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2016-04-30 貪欲に 『絢爛たるグランドセーヌ』
Cuvie『絢爛たるグランドセーヌ』
※少しネタバレがあります。
このマンガの面白さを支えているのは何だろうと考えた。
バレエマンガである。
主人公の有谷奏(ありや・かなで)が幼いころに見に行った近所の「おねえちゃん」のバレエ舞台に魅せられて、バレエを始めるところから物語がスタートする。現在5巻まで出ているが、奏のバレーダンサーとしての成長を一歩一歩描いていく、いわば「王道」ともいえるビルドゥングス・ロマンである。
このマンガの面白さを支えている一番の要素は、やはり主人公・奏のあまりにも一途なひたむきさ、というか、成長への貪欲さである。「貪欲」という、やや狂気じみたニュアンスを含む言い方がぴったりくる。
才能はそれなりにある。しかし「天賦」というほどではない。そうしたスタート地点であることをライバルたちとの比較の彫琢によって浮かび上がらせつつ、何よりも他人の技、美点、優れたところを貪欲というほどに観察して盗みとっていく。
例えば、2〜3巻に出てくる小学生時代のエピソードが、ぼくはとても好きだ。
ライバルの一人である栗栖さくらの黒鳥(オディール)役。『白鳥の湖』に出てくる悪魔の娘役である。奏はその妖艶さにあてられて…というか魅せられてしまうのである。
奏の踊るのは、『コッペリア』というまったく違ったバレエ作品で、その中のスワニルダという村娘の役である。妖艶さとは縁もゆかりもない。ところが奏は、このスワニルダを、さくらのオディールにあてられた気分のまま演じてしまい、「妖艶」に踊ってしまうのである。
――コッペリア(人形)を誘惑するスワニルダ!
審査員が吹き出してしまうほどの、飛躍したキャラ解釈なのである。
ぼくはバレエに全然詳しくないのでよくわからないのだけれども、うーん、たぶん、「セクシーなのび太のママ」とか「イケメンのジャイアン」みたいなもんじゃないかと想像しながら読んでみた。
表情がいい。
作者のCuvieが、このシークエンスを描くとき、コマの一つ一つに頬を赤らめながら上気している奏がぼくらに迫ってくる。奏が入り込んでいるという説得力がある(左下図:Cuvie前掲書3巻、秋田書店、位置no.13/213)。
このように「まねぶ」=まなぶことで、奏は、対象を自分の中に貪欲に消化し、吸収していってしまうのである。
特に小学生にとっては、この過剰が果たす役割は大きいだろうと最近つくづく思う。
小3になるぼくの娘は、本当にマンガを毎日読み、毎日コマを割ってマンガを描いている。好きなマンガの展開、表現をそれこそ「貪欲」に取り込んでいく。そのプロセスを見せられている。我が娘のあまりにも低いスタート地点ながらも、ぐんぐんと「傾き」をつけて変化していくその姿に、模倣の果たす重要な役割を見ている(ちなみに娘もこの『絢爛たるグランドセーヌ』をよく読んでいる)。
奏にぼくが惹かれるのは、人が真摯に学び、成長する姿、貪るように学びつくそうとする情熱が正面から感じ取れるからであろう。
そのような成長や努力は、半分くらい意思や理性の力でそうしているという面があるのだろうけども、半分はそうでもない。
好きなものに情熱を傾けてのめり込んでいく、いわば「淫する」ように、例えて言えば「おいしい食べ物を食べることがやめられない」みたいな、ある種の不健全さ、病的な偏執を含んでいるところが、それを見る者を慄然とさせるのである。
もちろん、そのような情熱を羨ましいと感じるのであるが。
ぼくにはバレエの知識がほとんどないのでこの作品が専門的な目から見てどうなのかはよくわからないのだけども、成長ごとの課題が示されることはもちろん、
- 「マンガ」のような大逆転劇はバレエではありえないぜ
- 型通り踊ることの美しさ
- 基礎へのリスペクト
という視点や意見を十分にふまえている。そのことによって、このマンガが、虚構として興ざめな飛躍をしてしまわないような細心の注意が払われている空気を感じ取れるのである。
そして、そういうエクスキューズをつけた上で、とんでもない飛躍をしているところが、まさにドラマの醍醐味なのだが。
このマンガは、セクシャルな魅力にもあふれている。うん、いわばエロいのである。マンガ上は公然とは言いにくい、隠されたコードではあるが。いや、ここで公然とぼくは言っちゃってるけど。
半分むき出しになって無防備にさらされた、若い女性(小学生高学年女子以上)の肢体を抑圧をかけることなく、眺めていられる作品なのである。さっき挙げた、コッペリアを誘うスワニルダの描写も見てもらえばわかるが、まさに「妖しい」のである。エロいのだ。
こうしたセクシャルな要素は、間違いなく本作の魅力の一つである。
バレエマンガは巨峰がいくつもそびえ立つ、険しい場所である。そこに挑むのは、ある意味で無謀と言えなくもない。
だが、Cuvieがそこへ殴り込みをかけられるのは、表情や体のリアルさを豊かに搭載できるグラフィックのせいでもあろう。表情だけでなく、さっき挙げたような筋肉や汗の質感までも描ききることができるものとして。
見蕩れる、とはこういうことを言うのだ。
不安を感じる点について
ただ、主人公以外のキャラクター設定に少々不安を感じないでもない。
例えば、栗栖さくら。
母親=大人から一つの作品として仕上げられていくときのストレスやメンタルの弱さが、強調されるエピソードがある。踊っている時以外は生きた顔をしていないとまで奏に指摘されるような強度のストレスにさらされた人間がそんなに早く立ち直るだろうか?
この点は作者もおかしいと気づいたのか、それとも最初からの予定なのかはわからないが、作品の中で「修正」をしている。
あるいは、奏と一緒にバレエを習い、常に奏の少し上のレベルにいる女性で、伊藤翔子という少女がいるのだが、その父親。翔子が趣味でなくプロをめざしていることを知ると、それに厳しく反対する。それは、父親が昔アスリートとして挫折した経験を持っていたからだと、のちに翔子は知る。
だけど、最初の父親のキレ方は、どう見ても無理解な親のソレだろ。酸いも甘いも知った挫折者としての含蓄がない。
羽海野チカは、ニコ・ニコルソン『マンガ道場破り・破』の中で、マンガ家にとって一番大事なことを「嘘をつかないこと」だと書いている。
ニコ・ニコルソンが描いてきた原稿を直す際に、
「気の弱いこの子がここでこんなこと言うかなぁ…」
と疑問を呈する。ニコ・ニコルソンは、「でも話の流れ上、そうしないとバトルにならんので」と羽海野の疑問を退けようとする。羽海野の再反論。
「私なら… 最初から台詞の応酬を書いていって…
『この子はこんな選択肢選ばないなぁ』となったら
話の筋を変えるよ」
これが羽海野のいう「嘘をつかないこと」、つまり「嘘の感情を描かない」ということであり、別の言い方をすれば、キャラクターをストーリーの従属物にしない、ということでもある。(ただ、ニコ・ニコルソンの『破』を読むと、別の作家は逆にストーリーを大事にしている方法を取っており、それは作家が選ぶ方法の一つに過ぎないのであろうが。)
いずれにせよ、ぼくはこの翔子の父親の描写に違和感を覚えた。
しかしである。
冒頭に述べたように、このマンガの命は、何と言っても主人公・奏のエネルギッシュな貪欲さだ。その力強さが、少々の他の瑕疵を補って余りある。6巻以降を楽しみにしている。
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