為か、論旨が少し判りづらい話し方であった。
私の期待は、田中俊明氏であった。
私にとって「伽耶」を考える時には、絶対に外すことが出来ない人物である。
『大加耶連盟の興亡と「任那」-加耶琴だけが残ったー』(吉川弘文館:1992年8月20日)の著者である。
韓国の地図を横に見ながらの読書になる。地名だけでも原音で読みたい。
その為、ハングルの読み方の本まで買ってしまった。
韓国語は分らないが、ハングルだけでも読めるようになりたい・・・そう思わせる好著である。
田中氏の今日の講演のメインは、継体大王よりも〈武寧王〉であった。
百済の昆支王が兄の蓋鹵王の人質(?)として、家族ともども倭国に赴く。
その途次、兄から譲り受けた婦人が九州の各羅島で出産する。
それが斯麻王・・・島で生まれた故に嶋王と名付けられた。
生後すぐに百済に送り返され、後に百済の第25代国王になった武寧王である。
・・・私は『日本書紀』を読んで、そう理解していた。
だから今日の田中氏の、次の様な発言には・・・驚いた。
「武寧王は、蓋鹵王の子供ではなく昆支王の子供であり、即位近くまで、倭国にとどまっていた可能性がある。」
耳を疑った・・・私には、初めて聞く話である。
武寧王の誕生は461年(雄略5年)であり、即位は501年(武烈3年)であるから、40歳位まで倭国にいたことになる。
田中氏がレジュメに載せていた武寧王の推定系譜をあげておく。(赤と青文字は、私の忘備用の為の記入である)
この推定論証も、興味深い話の連続であった。

百済王家の推定系譜
武寧王が即位する直前まで倭国に居たとしたら・・・これは私にとって「金の卵」になるかもしれない!
私の中でずっと疑問だった2つの問題に、少し明かりが見えてくる。
【1つ目】は、475年に高句麗の侵攻により百済の漢城が陥落する時の話である。
『日本書紀』が引く『百済記』に、「蓋鹵王の乙卯年(475)の冬に、狛の大軍、来りて、大城を攻むること七日七夜。王城陥れて、遂に尉禮を失ふ。国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ。」とあり、なぜ15歳になっていた斯麻王だけが生き延びたのか、それが不思議だった。
『三国史記』の『百済本紀』によれば、漢城から逃亡した蓋鹵王を捕らえたのは、百済を追われ高句麗に亡命した百済出身の将軍達であった。つまり彼等によって、まごうことなく首実検が行われたのである。
「国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ」なら、斯麻王も殺されたはずである。
斯麻王が後世まで生き延びていた事実は、この時まだ、昆支王一家と伴に倭国に留まっていた可能性を示す。
【2つ目】は、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に書かれた「斯麻」の文字の話である。
癸未年八月曰十大王年男(孚)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百
桿所此竟
(癸未の年八月、曰十大王の年、男(孚)弟王、意柴沙加宮に在す時、斯麻、長く奉えんと念い、開中費直・穢人
今州利の二人の尊を遣して白す所なり。同二百桿を上め、此の竟を作る所なり)
この癸未年を503年とし、文中の「斯麻」を百済国王の「斯麻王」と見做し、意柴沙加宮(忍坂宮)に居る「男(孚)弟王」を「男大迹王」、つまり即位前の継体大王と見做す説が、俄然、重要な意味帯びてくる・・・その話である。
43歳の百済国王が54歳の男大迹王に銅鏡を貢上するということは、それ以前から二人は知己の間柄にあったことが推察されるからである。国王が国王に銅鏡を貢上するのとは、訳が違うのである。
その関係は、斯麻王が倭国に長らく留まっていた間に培われたものではないのだろうか。
それはまた、継体大王が大王に擁立される以前から、大和の王宮に上番していた可能性を物語るものではないのか。
武寧王と継体大王の関係を解り易くする為に、簡単な図表を試みに作ってみた。

武寧王と継体天皇の間に、雄略天皇を書き込んでみた。(以後は、大王の表記を天皇にもどす。)
武寧王と継体天皇に関連して、蘇我稲目を書き込んでみた。
この図を眺めていると、興味深い〈妄想〉が沢山湧いてくる。
・・・至福の1ヶ月であった。
田中氏が講演の中で言及した、水谷千秋氏の著書『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文春新書:2013年7月20日)を読むことが出来た。
私は迂闊にも、未読であった。
250ページ足らずの新書を読むのに、舌なめずりしながら5日もかけた。
