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5月27日(火)の久高島。宿の屋根に叩き付ける豪雨の音で目が覚めた。
梅雨とは知りつつの沖縄1泊弾丸旅。雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ… どうしても入りたかった御嶽が、ここ「うぷんでぃ山」。久高方言で、 うぷ=大、んでぃ=んり=里。大里山という名の御嶽である。 神代から続くという天代大世(あまよたいせい、拝所)のある大里から東へ一直線に ラインを引くと久高島に行き着く。その位置関係に古代琉球を紐解く鍵がありそうだ。 うぷんでぃ山は集落から北へ数百m。久高島の最高地点(標高17m)にも近い。 農道から入る目印は倒木、というか横に伸びた樹々。60㎝ぐらいの高さをくぐる。 いや、くぐれないので、雨ガッパ姿、ポリ袋に入れたスマホを手に、得意のホフク前進。 現存する資料はほとんど皆無だが、中にある聖所はこの「てぃんどぅるガマ」。 久高島では「縄文人が住んだガマ(洞窟)」と伝わる。つまり、縄文地下集落跡。 拝みを終えてガマを覗くが、↓写真の右部、幅40㎝の黒い入口の先は見えない。 中は広いらしいが、雨の日はハブやサソリが活躍するかも知れず、入る勇気はない。 うぷんでぃ山は、かつて神女の退任式・テーヤクのコースにあった。 70歳になった神女は、はんじゃな山→くぅんぶち山→そしてこの、うぶんでぃ山 を参拝して回り、最後にフボー御嶽で退任儀礼に赴いたものだという。 いずれの山も御先(うさち=上古)天孫氏ゆかりの御嶽、あるいは古代祭祀場と考えられる。 ようやく拝見できた、うぷんでぃ山。そして宿で雨具を脱ぎ、一息ついて「大里」について考える。 御先天孫氏は「古代の渡来人」「古渡りのアマミキヨ」。『中山世鑑』によれば17802年続いた。 その痕跡を残す大里(地名)、そして、うぷんでぃ山(大里山)が、 同族を証すべく同名を名乗り続けてきたのなら、旧家・大里家も無縁ではないはずだ。 その同族とは、古代ユーラシアの民・東大神族(しうから)か? というわけで、↓こちら大里家の神屋に参上。 イザイホーの行われた祭祀場・久高殿の右隣に、ひっそりと建っている。 2棟並ぶ神屋のうち「五穀大里(ごこくうぷらとぅ、写真右)」の神壇。 こちらに祀られている位牌に「天孫氏」を示す神名があれば、大里家も、 御先天孫氏=東大神族(しうから)=ワニ族に属していたと考えられる。 位牌には右から、次のような神名が並んでいた。 天美大阿母加那志(あまみうふあむがなし) 久高大里百々祖 天王加那志思五郎(天孫氏)(てんおうがなしうみぐるぅ・てんそんし) 照婆加那志真玉露(てらしふぁがなし・まだまちゅ) あった…天王加那志。こちらの天孫氏が、古代琉球王朝の始祖だろう。 早速、語り部に電話する。 「天王ガナシーの位牌がありましたけど、天王とは大きな神名ですね」 「はい、神女のおばあたちは天地大神様(あめつちのおおかみさま)とも呼びました。 スサノオのことです」 「スサノオ…ですか?」 「『日本書紀』のスサノオノミコトではありませんよ、琉球の始祖・スサノオです」 『契丹古伝』によれば、ユーラシアに降臨した東大神族(しうから)の天祖。 そのスサノオが、久高島に祀られていたとは!! ▲
by utoutou
| 2014-05-30 18:30
| 天孫氏
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聞得大君の「お新下り」(就任式)の中心的な儀礼「お名付け(なーじきー)」は、
