夫ががんの告知を受けたことを伝えて、いろいろな反応があった。大勢の方から強められ、勇気づけられる言葉をいただいて感謝している。その一方で他意なくかけられた言葉で文字通り足が震えるほどショックを受けたり、寝入りばなに泣きだしてしまったり、その場は平気なつもりだったけれどあとから便器を鮮血で染めて動揺を知った言葉もあった。
それらの多くは判で押したように似通っており、ありふれている。少し考えたらこういった言葉は助けにもなるより気落ちの原因になることはすぐにわかる。けれども声をかける方も混乱しているから、ふつうだったらいわないようなことをいってしまうのだと思う。
わたしも自分がこうなってみるまである種の言葉がどれほど病人と看護している家族にダメージを与えるかわからなかった。がんに限らず怪我や病気、難病奇病をえた人やその家族が、こういったショックを受けることが少しでも減ってほしい。
以下は特定の誰かの言葉というわけではない。また声をかけてくださった方の多くは、これまで常日頃から何かとわたしたち夫婦を気遣ってくださり、ご親切を行動で示してくださった。わたしたちの状況や気持ちを軽く考えて出た言葉ではないことは疑いようもない。これを読んで自分のことだと思う方がおられたら、どうか気を悪くしないでいただきたい。
共感しているつもりで悲劇を予言する
「友人もがんで亡くなりました…」
「自分も親が(祖父母が、恩師が、上司が)がんで…結局助からなくて」
「身内をがんで亡くした」「知り合いががんで苦しんだ」という人は多い。問題は「誰それ『も』死んだ」と語ることで闘病している人を死者と同列に語ること。これは共感と理解を示しているつもりで「あなたもがんで死ぬ」と悲観的な未来を予言しているのだ。*1
告知を受けた直後のこれといった自覚症状がない段階でも「いついつの今ごろはまだ元気だったのにあっという間で…」と劇的な悪化を予言して身も世もなく嘆く人もいる。とはいえ同情心から出た言葉だから「いっしょにしないでくださいよ!」とはなかなかいえない。
こういう人はかつて自分が舐めた辛酸による傷が癒えていないことも多く、そのまま自分の苦労語りをはじめて怒ったり泣き出したり、医師に対する不信感や不満を繰り返したりしはじめ、いよいよ不安を煽る。聞かされる側は感情的なケアを要求されているように感じて自分の気持ちを話すどころではない。
このエントリ(https://t.co/efcm6Fih6f)を読んで、病気のときに受けてしんどかった(あくまで善意の)お見舞いのことを思い出した。順を追うと、まずいきなり泣かれる(反射的に病人は涙が引っ込む)→「わたしの知り合いにもね」と同病で苦しんで亡くなった人の話をする→
— OTANI Michiko (@mori_to_nagisa) 2016年4月24日
一口にがんといっても罹患した場所も違えば進行具合も違う。予断をゆるさない状況であっても健康を回復する人はいる。自分の知識の範囲でさほど共通点のない相手に最悪な状況を前提に語るのは現実的な話ではない。ぜったいに止めた方がいい。
話を聞いているつもりで自分語り
「話を聞くことしかできないけれど、いつでも連絡して」といってくれる人がいるのはありがたい。でも残念ながら「話を聞くことができる人」はそんなにいない。極限状態の人の話をじっと聞くのはなかなか難しいことだからだ。
「何を言ってあげたらいいのかわからなかった」「相槌を打つことしかできなかった」は上等な方で、本当に黙って聞いて相槌を打つだけで話を終わらせた人は賞賛に値する。多くの人は聞き終える前にいてもたってもおれなくなり、話の腰を折り、言葉を遮り、自分が知る範囲での解決策をまくしたてる。
薬をかえてみては?支援グループに参加しては?病院に強く意見すべきだ!サプリを、食事を、生活を改める気はないの?もっと話し合わないと!自分の気持ちを伝えることが大切だよ。etc.etc。
ここで人生訓や感動話を語りたくなる人も多い。いぜん隣のベッドに訪れた見舞い客が幼少期から老年にいたるまでの苦労話を長時間語り続けるのを聞いたことがある。気の毒に見舞われている側は相槌以外の言葉をすべてシャットアウトされていた。ベッドの病人は逃げ場がない。
