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那覇がX'masイルミネーションに包まれていた
23日、久高島“みるく”の御嶽を訪れた。 「神の島」の始祖ファガナシーとシラタルの居住地と伝わる アグルラキにある知られざる洞窟神殿。 入口は体重50㎏の私がホフク前進でようやく通れる穴。 暗闇に体を滑り込ませると、むせ返るような古代の匂いがした。 蒸し暑くて息苦しい。内部はそれでも体育座りができる高さがあり、 懐中電灯で照らすと広さは十畳ほどあるかと思われた。 ただ静寂。正面に神の依り代であろう巨石が鎮座し、 シャコ貝が香炉としてか、そっと置かれている。 神役や神女により極秘に守り抜かれてきたか、厳かな印象。 ファガナシーが崇めた神の名前は、 太陽神・東大主(あがりうふぬし=男神・天照大神)か。 合掌する余裕が出て来るころには息がラクになり 「なんなら1泊を」とも思ったが、さすがに、 聖なる神殿でカメラのシャッターを押すことだけはためらわれた。 20分ほど滞在して洞窟から這い出てくると、 竜宮城から戻った浦島太郎の気分に。ふと空を見上げると、 聖樹・蒲葵が1本(中央)まっすぐに立っている。聖地の証しだ。 語り部から聞いた玉城の神女ウメおばあの話が思い出された。 「薮薩(やぶさつ)が沖縄でいちばん古い御嶽だよ。 ここを拝まなければ、ミロクの世は開かない」(記事はこちら) 「ミロク(弥勒)の世」とは、古代に栄えた「豊穣の世」。 それを招来するべく、祈りは捧げられた。 みるくの御嶽を出た足で、久高島の主祭場・外間殿に寄った。 久高島の失われた秘祭イザイホーは、日没とともに始まる祭りだったが、 その直前、近くの外間家でノロが詠ったとされる 「イザイホーの神歌(てぃるる)」を想う。 うりてぃうり しなーち(降りて降り、乗り移ります) てぃりないぬ ぬるがしじ(生まれ変わる、ノロの霊力) てぃりないぬ あまみうしじ(生まれ変わる、太古からのノロの霊力) 「てぃりないぬ」とは久高島の方言で「再生の」という意味。 本島では「すでなりの」と言う。古語の「すでなり」とは、 「蛇が脱皮するように生まれ変わる」こと。つまりイザイホーとは、 蛇が脱皮するように生まれ変わってきた、太古からの神聖なる霊力を、 島の女が授かり受け継ぐ祭りだった。 そして、女たちは神祀りを司る神女として生まれ変わったのだ。 新儀では琉球王を崇める祭りだが、 古儀にファガナシーの興した古代の祭祀が隠されていたと思う。 外間殿の百甕(むむはめー=ももはめー)。いわゆる御賽銭箱。呼び方の由来について、 「“百”という字のついたヒメと、“甕”(みか)という字のついたヒコ」と、語り部は言う。 “甕”の字を冠した首長がいた時代が、古代琉球に栄えた「みるく世=弥勒世」だと。 ▲
by utoutou
| 2013-12-29 14:29
| イザイホー
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この地下に祭祀場があるのでは? 御嶽の中に座り、瞑目しながら思った。
足と腰に柔らかく、しかし強く、地熱のようなものが伝わってくる。 何度か訪れたことがある御嶽だが、ひとりで籠るのは初めてのことだった。 一昨日(12 月23日)の夕方、私は沖縄久高島にあるアグル御嶽(らき)にいた。 前日、那覇で会った語り部から、ひとつの「課題」を与えられての久高島入り。 先日、玉城・垣花の御嶽の「ミルク(弥勒)の墓」の存在について書いたが、 那覇に飛び、さらに話を聞いていると、語り部は言った。 「明日、久高島に行ったら“みるく(弥勒)”の御嶽に行ってみてください。 呼ばれていますよ。