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夏至の朝日を迎えるよう設計された城(ぐすく)がある。
玉城城(たまぐすくぐすく)だ。 琉球の創成神アマミキヨが築いたと『琉球国由来記』に記された琉球最古の城跡。 英祖王統4代・玉城王(在位1314〜1336年)が居城としたとも伝わる。 城内の御嶽「テンツヅアマツヅ」は、琉球七御嶽のひとつ。 琉球国王が親拝して五穀豊穣・国家安泰を祈願した聖地であった。 標高180m。本丸、二の丸、三の丸があったが、沖縄戦で破壊され、この本丸だけが残った。 坂道と石段を数分登ると、自然石をくり抜いた本丸(一の郭)の城門に着く。 人ひとり通るのがやっとの「門」だが、夏至の日は、朝日を受け止める「太陽の門」となる。 光は城内中央の御威部(オイべ、至誠所)を射す。 「いや、威部の前の香炉にピシッとあたるのだ」と言う人もいる。 東京から久高島に通い始めた6年前の春、沖縄県立図書館で 『玉城城城跡整備実行計画報告書』(2005年、玉城村教育委員会)という冊子を見つけた。 「往時規模・形態の測定」の箇所には、平面図に併せて次のような記述がある。 〜玉城城跡の平面形態の特徴は、 軸角が夏至方向に向いていることが大きな特徴としてあげられるが、 このような軸角を有するグスクは他の事例でも多く見られる。 玉城城においての大きな特徴は、一の郭のほとんど軸角が夏至の軸を基本に設計されている ことがあげられ、特に、一の郭の門(スーフカ)正面にあるアマツヅ御嶽は、 夏至の時期に日の出とともに太陽の光を受けるよう設計されている〜 ※報告書より引用。赤線は著者による加工。報告書では青線。 ※玉城村は、2006年の市町村合併により南城市玉城となった。 一の郭からは、道路(グスクロード)の先に琉球ゴルフ倶楽部のグリーンが広がる。 右上の水平線に浮かぶ久高島が、夏至の朝日が昇る方向。 一の郭と久高島とを結ぶ「太陽の道」ということになる。 写真中央に写る(ゴルフ場内の)一際高い山には、 この聖地を直轄した王たちの王墓と王妃の墓がある。 また古代琉球の神々が封印されているのだと、後に出会う語り部から聞くことになる御嶽がある。 誰が一の郭の門(スーフカ)を作ったのか。それは、築城者であるアマミキヨとは誰か? という謎を解く鍵だ。 しかし、その謎を解いた人は今もっていない。 久高島や玉城の人に「アマミキヨって誰のこと?」と聞いて、もっとも多く返ってきた答は「あっちから来た人だよ」というものだった。 つまりアマミキヨとは、渡来人の総称というわけだ。 琉球の始祖アマミキヨが渡来人なら、大和からか、大陸の北からか、海ルートで南からか。 諸説紛々とするなか「稲作と共に渡来した」ことは共通している。 いっぽう「アマミキヨ天降り」「アマミキヨ・シロミキヨ」というように神名として語られる琉球創成神話においては、 大和の記紀神話でいう「イザナミ・イザナギ」がオーバーラップする。 「キヨ」あるいは「キョ」は人という意味。いっぽう「アマミ」に関する学説では、 「海人(あま)」「海部(あまべ)」「安曇(あずみ)」 (いずれも古代末までに九州南西部に定着した海洋民)から転訛したという説、 「奄美から来た人」という意味だという説がある。 玉城城一の郭の別名「スーフカ」とは、地元では「潮吹貝」の意味。それは権力の象徴だった。 古代に南下して定着したアマミキヨは城(ぐすく)に拠って村を統率し、 大和や大陸との貝交易で財力をなし、 「按司(あじ)」「てだ(太陽)」と呼ばれるリーダーとなっていった。 海部(海人)が活躍した古代から、12〜15世紀の按司時代まで。 アマミキヨに関する歴史と伝承は、一般的には紀元前まで遡ることはない。 