斎場御嶽の大庫理(うふぐーい)で行われた。国王のオナリ神(守護神)としての認定式。 その大庫理で、ちょうど1ヶ月前、祈りを捧げるウチナーンチュの女性たちを見た。 瓶子(ビンシー。お線香、盃、米、塩、お供え物を収納する木箱)を運んできたのか、 キャリーバッグが傍らに。「ウートートー(尊い神様)」と祈る声がする。 好きなウチナーぐち(方言)。私のブログネームでもある。 さて「尊い神様」とはこの場合、どの神のことか。それは沖縄から東京に帰って からも胸にくすぶり続けた疑問だった。 大庫理→寄満→ナーワンダーグスク→大里の方位。その祈りの先に座す神とは? 『琉球国由来記』によれば、聞得大君が祀る神は「御日御月の御前」と「御火鉢の御前」…。 すると、何日か前、語り部から電話があった。 「チチンガーです! チチンガーにおられる神が“月の神”だと思い出しました」 チチンガーとは、大里グスクに隣接する井戸。漢字では「包井」と書く。 木立の向こう側が大里城趾、手前がチチンガー。そこに月の神様がいたとは。 「チチンガーの本来の意味は“月の神”だと、昔は言われていたんです」 「では聞得大君をオナリ神と認定したのは“月の神”ですか?」 「はい」と、語り部。 そういえばチチンガーを覗くと、紙垂(しで)が下がっていた。 沖縄では今でも井戸や川泉は聖所として尊ばれるが、紙垂を見たのは初めて。 チチンガーは地下8メートルの位置にある掘り井戸。石段を43段も降りる。 築造は14世紀頃と推定されているとか。説明板には次の一文があった。 「井戸が城壁外にあると清水が沸き出し、城内に取り込まれると水が枯れたとのこと」 島添地方を支配した大里按司にも独占できなかった、神の棲む井戸…。 井戸まで降りる途中で振り返ると、まさに城壁のような石積みの佇まい。 語り部は続けた。 「“月の神”を久高島では、チチヤ大主(うぷぬし)と呼びました。 何か久高島の本で調べてみてください。記録があるはずですから」 確かに。比嘉康雄氏の著書『神々の原郷 久高島』にそのくだりはあった。 「チチヤ大主 大里家から出自。月の大主と言われている。本来は女神であるが、 1976年頃まで男性が神職を務めていた。」 月の神、本来は女神。久高島→斎場御嶽→ナーワンダー→大里という東西ライン に祀り崇められていたのは、太陽と月。陽と陰。男神と女神だった。 聞得大君と国王というツートップによる神託政治、そして「日月信仰」だったであろう 古代琉球の祈りの原風景をここに見る思い。 聞得大君が月の神に祈る聖所は、東方の聖地・斎場御嶽の「大庫理」。 国王が東方の朝日に祈るのも首里城正殿2階の大庫理。同名で方位的に向き合う。 昨年の夏至の朝日(於・那覇市の瀬長島ホテル)。ところで、沖縄のホテルでは、 夕陽の見える西側の部屋が人気らしい。朝日の昇る東側は売れ残るのか格安。この日もそうだった。 ▲
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| 2014-05-26 10:40
| 天孫氏
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ヤマトトトヒモモソヒメが葬られているという箸墓古墳に向かうべく、奈良
のホテルの一室で早起きしたのは3年前の夏。ところが、寝ぼけていたらしく、 ツインベッドの間隙にどすんと尻餅をついた。そして、あることを悟った。 尻餅ついても、モモソヒメのように箸はホト(女陰)には刺さらない。 尾骶骨をしたたか打つだけだ。よって『日本書紀』の記述は何かの隠喩である。 そして、この箸墓に向って考えた。大物主(国津神)の子を孕んでいたかもしれ ないモモソヒメ(天津神の巫女)に対し、『日本書紀』の筆者は、根絶やしの 意図をもって、箸で子宮を突いて死ぬという猟奇的な描写をしたのかと…。 沖縄にも、女のホトにまつわる「鬼餅(ムーチー)伝説」がある。 『琉球国由来記』真和志間切(現在の那覇市首里金城)の項。 舞台はもう一ヶ所、あの東大神族(しうから)の里かもしれない大里。 「鬼餅は天孫氏二十三世(※推定10世紀)の時代に始まった」と伝わる。 