“みるく”が何かを捉えれば、(古祭)イザイホーや、 (久高島の始祖)ファガナシーや、英祖王について、もっとよく分かるようになります」 語り部の言うように、何かを捉えようと、私はしているらしかった。 目先わずか1mのところに、地下への入口と思われる小さな岩の隙間がある。 その奥に、アグル御嶽の至聖所“みるく”があると直観した。 しかし、未知の洞穴にひとりで入る勇気はない。 助っ人を頼みに、集落まで自転車を走らせて戻る。途中、伊敷浜に寄った。 「神の浜」とも呼ばれる伊敷浜。五穀の壷が漂着した、琉球五穀発祥伝説の舞台である。 午後4時。前日からぐずついていた空に、ようやく南の方向から晴れ間が出始めていた。 集落で知人を訪ねて、聞いた。 「あぐる御嶽(らき)にガマ(洞穴)の入口があったけど、一緒に行ってもらえますか?」 「遂に、悟りましたね」 そう言って家の中に消えた知人は、すぐ戻り「それなら、行きますか」と言った。 両手に懐中電灯を持っていた。 アグル御嶽の“みるく”拝所。久高島の北部にある。 600年ほど前に玉城から久高島に渡って島立てしたシラタルとファガナシー夫婦は、この地に 住み、祈り、西海岸のヤグルガー(川泉)で禊ぎをして、五穀の壷を拾ったと、伝説は言う。 上の石碑をズームアップ。天露之命神の碑銘の右に“みるく”と刻まれている。 ファガナシーが「五穀豊穣、みるく世果報(ゆがふう)」と祈ったと思われる洞穴を発見。 何不自由のない豊穣で平和な世の中を願って玉城から渡ったファガナシーは、久高島島立ての祖。 そして、英祖王統の時代に途絶えていた古代の祭りを再興した神女。 ミントン家が祭祀を執り行っていた場所が、玉城にある垣花の御嶽だった。 古代祭祀とは、天皇の祭りや、琉球王朝の聞得大君御新下りとも同じ様式の「再生の儀式」である。 ▲
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| 2013-12-25 19:34
| 久高島
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CSG基地の駐留時代は二重の金網に囲まれて、基地内で唯一、参拝の許可が下りなかった垣花の御嶽。
前回、それは垣花城跡から遥拝された威部だと書いたが、語り部の宮里聡さんが言った。 「仲村渠(なかんだかり)や百名の集落でも、垣花の御嶽は大切にされていましたよ」 仲村渠とは、ミントングスクのある集落名で、王府時代までは上百名といった。 なるほど、垣花の御嶽は、周辺のすべての集落から崇められていた御嶽だった。 「ミントンの娘・ファガナシーも当然、ここで拝みをした?」 「もちろん、そうなりますね」 「では、垣花の御嶽で行われた古代祭祀を、ファガナシーは久高島へ伝えたと?」 「久高島にも“みるくの御嶽”がありますからね」 「あ〜、ミルク繫がりですか!?」 久高島のミルクの御嶽は、ファガナシーとシラタルが住んだとされる「アグル嶽(らき)」にある。 垣花の御嶽のもっとも奥まった場所に「ミルクの墓」はある。なぜ墓というのかは分からない。 ミルク=弥勒。古くは6世紀より、弥勒信仰は中央・東南アジアから中国大陸まで広く浸透した。 沖縄では五穀豊穣をもちらす「ミロク神」として、八重山や首里の祭りに出現するが、 ミルクの名がつく御嶽は、沖縄本島南部では、ここ玉城と久高島の2ヶ所にしかないという。 この「ミルク」も、五穀豊穣をもたらす御嶽だった。築造時期は不明。積まれた切り石が美しい。 ファガナシーが久高島で興した古代祭祀はイザイホーの原型だったと以前書いたが(記事はこちら)、 さらにさかのぼれ、古祭イザイホーの発祥地は、このミルクの墓を含む垣花の御嶽ということになる。 こちらは、垣花の御嶽の近くにある「中森の御嶽」(なかむいのうたき)。 