水谷氏の既に出版されている文春新書の3冊『謎の大王 継体天皇』(2001年9月20日)・『謎の豪族 蘇我氏』(2006年3月20日)・『謎の渡来人 秦氏』(2009年12月20日)よりも格段に面白い(内容も遥かに良くなっている)、刺激を受ける好著だった。
そして3月16日には、両槻会主催の例会『蘇我氏の奥津城 (蘇我四代の墓を考える)』に参加して、飛鳥の該当古墳を廻ってきた。
翌17日には、再び橿原考古学研究所主催の講演会に出席した。
赤塚 次郎 (NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長) 「尾張連氏と断夫山古墳」
宮崎 康雄 (高槻市教育委員会) 「継体大王と今城塚古墳」
どちらも面白く、興味深い講演内容だった。
赤塚氏は初見であったが、酒脱な話し方が気に入った・・・ファンが多い訳だ。
「さて尾張平野の新参者、尾張氏は何処から移住して来たのか?」講演会から持ち帰った重い宿題である。
一方、枚方市は仕事の関係で何度も訪れたが、淀川を渡った高槻市には一度も脚を延ばしたことがない。
宮崎氏推薦の今城塚古墳、早く見に行くべし。自戒である。
私は蘇我氏渡来人説を支持する。
学生時代に読んだ門脇禎二氏の「木満致=蘇我満智説」に衝撃を覚え、未だ〈はずれ〉の感覚を持ったことが無い。
大和の曽我出身の新興氏族などとは、決して考えない。
そんなことで蘇我氏の台頭を説明出来るとは、到底思えない。
蘇我稲目は、木満致の孫である木高麗(日本名が馬背である)と葛城氏の娘の間の子供である、と私は考えている。
この視点から、「継体大王と武寧王」の関係を考えてみたい。
この1ヶ月の間に浮かんだ妄想を、書いてみたい。
今年は幸運にも、5月15日から毎日、ホトトギスの声を家から聴いている。
畝傍山でも橿原神宮神苑でも鳴いている。
「テッペン、カケタカ」・・・鳥の期待に応えて、天辺を書いてみたい。
講演は1時開始。開場は12時。念の為に、11時30分過ぎに会場に到着した、が駐車場は既に何処も満車であった。
やむなく橿原神宮駅前まで車を置きに戻り、今度は徒歩にて11時45分に到着。
講演開始1時間以上前にも拘らず、既に道路にまで人々があふれていた。
私が知る限りでは、最多の講演会参加者であった。
「何かあったのか?」 といぶかる程の、異様な人気ぶりである。
継体大王人気なのか、講演者の人気なのかは分らない。
列に並んだ隣の人の見解は、「今、新しい指導者の登場を欲しているのでは」、だった。
今日の講演者は、今回の特別展の企画を担当した坂氏と、ゲストの田中氏であった。
坂 靖 (橿考研総括学芸員) 「継体大王とヤマト」
田中俊明 (滋賀県立大学教授) 「継体大王と武寧王」
来場者の多さに終始顔が緩んでいた、坂氏。
しかし悪い予感どおりに、講演の開始が遅れた。
想定以上の人の多さで、椅子の追加手配に手間取ったのである。
玄関前に並んでいる異様な人の数をみて、なぜ開場を30分でも早めなかったのだろうか・・・疑問である。
定刻より15分ほど遅れて、坂氏の講演が始まった。
講演終了時間が決まっているので、坂氏の持ち時間を短縮しなければならない。
時間を気にしながら、所どころ話を端折っていかなければならない。
その為か、論旨が少し判りづらい話し方であった。
私の期待は、田中俊明氏であった。
私にとって「伽耶」を考える時には、絶対に外すことが出来ない人物である。
『大加耶連盟の興亡と「任那」-加耶琴だけが残ったー』(吉川弘文館:1992年8月20日)の著者である。
韓国の地図を横に見ながらの読書になる。地名だけでも原音で読みたい。
その為、ハングルの読み方の本まで買ってしまった。
韓国語は分らないが、ハングルだけでも読めるようになりたい・・・そう思わせる好著である。
田中氏の今日の講演のメインは、継体大王よりも〈武寧王〉であった。
百済の昆支王が兄の蓋鹵王の人質(?)として、家族ともども倭国に赴く。
その途次、兄から譲り受けた婦人が九州の各羅島で出産する。
それが斯麻王・・・島で生まれた故に嶋王と名付けられた。
生後すぐに百済に送り返され、後に百済の第25代国王になった武寧王である。
・・・私は『日本書紀』を読んで、そう理解していた。
だから今日の田中氏の、次の様な発言には・・・驚いた。
「武寧王は、蓋鹵王の子供ではなく昆支王の子供であり、即位近くまで、倭国にとどまっていた可能性がある。」
耳を疑った・・・私には、初めて聞く話である。
武寧王の誕生は461年(雄略5年)であり、即位は501年(武烈3年)であるから、40歳位まで倭国にいたことになる。
田中氏がレジュメに載せていた武寧王の推定系譜をあげておく。(赤と青文字は、私の忘備用の為の記入である)
この推定論証も、興味深い話の連続であった。
百済王家の推定系譜
武寧王が即位する直前まで倭国に居たとしたら・・・これは私にとって「金の卵」になるかもしれない!