〜大里の洞穴に住む兄が「人を食う鬼になった」という噂を、首里に住む妹が 耳にした。そこで様子を見に行くと、兄はいなかったが、噂通り釜の中では 人の肉が煮えていた。そこで、妹は米餅と鉄餅を作って兄が来るのを待った。 やって来たが鉄餅を食えなかった兄は、妹の着物の裾が赤いのを見て聞いた。 兄「おまえの下に血を吐く口があるが、それは何か?」 妹「私には口がふたつある。下は鬼を食う口、上は餅を食う口」 兄(鬼)は驚いて後ずさりし、後ろの崖から転げ落ちて死んだ〜 この話が、今にも続く師走の行事「鬼餅」の由来。 家ごとに、月桃(サンニン)の葉で包んで蒸した魔除けの餅を神壇に供える。 写真は、4月の沖縄旅で初めて見た大里のランドマーク(貯水庫らしい)。 さて、沖縄のホト伝説は、モモソヒメのようにホトを箸でやられたりしない。 妹は、鬼と化した兄を餅とホー(女陰)の霊力・呪力によって撃退するのだ。 以来、妹の住んだ場所は「ホーハイ御嶽」と呼ばれ、子宮を象るようになった。 ホーハイ=ホト=女陰。戦前の沖縄にはまた、火事になると 「ホーハイ、ホーハイ」と、女性がホトを見せるまじないがあったという。 明治に入るまで、沖縄にはこんな諺も残っていた。 「女(いなぐ)は戦(いくさ)の魁け(さちばえ)」 巫女が船団に魁けて呪詛を行う「謡」が『おもろさうし』にも出てくるが、 ことに八重山討伐で陣頭に立った神女として名高いのが、久米島の君南風(ちんべい)。 そこで思い出すのが、斎場御嶽の“奥の宮”であるナーワンダーグスクだ。 尚真王の時代、その八重山討伐に向う王のための戦勝祈願は、斎場御嶽の寄満(ゆいんち) で執り行われた。寄満とは、ナーワンダーグスクの真下に位置する拝所である。 ↓ 一対の巨岩から成るナーワンダーグスクのイナグ(女)ナーワンダーのほう。 大岩に開いた洞穴(ホト)は、おそらく古来より代々の日巫女の風葬墓だった。 ホト=生命の源=太陽神からの霊力を再生(初期化、更新)するには、寄満は この上ない礼拝所だったと思う。ホトに勝る霊力・呪力はないのだから。 こちらナーワンダーグスクのもう一方、イキガ(男)ナーワンダー。 キノコ型に屹立しているらしい。男性器を象る。風葬されたのは代々の首長か。 (2枚のモノクロ写真は、吉野裕子著『扇』(1970年、学生社刊)から借用)。 ▲
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| 2014-05-21 10:25
| 天孫氏
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『契丹古伝』は、東大神族(=しうから、古代倭族)をこう説明する。
「殷の時代には大諸候だったが、周になってから(※紀元前1046年〜) の天変地異とともに没落し、西族(漢民族)によって中原を追われた」 そのうちの一種族・潢弭(ワニ)を、後の大和豪族・和邇(ワニ)氏では ないかと記したのは、他でもない著者の浜名寛祐氏だが、いま『契丹古伝』 を改めて読み返してみて、あることに気がついた。浜田氏は『古事記』の 神話に登場する鰐と「和邇」の関係をあらかじめ認識していたようだ。 『契丹古伝』第三巻「邪馬駘記」の第八章「七種族の名称原義」のくだり。 著者解説の部分を以下引用(かつ赤字に)してみると、そのことが分かる。 漢族の史書には此の族に関することが何もなく、唯本頌叙(※この本)にのみ 其の名が見えて、且つ後章に黄浮海といふことが記してある。この海に浮かぶ といへば普通東へ去ることになっているから、もしや我が國へ来たのではある まいか(略)。我が神話は和邇(鰐)に由りて頗(すこぶ)る賑かにされてあり、 そして潢弭と和邇との称合契合が妙に不思議を感じさせる。 人も知る如く大国主神の伝に、兎と鰐の話があって、兎は鰐を欺きそれに乗って 海を渡り、鰐は欺かれるを憤って兎の皮を剥いだとある。 