またの名は「夜明けの御嶽」、「根御嶽(にーうたき)」、「くしの御嶽」(家の後ろという意味)。 垣花の御嶽と同じく、アマミキヨを崇める御嶽である。拝所の屋根にゴルフボールが並ぶ。 ミエおばあ家の隣、ウメおばあ家(上之当大城(いーのあたいのうふぐすく))の屋敷跡を示す石碑。 ゴルフ場の中、中森の御嶽の入口近くにあり、ここが古代からの集落だったことが窺われる。 御嶽一帯は往古のままの面影。ボールを打つ音、遠くから「ナイスショット」の掛け声、 琉球アオバトの鳴く声が耳に届く。時代が折り重なって、いまに凝縮しているかのよう。 ▲
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| 2013-12-22 09:52
| 御嶽
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垣花の御嶽に初めて行ったときから、しばらく解けない謎があった。
古来この御嶽は玉城にあったのに、なぜ垣花という名がついたのか。 実は垣花という集落は、垣花の御嶽から約1㎞離れた北に現在もある。 こちらも古い土地で垣花城跡はじめ、遺跡、製鉄所遺跡、ミントン門中墓などが集中している。 ならばなおさらのこと、なぜ、垣花の御嶽だけ、ポツンと垣花から離れているのか。 位置関係を、駐留当時のCSG(混成サービスグループ)基地の写真で眺めてみる。 基地北西にあったゲート(現在のゴルフ場正門)近辺からの風景だが、 正面奥の右手、麦わら帽子型の山が玉城城、写真のほぼ中央の小高い山が、垣花の御嶽の一帯、 そのすぐ右に旧玉城一区という集落が、戦前まであった。 垣花城跡はそこから目を左に転じ、写真の左端から外れてしまうあたりにある。 ※写真下のキャプションは『玉城村誌』に掲載のもの。(『玉城村誌』(1977年、玉城村役場編より) さて、写真の左方向にある垣花城跡は、一説に600年以上前の築城。 垣花城跡の案内板(昭和36年建立)の説明によれば……。 この城跡は、一の郭と二の郭からなり、垂直に近い野面積みの城壁を有している。場内の最も高い所 に経つと、太平洋を眼下に、南の低地に百名、仲村渠の各集落、北に垣花を眺望することが出来る。 城の歴史については記録や伝承がなく不明である。ふたつの郭には、それぞれ小面積の平場が確認 され、現在ではアワダン、クロヨナ、ツゲモドキ等の熱帯樹が繁茂している。一の郭の奥には御嶽 があり『琉球国由来記』によると神名は「アフイハナテルツカサノ御イベ」と記されている。 しかし、神名が手がかりとなって分かったことは、この案内板が間違っている?ということだった。 琉球王府が編纂した地誌『琉球国由来記』(1713年)と『琉球国旧記』(1731年)いずれにも 「垣花之嶽 アフイハナテルツカサノ御イベ」が「玉城村」にあると記され、垣花村の項にはない。 また、同じ玉城村の項に併記される御嶽は、垣花の御嶽の近くにある中森の御嶽。 ふたつの地誌は、玉城にあるこれらの御嶽が王府時代以前から存在したことを示している。 神名のアフイハナテルツカサとは、 (最高神を迎えるための)日傘(あふり)をさす神女」のこと。 いっぽう、中森の御嶽の神名は「国之根ウラウシナダルワノ御イベ」。 こちらは「浦を保護する首長の神霊」の意味で、いかにも至高の御嶽を思わせる神名。 ちなみにウラウシは浦襲(うらおそい)と同義で、浦添(うらそえ)の語源という。 垣花城跡本丸。 こうした琉球石灰岩を野面積みにした城壁が各所に残る。その右が一の郭。 城内にある御嶽は『由来記』『旧記』によれば、照城之嶽と照城小嶽。 日本名水百選・垣花樋川(ひーじゃー)。かつての生活用水を得る場はいま、癒しの場として人気。 