私の中でずっと疑問だった2つの問題に、少し明かりが見えてくる。
【1つ目】は、475年に高句麗の侵攻により百済の漢城が陥落する時の話である。
『日本書紀』が引く『百済記』に、「蓋鹵王の乙卯年(475)の冬に、狛の大軍、来りて、大城を攻むること七日七夜。王城陥れて、遂に尉禮を失ふ。国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ。」とあり、なぜ15歳になっていた斯麻王だけが生き延びたのか、それが不思議だった。
『三国史記』の『百済本紀』によれば、漢城から逃亡した蓋鹵王を捕らえたのは、百済を追われ高句麗に亡命した百済出身の将軍達であった。つまり彼等によって、まごうことなく首実検が行われたのである。
「国王及び大后・王子等、皆敵の手に没ぬといふ」なら、斯麻王も殺されたはずである。
斯麻王が後世まで生き延びていた事実は、この時まだ、昆支王一家と伴に倭国に留まっていた可能性を示す。
【2つ目】は、隅田八幡宮人物画像鏡の銘文に書かれた「斯麻」の文字の話である。
癸未年八月曰十大王年男(孚)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百
桿所此竟
(癸未の年八月、曰十大王の年、男(孚)弟王、意柴沙加宮に在す時、斯麻、長く奉えんと念い、開中費直・穢人
今州利の二人の尊を遣して白す所なり。同二百桿を上め、此の竟を作る所なり)
この癸未年を503年とし、文中の「斯麻」を百済国王の「斯麻王」と見做し、意柴沙加宮(忍坂宮)に居る「男(孚)弟王」を「男大迹王」、つまり即位前の継体大王と見做す説が、俄然、重要な意味帯びてくる・・・その話である。
43歳の百済国王が54歳の男大迹王に銅鏡を貢上するということは、それ以前から二人は知己の間柄にあったことが推察されるからである。国王が国王に銅鏡を貢上するのとは、訳が違うのである。
その関係は、斯麻王が倭国に長らく留まっていた間に培われたものではないのだろうか。
それはまた、継体大王が大王に擁立される以前から、大和の王宮に上番していた可能性を物語るものではないのか。
武寧王と継体大王の関係を解り易くする為に、簡単な図表を試みに作ってみた。
武寧王と継体天皇の間に、雄略天皇を書き込んでみた。(以後は、大王の表記を天皇にもどす。)
武寧王と継体天皇に関連して、蘇我稲目を書き込んでみた。
この図を眺めていると、興味深い〈妄想〉が沢山湧いてくる。
・・・至福の1ヶ月であった。
田中氏が講演の中で言及した、水谷千秋氏の著書『継体天皇と朝鮮半島の謎』(文春新書:2013年7月20日)を読むことが出来た。
私は迂闊にも、未読であった。
250ページ足らずの新書を読むのに、舌なめずりしながら5日もかけた。
水谷氏の既に出版されている文春新書の3冊『謎の大王 継体天皇』(2001年9月20日)・『謎の豪族 蘇我氏』(2006年3月20日)・『謎の渡来人 秦氏』(2009年12月20日)よりも格段に面白い(内容も遥かに良くなっている)、刺激を受ける好著だった。
そして3月16日には、両槻会主催の例会『蘇我氏の奥津城 (蘇我四代の墓を考える)』に参加して、飛鳥の該当古墳を廻ってきた。
翌17日には、再び橿原考古学研究所主催の講演会に出席した。
赤塚 次郎 (NPO法人古代邇波の里・文化遺産ネットワーク理事長) 「尾張連氏と断夫山古墳」
宮崎 康雄 (高槻市教育委員会) 「継体大王と今城塚古墳」
どちらも面白く、興味深い講演内容だった。
赤塚氏は初見であったが、酒脱な話し方が気に入った・・・ファンが多い訳だ。
「さて尾張平野の新参者、尾張氏は何処から移住して来たのか?」講演会から持ち帰った重い宿題である。
一方、枚方市は仕事の関係で何度も訪れたが、淀川を渡った高槻市には一度も脚を延ばしたことがない。
宮崎氏推薦の今城塚古墳、早く見に行くべし。自戒である。
私は蘇我氏渡来人説を支持する。
学生時代に読んだ門脇禎二氏の「木満致=蘇我満智説」に衝撃を覚え、未だ〈はずれ〉の感覚を持ったことが無い。
大和の曽我出身の新興氏族などとは、決して考えない。
そんなことで蘇我氏の台頭を説明出来るとは、到底思えない。
蘇我稲目は、木満致の孫である木高麗(日本名が馬背である)と葛城氏の娘の間の子供である、と私は考えている。
この視点から、「継体大王と武寧王」の関係を考えてみたい。
この1ヶ月の間に浮かんだ妄想を、書いてみたい。
今年は幸運にも、5月15日から毎日、ホトトギスの声を家から聴いている。
畝傍山でも橿原神宮神苑でも鳴いている。
「テッペン、カケタカ」・・・鳥の期待に応えて、天辺を書いてみたい。
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