好意を無碍にはしたくない。支援の申し出はうれしい。お見舞いはありがたい。だから相手の気を悪くしたくはない。こういう理由で闘病中の人やその家族は訪問者や支援者の自分語りと提案をなかなかはっきり断れない。けれどもそれらの話を聞かされる疲労感といったらない。逃げ出せない相手にジャイアンリサイタルを開いていないかよく考えてほしい。
転ばぬ先の縁起でもない話
「遺族年金の先払いをすませた方がいい」「障害年金の申請はすんだ?」「緩和ケア」「在宅看護」「生命保険の受取名義は?」
健康な時に遺言を書き、墓を買い、葬儀会場を決めるのは将来の心配を減らすのに役立つかもしれない。けれども極限状態にいるとき、たとえば事故に遭って救急車で運ばれてきたとか、出産時のトラブルで手術室から出てこないとか、そういう状態のときに待合室の家族に「喪服は?」「お墓は?」といった話をするだろうか。
誰もがいつかは生涯を終える。いずれ必要になることだ。とはいえ生きる方法を模索している相手にこういった話をするのは一般的にいって縁起でもないこととされる。がん患者とその家族に対してもそうだ。
これらの大半はそのときが来たら考えればいい話なんだし、そういった知識が必要ならそのときに調べておいたことを教えてくれる方がよほどありがたい。何しろこちらは今日生き延びるための問題で手一杯なのだ。
「先のことを考えるのはやめなさい、辛いことしかないんだから」といわれて、「そんなことどうして断言できるんだ」と悔しくて悔しくて泣いてしまった日もあった。実際には告知されてからの数か月に楽しいこと、面白おかしいもあった。日ごとに悪くなると考えて絶望するのは現実に順応する最善の策とはいえない。
悲劇の美化と合理化
病から気づきを得たり、以前より健康的で健全な生活を手にすることはある。結果的によかった、最高の贈り物だったと考える場合すらある。しかし本人が腑に落ちる過程をすっとばし、周囲が「起きたことには意味がある、これでよかったのだ」と自分が望む結論に帰着させようとしたり、「このように考えるべきだ、あのように感じるべきだ」と本や映画などに出てくる理想の闘病者像を仄めかしたり、押し付けたりされるのは負担になる。*2
これは平たくいったら「無駄に足掻かないできれいに死んでね」というメッセージであり、「撃ちてし止まん」を美化する日本の風潮によく似ている。闘病の末の死を一種の殉死のようにとらえ、それを安らかに受け入れるようにお膳立てしたがる人は多い。死を受け入れることの素晴らしさ、死を恐れなかった人々の偉大さをことさら強調する医師の本もある。
これらは極限状態にある人を見るに堪えないことから起きることなのかもしれない。老人には醜悪であってほしくない。病人は安らかに死を受け入れてほしい。そうでなければ見ている側はいたたまれない。夢見が悪いから苦しまずに死んでほしい。気持ちは分かる。
けれども人は誰かの気分を楽にするために病気になったり老いたりしているわけではない。そして現実は美化された物語のようではない。たとえ親兄弟、夫婦であっても自分にとっての理想の死は自分だけのものにとどめておくこと。
また健康なときに他人事として読んで感動した本が、当事者になったときにはまったく違って見えることがあるということを覚えておくこと。飛行機事故の話を地上で読むのと離陸後エンジンがおかしい飛行機の中で読むのとでは受ける印象は異なる。
ガン商売業者の斡旋
ある施術を受けるためエステサロンへいったときのこと。オーナーの身内がガンだったということで、後日挨拶がしたいといわれた。夫はそんな風に特別扱いされることを望まなかったが、予約時間をずらしたにもかかわらず、オーナーは雪の中三つ指ついてあらわれ、名刺といっしょにがん患者向け商品のサンプルをあれこれくれた。
その後も施術の前後に夫はたびたび「特別な治療に興味はないか」ともちかけられ、、興味がないと断った。「なので、奥さまからオーナーにご連絡いただければご紹介させていただきます」とスタッフはいった。夫が望まないことをしたくないので、とわたしも断った。こうしてまとめ買いしたサロンチケットは未消化のままになっている。
オーナーの表情、口調、話の内容全てに「身内をガンで亡くした」という死の臭いが満ちていた。「一般に知られていない特別な治療法」という言葉の裏に「これを受けないとあなたも同じ運命ですよ」という嫌な緊迫感がある。