垣花樋川脇の坂道を行くと、弥生時代後期のゴホウラの貝輪が出土した垣花遺跡がある。 沖縄以南の南島でしか獲れないゴホウラ貝だが、この貝輪は『魏志倭人伝』で不弥国 に比定される飯塚市の遺跡から出た立岩型貝輪と同型の、半加工品と判明している。 それは制作途中だったのか、誰かが運び込んだのか、落として行ったのか。 いずれにしても、邪馬台国の時代から、ここ垣花と北九州の間になんらかの交易があった という歴史を示している。そんな垣花集落の人々が崇める聖地が、垣花の御嶽だったか。 一説には三山分立前に垣花城を築城したというミントン按司もまた、垣花の御嶽を遥拝したか。 ところで、そもそも「垣花」の意味とは? CIAによる封印が作為的だったか地理的な要因によったかを解く鍵は、その言霊に隠されていると思う。 ▲
by utoutou
| 2013-12-15 15:05
| 御嶽
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福岡から東京に帰る途中、宇佐神宮に寄った。博多のホテルを朝6時に出発。
新幹線と特急ソニック1号を乗り継いで、8時04分に宇佐駅へ。 10時半前に宇佐駅を出る快速バスで大分空港へ向うという、無作法な駆け足参拝である。 とりいそぎ、宇佐神宮本殿に参拝を。 と、タクシーに乗り頼んでみると、本殿裏の南大門へ直行してくれた。 ここからは確か百段の石段を登るのだと覚悟していたら、なんと平行して超速モノレールがあった。 一之殿 八幡大神(応神天皇) 二之殿 比売大神(多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命) 三之殿 神巧皇后 上の写真は本殿中央の二之殿。左が一之殿、右が三之殿と並んでいる。 主祭神は八幡神であるのに、何ゆえ比売大神が中央に鎮座されているのか。 実は三女神、八幡神ともに、沖縄に所縁のある神様だと私は考えている。 それについてはまた別途述べたいが、ともかく古代宇佐氏=海部(あまべ)の民である。 沖縄の始祖・アマミキヨの語源が「アマミ・アマベ・アズミ」であれば、決して無縁ではない。 大分の名物のあの琉球丼も、元々の由縁は古代海人族の往来にあったかもしれない。 本殿の正面に「大元神社遥拝所」があった。 額縁に首を突っ込むようにして山々を遠望。山脈の左、丸みを帯びた三角の山が大元山(標高647m)。 宇佐神宮の東南5km。下の写真左に写る木板に、次の説明があった。 左手奥に見える山が、宇佐嶋とも呼ばれる御許山(馬城峰)です。 宇佐神宮発祥の聖地として摂社大元神社が鎮座し、現在でも毎月の祭祀が厳修されています。 宇佐嶋……『日本書紀 』神代上一書に出てくる地名だ。 曰く「市杵嶋(いちきしま)姫命、湍津姫(たぎつひめ)命、田霧姫(たぎりひめ)命の三女神が宇佐嶋に降りまさしむ」 これは登らねばと思ったが、時間制限もあるのでタクシー参拝を試みた。 「はぁ女神さんのほうへですか。それなら」と運転手さんは国道10号線をいったん西へと向かい、 山麓を迂回する西屋敷ルートをとった。長閑な集落を抜けて山道に入ったが、これがたいへんな悪路で。 「素人の運転じゃ脱輪してサラバじゃ。立ち往生してタクシー会社に代行運転を頼んでくる人もいる」 と、温厚そうな運転手さんがボヤくほどの険しい修験道。 うっかりすると、後部座席でひっくり帰りそうになる。途中見る景色のたおやかさとは裏腹に。 ラリー走行20分+徒歩10分で、宇佐神宮奥宮・大元神社が見えてきた。朝9時前、さすがに人の気はない。 さて、宇佐の地の地主神である三女神が「比売大神」として、 宇佐神宮本殿の二之殿に祀られるようになったのは、八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)。 