また一つは天孫瓊瓊杵尊命の御子穂穂手見命が海神國(わたつみのくに)に赴き、 王の女豊玉姫と婚し、三年が間その國に滞留し、一尋和邇に乗って、媛もろとも 帰国されたということである。媛は妊娠し、願わくば妾(あ)の産みなん形を勿 (な)見たまひぞと云ひて、産殿(うぶや)に籠れるを命伺見(みことかきま) えば、媛は八尋の和邇に化(な)っていて、伺見られしをいとはずかしとあって 返り(※ママ)去られた。その産まれませる御子こそ神武天皇の考皇(ちらぎみ) にましますとのこと、この神話を如何に見るべきか。 ことに後半の2ヶ所。ワニを「鰐」や「鮫」でなく「和邇」と記したのは、 「神武天皇の祖母・豊玉姫は和邇の娘」であると、元々知っていてのことか。 思えば『海上の道』の柳田國男氏も「鰐は和邇氏の祖霊である」と記した。 生年を調べると、浜名氏1864(元治元)年生まれ。柳田氏1875(明治8)年生まれ。 明治・大正を生きた軍人・知識人は渡来の「和邇氏」について熟知していたらしい。 南城市の大里城跡(一の郭付近)。この大里が、語り部の口伝にあるように、 東大神族(しうから)の里だとすれば、菊紋+巴紋によるアマミキヨの神紋や、 天孫氏王朝25代の位牌が祀られている拝所「天代大世(あまよたいせい)」の謎 が解けるかもしれない。つまりアマミキヨは大陸から渡来したワニ族なのか? さて、和爾氏が天皇の后を9人も出したとの記述があるのは、岸俊夫氏の 『ワニ氏に関する基礎的考察』という論文だが、縄文時代におけるワニ氏 について詳しいのは、宇佐神宮宮司家嫡男で宇佐国造57世の宇佐公康氏著 『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』(1990年、木耳社)だ。以下まとめ。 ・和邇族は、後期石器時代に朝鮮半島から日本列島に渡来した。 ・邪馬台国の時代以前から大陸と交流して繁栄していた。 ・今から2400年前の縄文時代晩期、すでに大和地方に定着していた。 ・奈良県天理市櫟本町和邇を本拠とし、部族による村から氏族による大集落を 形成していた。族長は孝昭天皇。山城・近江・尾張へと次々に進出した。 ・和邇一族の墓所である東大寺山古墳群から、後漢・霊帝時代の大刀が出た。 ・海洋民族で、カヌーのようなワニ舟で海岸から上陸。土地を開拓した。 ・古代の漁労や海運を業とした「海氏」「海部」のもっとも古い祖先で、その 祖神はワニ神という海神で水の神である。 ・紀元前3世紀から、数千年続けてきた漁労・採集を稲作・農耕に転換。 農具・武器・刀をつくり、神に捧げる神酒を盛る土器をつくった。 こちら大里にある島添大里グスクの西端に位置する「カニマン御嶽」。 説明板には「由来は不明」「昔の偉人を祀ったお墓」とあるが…。 「カニマン」とは、沖縄の方言で鍛冶屋のこと。カニマン御嶽は各地にあるが、 伝承では「御先(うさち)カニマン」(=縄文時代の鍛冶屋)とも呼ばれる のはこの大里はじめ数えるほどの御嶽しかない。偉人とは、はたして誰? 大里城跡の頂上「ウティンチヂ」からの眺め。北西方向に中城湾を抱えている。 このすぐ西に島添大里按司の墓、さらに西に旧日本軍の砲座壕跡がある。 ▲
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| 2014-05-17 20:43
| 天孫氏
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『契丹古伝』をしきりに読んでいた3年前、東京芸大美術館で