ガン患者相手の商売をしているが書いたらしいブログから「ガン患者は人から嫌がられるようなガンのような性格だからガンになる。そしてガンが除去され、抹消されるように世間から追い出される」というものすごい記事*3へのリンクを、善意の提案としてこのブログのコメント欄に貼ってきた人もいた。
ガン商売にはいくつかのパターンがある。闘病中の人を「おまえが悪い」と徹底的に断罪し、罪悪感を刺激して自信をなくさせ、依存させるものも多い。これは悪質な宗教や自己啓発グループなどにもみられる。*4
健康なときにはどんなに荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい理屈であっても「これをやれば助かるけれど、やらなかったらおまえは死ぬ」という言説を切羽詰まった状態で聞くとしばしばダメージを受ける。これは斡旋先が保険適用される医療機関でも同じだ。
迷っているときに断言力の強いものに出会うと思考を停止してそこに甘んじてしまいたくなる。自分がどのような治療法を選ぶかは自由だけれど、それに同調させようと圧力をかけないこと。
自己責任の拡大解釈
対岸の火事を眺めながら岡目八目気分であれこれいうのはたやすい。「そういう生活をしているからがんになった」「そういう考え方を改めない限りがんは治らない」というのは「スカートが短いから痴漢にあう」「隙があるからレイプされる」と似たり寄ったりで、なんら被害者を助けるものではない。
でも言ってる側は気分がいいんだよね、どうも。相手の落ち度を指摘することでなんの持ち出しもなく立派なことをしたような気分になれる。
ふだんだったら「なに言ってんだバーカ」ですむ。しかしこういった悪質な自己責任論になかば洗脳された被害者ともいえる人が好意でいってくる場合は複雑だ。「生意気だから男に殴られるのだ」というやつには「バーカ」ですむけど、「私は生意気だったので夫に殴られていましたが、改心して可愛がられています。あなたも身の程をわきまえて反省すればきっとうまくいきますよ」と100%の好意でいってくる善良な人にはことばを選ぶ。それが親しい見舞客であればなおさらだ。
こうしてよかれと思って「行いが悪いので当然の報いとしてがんになったのです。行いを改めない限り治りません」といってくる人に言いたいのは、人は誰も完全に病から身を守ることはできないということだ。完全に守れないということはどんな人にでも「だから病気になったのだ」といえる隙があるということだ。その死角をなくすことはできない。
死角があっても弾が飛んでこなければ死に至ることはない。飛んでくるか、来ないかは究極的には運の問題だ。水木しげるのラバウル戦記を読んでいるとそれを痛感する。
わたしは食事をはじめ各種健康療法や医療を否定する気は毛頭ない。けれども人が自分に関して責任を持てる範囲には限界がある。死や病気を自己責任とするのは裏を返せば誇大妄想的な全能感によるものだと思う。そういう幻想にすがるのは不安を抱えた未熟な状態のときだ。
「これさえしていればガンにならない」「これをやったらガンで死ぬ」が頭から離れず、自分自身ではなく他人の行動に我慢できなくなったら瞑想するなり塗り絵を塗るなりして自然の摂理に想いを馳せるといいと思う。
あわてないで落ち着くこと
「がん=即=死」という図式は人を慌てさせる。慌てると人はとにかく急いで何かしなければならないと焦る。こういうときに間違いがないのは、口頭や手紙で「回復を祈っている」と伝えること、あとで「返してくれ」と言わないでいい程度のお見舞いを包むこと、病人の都合のいい時間に顔を見せにいくことだ。
「出来ることがあればいって」と伝えるより、車を出す、買い物にいく、調べものをする、力仕事や家事を代行するといった具体的な支援のうち、自分にできることを具体的に伝えること。できればどのくらいの頻度でどの程度できるか伝えておく。
まずは何より落ち着くこと。
パニック状態のまま自分がいいたいことを思いついた順に闘病中の当事者や身内に語って困らせないこと。
当事者である病人や看護している身内以上に治療にあつくならないこと。
「支援するとは自分が望む結果が出るように行動することではなく、支援する相手が望む結果が出るように行動すること」とカール・サイモントン博士は語る。まいにち何度もその言葉を思い出す。