帰宅して手に取った本『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』 (宇佐公池守57代目の宇佐公康著氏著、1990年、オリエントブックス)にその経緯が綴られているが、 抗し難く八幡信仰へと祭祀が変更されていくなか、地主神を守り抜いた宇佐氏の執念が伺われる。 以下引用。 一之御殿の創建後、五年遅れて聖武天皇の天平三年(七三一年)に、神託によって現在の二之殿 (本殿の中央)を造営し、(中略)神代上第六段(一書第三)の条に見える宇佐嶋の旧跡地と 伝えられる御許山(大元山または馬城峰(まきのみね)とも呼ばれている)の頂上に、 太古から宇佐氏族の氏上(族長)によって祀られていた比売大神 (三女神または天三降神(あめりみくだりのかみ)・宇佐明神ともいう)を勧請した。 この祭神は間違いなく宇佐家の母系祖神であって……(略) 宇佐神宮奥宮・大元神社。 山の頂きには御神体である三体の巨石があるとも言われるようだが、禁足地ゆえ詳細は不明。 拝殿の横から奥宮の鳥居ぎりぎりに近づくと、射し込んだ木漏れ日が一気に膨らんだ。 さしてスピリチュアルな人間ではないが、尋常でない大元の女神パワーが感じられた。 ▲
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| 2013-12-09 06:37
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所用で博多にいるので、昨日は宗像大社に行こうとしたが、着いたのは予想外の駅だった。
11:23 博多 JR鹿児島本線快速・小倉行き (540円) 11:51 東郷 スマホのメモ欄にはそう記してあった。東郷駅から宗像大社まではバスで12分。 順調ならその後、神湊へ行きフェリーに乗って中津宮のある大島まで。 大島では、女人禁制の沖津島が見える北端の遥拝所に立てるかもと、期待していた。 そろそろ東郷かと電車を下りる支度をしていると、何やら胸騒ぎな車内アナウンス。 「まもなく、久留米〜」 あらま。。ようやくそこで、乗る電車を間違えていたことに気がついた。 どうやら、まったく同じ時刻に博多を出た、同じ鹿児島本線の、逆方向の電車に乗ったらしい。 そんなわけで、止むなく計画を変更。久留米駅から2駅目の久留米大学前駅まで行き、 耳納(みのう)山地の西端にある高良大社(こうらたいしゃ)に馳せ参じた。 旧国幣大社、延喜式内明神大社、筑後国一の宮、創建は西暦400年と、御由緒書にある。 高良大社の御祭神は、八幡大神(はちまんおおかみ) 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) 住吉大神(すみよしおおかみ) ここは神籠石(こうごいし)で有名な、あの高良大社ではないか! ということに気がついたのは、本殿裏の神域へと坂道を登りきり、振り返ったときのことだ。 実は一度、高良大社の神籠石について調べたことがある。 「高良」(たから)という地名が沖縄本島には何ヶ所かあり、高良さんという名字もある。 読みは違うが高良と高良。過去に何か民族的な交流があったのではと推理してみたりした。 ただ、神籠石とは山全体を要塞とするべく囲んだもののはずで、これではあまりに短距離。 そこで再び坂道を下り、振り返って列石を見る。 さらに下りてみて、やはり神籠石だと確認。神籠石とは古代、神域を囲むものでもあった。 最初に登るときには気がつかなかったが、登り口に「史蹟 神籠石」と石碑が建っていた。 改めて調べると、神籠石とは、7世紀頃に築造されたとされる列石遺跡のこと。 その名が高良大社「縁起」に記されていたことから、1898(明治31)年に小林庄次郎氏が、 「神籠石」として紹介。