展覧会『草原の王朝 契丹(きったん)美しき3人のプリンセス』があり、 王家の姫たちの今なお煌めく遺物を観た。写真はそのときの図説本から拝借 したもので、現在の内モンゴル赤峰市。契丹を統治した遼王朝の王城跡。 風が渡り鳥が舞うなか、遊牧の民が駆け抜ける往古を偲ばせて、美しい…。 『契丹古伝』(1986年復刻、八幡書店)は10〜13世紀、中央から東アジア にかけて帝国を築いた契丹(=遼、太祖は耶律阿保機=やりつあぼき)に伝わる 謎の古文書という。日露戦争中、鴨緑江軍兵站に従軍して、偶然その写本を入手 した著者・浜名寛祐氏が、帰国から20年かけて解読して、大正15年に刊行した。 わずか2980字という短編ながら、そこには草原の王朝・契丹の祖先である 「東大神族(しうから)」を伝える神話と歴史が収録されていた。 東大神族は、漢民族が登場する以前から存在したユーラシア大陸の先住民。 日本人の祖先もこの東大神族というから驚いた。そして「殷は倭なり」と。 大陸最古の王朝と言われる「夏」、その夏を滅ぼしたと言われる「殷」、 また中国史では蔑称で記される「東胡」「匈奴」も、同祖・同族という。 大陸の先住民である「殷」の末裔と「漢」との対立こそ、ユーラシア大陸 の古代史の真相であるというのが、この『契丹古伝』の核心部分のようだ。 689ページある復刻版『契丹古伝』で、沖縄に関係すると思われる箇所は 少なくないが、もっとも興味深かったのは「ワニ」なる種族に関するくだり。 東大神族には、太陽を信仰する騎馬民族である、7つの種族がいた。 そのなかで…と、浜田氏は記している。 「今なお残る種族は日本の潢弭(ワニ)と、朝鮮の潘弭(ハイ)である」。 「ワ二は紀元前1500年頃できた殷の大候国だったが、やがて“潢浮海”。 支那で海に浮かぶといえば東に去ること。日本へ来たのではあるまいか」。 これを読んで、私は思ったのである。 海に浮かんで去った潢弭(ワニ)とは、大和の渡来豪族・和爾(ワニ)氏? ミントングスク近くにも戦前「和名」という集落があった。「ワニ」と読む。 こちら3500年前の貝が出た垣花川原貝塚は、旧称「和名盤原(わにばんばる)」。 和名集落で最高の拝所は「大森の御嶽」というが、別名「うふんりの御嶽」。 「うふんり」は「大里(うふざと)」の読みでもある。つまり…、 「東大(しうから)の里の御嶽」とも考えられるのだ。するとまた、 図らずも、和名とは東大神族(しうから)の渡来地ではと推理されるのだった。 大阪に出向いた折、奈良まで足を延ばして、ゆかりの神社へも参った。 JR桜井線の櫟本(いちのもと)駅。旧添上群櫟本町和爾にある和爾下神社。 ご祭神は、素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命。 目を奪われたのは境内の赤い土だった。そのためか樹々の肌まで赤く見える。 少し北に上社と言われる和爾坐赤坂比古神社、東には赤土山古墳がある。 和爾氏が採鉱、 金属精練と関係があると伝わるのも、その地質のためだろうか。 いっぽう沖縄の「ワニ」、垣花城跡の東にも製鉄所跡がある。垣花製鉄遺跡という。 ▲
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| 2014-05-15 11:48
| 天孫氏
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琉球八社のひとつ、安里八幡宮(那覇市安里)。
この神社を創建した第一尚氏琉球王朝最後の王・尚徳(在位1435年〜)に ついて書こうと画像を探してしていたら、昨年2月に撮ったコレが出てきた。 那覇市のゆいレール安里駅の約500m北。さらに北から安里八幡宮に被さるように建つ のは、副都心おもろまちに建築中だった地上30階建てのマンション・リュークスタワー。 右がTHE EAST、左がTHE WEST。左のほうは既に完成して完売、入居済みとか。 右は、なんとちょうど本日締め切りで来週末に何期目かの入居者抽選(へえ…人気だな)。 いきなり脱線してしまったが、さて。尚徳王の時代、安里はまだ海(河口)だった。 2千の兵を率いて首里城を出た若き王・尚徳が、鬼界島征討へと出帆したのが、この地。 