写真左の方向に位置するゴルフ場正門を出て、馬天港(南城市佐敷)までなだらかに下降する道 (県道137号佐敷玉城線)は、かつて「貝の道」と呼ばれた。馬天港は古からの貿易港。 そして佐敷は琉球三山統一の覇者である尚巴志ゆかりの土地だ。 ところで、貝は按司時代を招来したとされる夜光貝(螺鈿の材料)だけとは限らない。 ここ玉城には3千数百年前の貝塚や遺跡があり、ゴホウラ貝などの遺物も出た。 ちなみに車で10分走れば、1万8千年前の人骨(港川人)が出た八重瀬町に着く。 スーフカ=潮吹貝。 さて、潮を吹くのはどっちの貝? また、玉城城を築いたアマミキヨとは誰のことだろう? ▲
by utoutou
| 2013-07-28 03:43
| 玉城
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沖縄県南城市にある久高島。知念岬の東方5.3kmに浮かぶ珊瑚礁の島。
琉球王朝時代よりの至聖地である斎場御嶽(せいふぁーうたき)からは、島影を望みつつ遥拝できる。 安座真港から船で20分で着く「離島」である。周囲約8㎞、標高の最高は17m。 細長く平たい島で、夏至の日の出の方向、東北東に伸びている。 古に王城の地であった浦添と首里からも、太陽が昇る東に位置する。 琉球の始祖アマミキヨによる国づくり神話を伝え「神の島」として知られ、 年に30回近くあった祭祀が、ついこの数年前まで続いていた。 先史時代やグスク時代の遺跡も数多く点在。一説には日本の神々の原郷であると。 地層に古代を幾重にも秘めたまま、その全貌は未だ明らかでないという、まことに謎めいた島だ。 とうに50回は通ったこの島で、いつも伊敷浜に出て日の出を待つ。 琉球国王が聞得大君を伴い行幸した聖なる浜。 ニライカナイからの来訪神が寄り着くこの海で。 ところが、日の出時刻が5:38だったこの日、うっかり寝過ごして、伊敷浜に着く前に夜が明けた。 それがむしろ幸運だったかもしれない。 東北東、島の先端に位置するカベール岬の方向から、朝日が昇る瞬間に遭遇した。 「神の島」を貫いて光る夏至の朝日。1年のうち最大の太陽。とてつもなく眩しく力強い。 対岸の本島、南城市玉城にある玉城城(たまぐすくぐすく)の一の郭は、この朝日を射通す設計になっている。 レイライン。太陽の道。太陽信仰の痕跡である。 「イシキ浜」の看板で右に曲がり、防風林の小径を駆け下りて、砂浜で海に向って立った。 ここでは太陽は左端に照り輝いていた。 いっぽう、冬至の朝日はというと、下の写真のように伊敷浜の真正面から昇る。 ※2009年撮影。単行本『おきなわルーツ紀行 聖書でひも解く沖縄の風習』 (小林ゆうこ、与儀喜美江共著、2010年、球陽出版)のカバー写真になった。 夏至の季節と違って、金色の輝きは優しいエネルギーが満々。 太陽が最小になる冬至を、世界各地の古代人は「太陽の誕生日」として祝った。 沖縄には今も「トゥンジジューシー」(冬至の炊き込み御飯)を、神壇に備える風習がある。 私が育った北海道では「冬至かぼちゃ」と呼ぶ、かぼちゃ入りぜんざいを食べる風習がある。 極寒の冬に向う支度だが、幼い頃はなんだか晴れがましい気持ちで食べたものだ。 久高島の二至に昇る朝日は、太陽の神性を存分に気づかせてくれた。 というより、思い出させてくれたというべきか。 ▲
by utoutou
| 2013-07-25 21:31
| 久高島
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by utoutou カテゴリ
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