聖域の境界石として、広く知られるようになった。 ところが、明治33年(1900年)に八木奘三郎氏が「城郭」説を打ち立てて反論。 以後「神籠石論争」が勃発したが、半世紀を経て「古代の城郭 」であると決着がついた。 最近では「神籠石」のある10自治体が「神籠石サミット」を始めたが、「城郭」説は覆っていない。 一部の神籠石遺跡から城郭の基礎となる土塁が発掘されたこと、 築造が白村江の戦いの後にあたるため、国土防衛の必然があったこと等がその根拠だ。 しかし、ここ高良山に限っては……? 神籠石を見つめながら考えた。 論争が勃発した以降も各地で発見された神籠石だが、この成り立ちには二極対立ではなく 「聖域」から発展した「城郭」という「複合説」の視点があってもよいのではないか。 沖縄における城(ぐすく)の成立に「グスグ展開説」があるように(過去記事はこちら)。 沖縄には「城(ぐすく)とは、聖域から城塞化したものもある」という説があり、実際、 古代の御嶽から、三山時代(いわば戦国時代)の戦死者らしい人骨も多く発掘されている。 神は石を依り代とするらしい。だから神奈備は動かない。動くのは人の世で、そこに時間が流れる。 神籠石もまた。などと、つらつら思いつつ、 神山で神籠石に浸るうちに時は過ぎ、ここ東郷の宗像大社に着く頃には陽も西に傾き始めていた。 とはいえ、図らずも嬉しい大社めぐりの旅。 14:03 久留米大学前 JR久大本線 14:29 久留米 JR鹿児島本線快速・小倉行 (1,430円) 15:34 東郷 バスで宗像大社へ。 ▲
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| 2013-12-06 12:59
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CIA基地の「Zエリア」だった垣花の御嶽のことは、
戦前、玉城に生まれたふたりの神女(かみんちゅ)の言い伝えを抜きにして語ることはできない。 が、その前に、垣花の御嶽の現状をレポート。 ゴルフ場の休業日にのみ許可される御嶽参拝。私は今回、玉城に住む知人に同行させていただいた。 垣花の御嶽、正面の威部(いび、至聖所)。 鳥居のように伸びた木の枝をくぐると、その先に見上げても全体が分からないほど巨大な磐座がある。 威部の前には香炉が置かれ、学校の講堂ほどの広さの空間は、木々が伐採され綺麗に整備されていた。 神女たちの秘伝では、1万年以上前に渡来した古代天孫氏の住まいであり、祭祀場であり、王族の墓。 まさかそんなに古い文明の歴史があるとは……。 玉城にかすかに残る伝承を、無理なく理解するようになるまで、思えば数年の歳月を要した。 威部の前でふと足下を見ると、不思議な石があった。太い鉄管に貫かれている。 前回、ここに入ったときには気がつかなかったが、CIA基地の名残りか。 「川泉から水を引いていた跡か何かなんでしょうね」と、知人はあっさりと言った。 知人が基地の返還直後にここに来たときには、スパイ収容所の建物を壊したところだったらしく、 おびただしい数のバイプ建材や鉄線が、山積みになっていたのを目の当たりにしたという。 基地の撤去が急きょ決まり、慌ただしく去って行った状態を、如実に物語るエピソードだ。 さて、語り部の宮里聡さんが神事についての教えを受けた、ふたりの神女について。 ひとりは、語り部が「ウフグスクのおばあ」と呼んだ大城ウメさん(のことはこちらにも)。 もうひとりは、語り部が「ナーカのおばあ」と呼んだ仲村ミエさん(のことはこちらにも)。 ふたりは平成の時代に入って相次いで亡くなったが、 琉球発祥の地の神女として、80歳を過ぎても御嶽廻りを欠かさない信念の女たちだったという。 