やがて戦勝。それを機に1457 〜64年に、八幡大菩薩を勧請して社を創建した(『琉球国由来記』)。 伝承によればその後、29歳の尚徳王は恋に落ちた。相手はクンチャサ(国笠)ノロ。 戦勝報告のために渡った久高島・大里家の美しく霊力(しじ)高い神女だった。 尚徳王は島を離れがたく、しばらく滞在する間に、首里城ではクーデターが勃発。 王位を失った尚徳は帰路、与那原沖で憤死。クンチャサノロも自害した。 という悲恋の物語は同時に、第二尚氏琉球王朝、幕開けの物語でもある。 クーデターに成功して即位、尚円王となったのは尚徳の側近だった金丸。 久高島の旧家・大里家は、イザイホーの祭祀場だった久高殿の並びにある。 屋根が見えている家は「根ウプラトゥ(大里の久高方言読み)」。 その右にもう一棟、「五穀ウプラトゥ」と呼ばれる大里家がある。 「根(にー)」とは「元祖」の意味。拝所になっており、県内各地から参詣客が訪れる。 実はこの大里家、私が先日訪れた大里の西原集落と縁の深い家であるらしい。 名前も同じこの大里家には、たいへん興味深い伝承がある。曰く、 「神世の時代より何度も、大里の大世(ウフユー)家から久高島に下りている」。 「ミントン家から渡ったシラタルとファガナシーの長男が、後を継いだ」。 これらの口伝は、いったい何を意味しているのだろうか。 大里家が途絶えそうになるたび、名だたる旧家から後継者が送られた理由とは? そのとき、ひらめくものがあった。 世紀の恋に落ちた尚徳王とクンチャサは、実は同族の身の上だったのか! 語り部に連絡すると、逆に矢継ぎ早に訊かれた。 「大里西原のガジマル家の神紋は何でした?」 「三つ巴に菊…」 「三つ巴を神紋とする神社は?」 「もちろん八幡宮です…」 「尚徳王の亦の名は?」 「八幡太郎…」 「安里八幡宮のご祭神は?」 「神功皇后、応神天皇、玉依姫…」 「神功皇后は、どこの娘ですか?」 「父方は、大和の古代豪族・和爾(ワニ)氏…」 私はそう考えている。 「では、神紋のあったガジュマルヤー(家)の正式名称は?」 もう一度、あのアマミキヨの神紋(の画像)を見る。 下に印された文字は「元祖 東大里 ガジマルヤー根屋」 語り部は言った。 「東大里(あがりうふざと)とは、東大の里という意味ですよ」 そうだったのか! 東大、東大族、東大神族、すべて「シウカラ」のこと。 それは契丹(きったん)王家の史書『契丹古伝』に出てくる古代倭族。 ワニ氏は超古代、東大神族(シウカラ)の一種族だったと綴られている…。 ▲
by utoutou
| 2014-05-10 12:39
| 天孫氏
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アマミキヨの神紋ととてもよく似ている扁額を掲げる大里西原の
ガジマル家が、琉球発祥の地・玉城のミントン家に匹敵するほど 古い時代からの根屋(宗家)ならば…。ようやく解ける謎がある。 琉球王府の史書『中山世鑑』に登場する「源為朝伝説」。 流刑の地・伊豆大島を逃れて琉球に漂着した為朝が娶ったのは、 他でもない豪族「大里按司(あじ)の妹」。この妻が、後に琉球初代の王 となる舜天を産むという物語だが、それがなぜ唐突に「大里」の娘なのか。 私には、どうも腑に落ちなかった。 大里城は14世紀の築城と言われる。 同じ大里の娘が1187年に舜天を産んだのでは、時代の辻褄が合わない。 が、この地に琉球で一、二を争う古い歴史があり、築城されるはるか以前 から権勢を誇る代々の按司がいたのなら、伝説は俄然リアリティーを帯びる。 こちら歌舞伎『通し狂言 椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』のポスター。 2年前の「五月歌舞伎」(新橋演舞場)で上演された。原作はあの滝沢馬琴。 源為朝に扮したのは市川染五郎。父・松本幸四郎が、 30数年前に三島由紀夫演出で演じた大役に挑戦すると話題になった。 白縫姫と寧王女(ねいわんにょ)の二役に扮したのが、中村七之助。 この寧王女、『椿説弓張月』では琉球国王の娘という設定。琉球で一国 の城主となった為朝の妻となるが、為朝が就いた城もまた、大里だった。 さて、大里西原でもう一軒、ぜひ参りたい場所があった。 その名は「天代大世(あまよたいせい)」、通称「ウフユー」という。 司祭する家は途絶えたそうで、辿り着いた神屋は例えようもなく古びていたが、 「いつの時代か、ミントン家からウフユーに長男が降りて来られたと伝わっている」 と、語り部から聞いていた。 正統な歴史には表れない、まさにアマミキヨの痕跡を辿るような伝承だ。 ご神壇の位牌も朽ち果てそうなほど古く、向って右から、 「天孫氏」「天孫氏二十五代」「天人(※アマンチュー)」「大世(※ウフユー)」 と記されているのが、しばらく目を凝らして見て、ようやく読み取れた。 『中山世鑑』にある「天孫氏王朝二十五代」はフィクションという説もあるが、 こうして祖霊は祀られ、私が拝所に着いたときには供え物をして礼拝する方たちがいた。 神壇上に「天代大世」との刻字。語り部は「天代とは神代のこと」だと言う。 いっぽう、私には籠神社・海部宮司の言葉が思い出された。 「海(あま)は天(あま)である」。海神族が世界の海を股にかけ活躍した 上古代の拠点は、もしかするとこの琉球にあったのではないか…。 ▲
by utoutou
| 2014-05-06 16:39
| 天孫氏
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赤瓦の屋根を頂く大きな神屋に、その神紋はあった。
ナーワンダーグスク・斎場御嶽から西へ行くこと、およそ8km。 南城市大里。大里城跡の南に隣接する西原集落。 ご神壇の右、壁の高い位置に扁額は掲げられていた。 最初、菊紋を時計の文字盤と見間違えそうになったが、文字がある。 上「天大師神紋」、下「元祖東大里ガジマルヤー根屋」平成10年1月1日。 「天大師」とは、天太子の宛字か。 阿摩弥姑(アマミク)志仁礼久(シネリク)から生まれた天孫氏の系譜は 『琉球祖先宝鑑』で見たことがある。そのすぐ後に天太子の名はあった。 そして「元祖」「根屋」のダブル表記。こちら屋号ガジマルヤーが、 大里西原の集落の宗家であり、アマミキヨ神の直系であると名乗る意匠だ。 菊に三つ巴。確かに、ミントングスクのアマミキヨ神紋と似ている。 下はアマミキヨの居住地と伝わるミントングスクの神壇に刻印された神紋。 いつ頃から存在したのかは不明だが、戦後、神屋を建て替えた際に、 ご当主自ら紋の形と色を注文したと、私はミントン門中の方に聞いた。 菊葉の枚数(大里は二十四菊)、三つ巴(大里は琉球王朝尚家と同じ左巻き)、 デザインに微妙な違いはあるが、どちらもアマミキヨ族の出自を暗示している? 菊紋と巴紋の重ね合わせは、天津神と国津神の琉球的な和合を思わせるが…。 大里はミントングスク(図の10)のある玉城から、車で20分とかからない距離。 知念岬の斎場御嶽(図の7)とを結ぶと、ちょうどトライアングルな位置関係。 馬天港を上にした細めな♥型の地帯が、琉球石灰岩からなる「知念台地」だ。 語り部はミントンと大里が「(血縁として)繫がっている」と言ったが、 地形的にもなるほど、きれいに繫がっている(「なんじぃのハート」についてはこちら)。 その♥地帯を西に突き抜けると、右が浦添、左が首里、中世以降の王の在城となる。 (『沖縄大百科事典』より「東廻り」の地図を借用、赤字と○は私の加筆) 大里城跡の正門に立つ周辺MAP。神紋を伝える「ガジマルヤー」は左下の集落内にある。 (看板の説明)「大里城跡は、大里村字西原の北側、標高約150mの琉球石灰岩の 丘陵地帯に形成されている。