ミエさんは、英祖王統4代・玉城王(1226〜36年)の末裔である 屋号、仲加(なーか)・根所(にーどぅくる)に嫁いだ。 ウメさんは、英祖王統5代・西威王(1328〜49年)の末裔である 屋号、新門(みーじょー)・上之当大城(いーのあたいのうふぐすく)に嫁いだ。 そして、仲加家(なーか)と新門家(みーじょー)の屋敷は、戦前まで玉城城のお膝元にあった。 玉城城一の郭から、改めて神女たちの屋敷跡を見てみる。 眼下に走る道路が現在のグスクロード。グリーンの中、こんもりした森の手前に、 戦前まで玉城一区という集落があり、仲加家と新門家の両家は、その集落の中央で隣接していた。 こんもりとした森を「中森の御嶽」(なかむいのうたき)という。またの名は「夜明けの御嶽」、 「根御嶽(にーうたき)」、あるいは「くし(後ろ)の御嶽」(家の後ろという意味)ともいう。 垣花の御嶽は、この中森の御嶽の後ろ側にあった。 さらに後ろの山は、玉城王と西威王父子の眠る宝城(タカラグスク)。 このタカラグスクを、おばあたちは「御先(うさち)ゆーどぅり(墓)」、また垣花の御嶽を「御先(うさち)垣花」とも呼んだ。 上古代からあった御嶽であるという伝承そのままに。 つまり、玉城台地の天頂に位置するこの一帯は、沖縄最古の文明の発祥地だった可能性がある。 CIAが置いた収容所の建物は数棟あったという説もあることから、 「Zエリア」とは、垣花の御嶽だけでなく、この聖域一帯を指していたのかもしれない。 間違ってはいけないのは、英祖王統は、時を越えて再来した古代天孫氏の末裔らしいということ。 垣花の御嶽、タカラグスク、中森の御嶽は、沖縄の古い方言で「イリク」(新旧入り混じったお墓)。 古代王族の墓陵に、今来の王族が追いかけるようにして収まり、眠っている。 ウメおばあ、そしてミエおばあは、 うさち(古代)から連綿と続いた天孫氏=アマミキヨすべての御霊を祀った「最後の神女」だった。 グスクロードの始発地点である糸数に立つ案内板。 グスクロード沿いには、アマミキヨが築いたという糸数、玉城、垣花という3つの城跡がある。 道路沿いではないが、垣花城跡から徒歩数分の場所に、ミントングスクもある。 琉球発祥の地にあるこの道を車で走るとき、私はいつもザワついた気持ちに襲われる。 グスク群は海を見下ろす崖上に立っているが、それが要塞なら、いったい何を守ろうとしたのか。 もしや、うさち天孫氏の王墓を、外敵から守ることを目的として造られたか。 そしてCIAは、この一帯が最古の地であることを知っていたからこそ封印したのではないかと。 ▲
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| 2013-12-03 23:02
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玉城(たまぐすく、沖縄県南城市)にあったCIA基地について「知らなかった!」という声を聞いたので、
該当部分をもう少し見てみようと思う。特に「Zエリア」=垣花の御嶽について。 “Zエリア”という名の秘密工作員強制訓練所 “Zエリア”とよばれる秘密工作員強制訓練所が、CSG内の山のくぼ地にあり、外界から完全に隔離された二重の金網のなかで、拉致されてきたベトナム人などアジア人、たまにはアメリカ人までが、CIAの秘密工作員になることを強要されている。目かくしをされて連れ込まれることもある。約十五年間もここに閉じ込められていた中国人もある。“Zエリア”は約1〇〇〇平方メートルあり、三棟の平屋の収容施設があるが、この収容施設内のすべての会話は、ここをおとずれた米人保安部員らと収容者との会話も含めて、ずっと離れたCSGの本部ビルで聴取されるしくみになっている。