北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に 堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。 この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司 によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。また尚巴志が最初に攻略 した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。 城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く 連敦式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。 1991年の村内遺跡分布調査の際試堀した結果、本丸跡から掲袖陶器、中国青磁、グスク 土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。 ▲
by utoutou
| 2014-05-04 09:22
| 天孫氏
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4月の沖縄旅。連休前にひとっ飛びして、
斎場御嶽の禁足地である奥の宮・ナーワンダーグスクに参る計画だった。 ところが連日雨風に祟られ、同行をお願いしていた地元の翁からは、 「ハブが出るから危険だと老人会で案内を反対された。ゴメンネ」との連絡。 「そうですか…」と肩を落としたが、聖地探索ばかりは無理が通らない。 本島の東方(あがりかた)に立つ男女一対の巨岩・ナデルワ(祖霊神の大霊力)。 祭祀場としても斎場御嶽より古い、一説には「農耕時代以前の風葬墓」である。 まあ仕方がない、ひとりで入れる森ではない。晴れた3日目、 ともかく斎場御嶽へ向かい、久手堅(くでけん)の浜に下りる。 斎場御嶽とナーワンダーの聖域は、南城市知念久手堅に属する。 稜線は知念岬公園、そして知念体育館。その横が斎場御嶽の第二駐車場。 混雑する日はここに車を止め、10分以上歩いて御門口(うじょーぐち)へ。 斎場御嶽頂上のナーワンダー(立ち入り禁止だが)まで、延々と坂が続く地形。 斎場御嶽の東端に位置する三庫理(さんぐーい)の大岩前、 聖水したたるという鐘乳石から、まっすぐ先に、ナーワンダーがそびえる。 現在は樹が繁って見えないが、大庫理(うふぐーい)と寄満(ゆいんち)の先に。 同じ三庫理の前から、こうしてナーワンダーが見通せた時代があった。 (1959年の写真。伊従勉氏著『琉球祭祀空間の研究』中央公論美術出版刊より拝借) 次は再び坂道を歩き西の寄満へ。途中右に太平洋戦争時にできた砲弾池が。 イキガ(男)ナーワンダーに見張り台を置いた日本軍に向け、海から発した 米軍の砲弾が誤って落ちたものと聞いた。聖なる巨岩は標的だったのか。 御嶽内をゆっくり回って夕方5時半、御門口(うじょーぐち)に戻る。 東の海に浮かぶ久高島を眺め、振り返ると西に落ちかけた夕陽が眩しい。 あ…と、そのとき気がついた。 もしや日の落ちる方向にも、ナーワンダーを遠望し信仰する古代集落があった? 知念、佐敷、玉城、そして大里。歴史ある東四間切り(あがりゆまじり)の一角。 「ミントングスク、ナーワンダーグスク、そして大里は繫がっています」 語り部の宮里聡さんから、私はそんな謎の助言を受けていた。 「ミントングスクと似た神紋を、大里の根屋でも見た」とも。 明日は古代琉球の地(かもしれない)大里を訪ね、神紋を探すことになるらしい。 ▲
by utoutou
| 2014-05-01 19:21
| 天孫氏
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