ここには、Z記号のついた特別のパスをもった者以外は、いっさい立ち入ることができない。“Zエリア”とよばれる秘密工作員強制訓練所のことは、共産党調査団が明らかにするまでは、存在自体が秘密のベールにかくされたままであった。 約五五万坪という広大な面積を占めるCSGのなかには、沖縄中の多くの人びとが信仰の対象としている拝所が数ヵ所ある。アメリカ当局は、それらの人びとが拝礼のためにそこをおとずれるさいには、きびしい警備態勢をとりながらも一応許可しているが、垣の花御嶽とよばれる拝所だけはこれまでただの一度も許可されたことがない。垣間の花御嶽は、問題の“Zエリア”の内にあるものとみられている。 (『調査報告 沖縄米軍基地』('72年、日本共産党国会議員団篇)より) CIA基地の撤去が決まったのは、'71年10月、国会で共産党議員が質問したその当日のことだった という経緯もこの本には記されており、「キャンプ知念」が秘密基地とされた背景には日米の密約 があったのでは?と思わせて、秘密保護法案でヤキモキする今、改めて読み返すとなおさら興味深い。 琉球ゴルフ倶楽部の正門。琉球の赤瓦が美しく、名門コースらしいただすまい。 場内には英祖王統の王墓が3ヶ所ある。王墓や御嶽はこのゴルフ場に守られてきたとも言える。 ところで、垣花の御嶽とは、どのような場所なのか。 玉城の伝承を継いだ神女おばあは「ヤファシの御嶽と同じくらい古い御嶽」と言った。 御嶽であるからには墓地でもあるはずで、それならば誰が埋葬されているのか。 何しろ古代のこと、はっきりしたことは分かっていない。が、とにかく「アマミキヨ」ではある。 そこで、CIA基地もあった場所の地形を概観しながら考えた。 これは、玉城のちょっと古い地図(大正8年、参謀本部・陸地測量部)。赤と青の印は筆者による。 中央の青い星印が「垣花の御嶽」。その右下の青丸がミントングスク。海沿いの青丸が薮薩の御嶽。 逆に、アマミキヨの渡来した薮薩の御嶽から一直線に登るとミントングスク、そして、垣花の御嶽。 赤丸は、左から糸数城跡、玉城城跡、垣花城城跡。 3点をつなぐと、現在、観光客にも人気のグスクロード。大正時代からこの道があったのが分かる。 右上の青丸は、斎場御嶽のある南城市知念久手堅(くでけん)。 そのあたりから左の赤丸の南城市玉城糸数まで、鳥が羽根を広げたように見える白い部分は、 琉球石灰岩でできた玉城台地(私の勝手な命名)の、いわば屋根の部分。 長さ約10km。一説にはギネス級の1枚岩である。 地図を見ると等高線との関係から、グスクはいずれも玉城台地の海の見える突端にあるのが分かる。 グスクとはアマミキヨが造った要塞なのか? あるいはもっと古代の高地性集落の聖域だったのか? 「垣花の御嶽」は玉城の随一の水源地かと思ったのは、1枚のスケッチを見ていたときだ。 鎌倉芳太郎氏の著『沖縄文化の遺産』(大正15年)に、 玉城を調査して描いた3㎝四方ほどの自筆イラストがあった。 図中、上に描かれているのは玉城台地(の一部、ミントングスクあたり)の断面図。 鎌倉氏はこの著書で、ミントングスクは丘陵の出っ張りで「太陽の神殿」だと記していたのだった。 図の下は、稲作の発祥地・受水走水と、三穂田(みーふーだ)の平面図。 そして2年前、初めて垣花の御嶽に参ったとき、その一帯に確かに川泉(カー)の跡があるのを見た。 稲作渡来民であったアマミキヨは、川をさかのぼる民でもあったか……。 ▲
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| 2013-12-01 17:58
| 御嶽
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