引退間近の女優にコンドームなしでファンとセックスすることを持ちかける映画を「ぜひ見るべき」と好意的に絶賛推奨するエントリーを読んで、「これはリアルハンガーゲームだ」と思った。わたしはポルノとアダルト産業に従事する方々を応援している。なのでこのようなその場しのぎの焼き畑農業みたいな状況は是正されるべきだと思う。
ハンガーゲームのあらすじ
「ハンガーゲーム」は既得権益を持つ支配者側の市民が、下層階級から無作為に選ばれた子供たちの殺し合いを視聴して楽しむ映画。
「無作為に選ばれた子供たちの殺し合い」ということで、「すわバトル・ロワイヤルのパクリ!」と一時期騒がれた。しかしこの映画は「残酷な殺し合い」以上に、支配階級の偽善の醜悪さ、悪質さ、卑劣さと歪みが皮肉たっぷりに描かれていて、これは現在現実に起きていることでもあると深く考えさせられた。
戦地に送り込まれた少女カットニスが彼らの心理を逆手に取り、支配階級の人気と好意を勝ち得るように配慮しながら戦略を練る様子も興味深い。彼女は貧しく何の後ろ盾もない。彼女の命を娯楽として消費する側から、いつどんな理由で命を奪われるかわからない。カットニスはゲームに勝つことと同時に彼らのゲームのルールに則っていらぬ不興を買わないようにすることに心を砕く。
あきらかに異常な状態に閉じ込められた子供たちを見ていながら、視聴者は「リアルな若者の生き様」を見ている気分でいる。極限状態に演技の余地はないと考え、戦略のための疑似恋愛にうっとりし、命乞いに涙する。髪の毛一本傷つかない安全な場所から、お気に入りの「プレイヤー」に感情移入したつもりになり、応援している気持ちになり、自分は彼らの味方だとすら考えている。しかし実際にはこの残酷なゲームの場を作って彼らを戦場に送り込んでいるのはこの視聴者なのだ。
子作りと性欲
「孕む、孕ませる」は生命の根源的欲求である。有史以来性交の目的はどうあれ、帰結は妊娠であり、出産だった。確実な結果を出す避妊具、避妊薬が開発されてからまだ100年足らずしか経っていない。
避妊をせず性関係を持ちたいというのはゴムがないほうが感覚が妨げられなくていいという問題ではない。そうであれば視聴型の孕ませ系エロゲやポルノがこれだけ人気をえるわけはない。問題はゴムの感触ではない。愛する人の子を宿したい、自分の子を宿してほしいという衝動は厳密には肉体的な快感とは別のものだ。*1
その衝動は強く抗いがたい。それ自体は健全でなんら恥ずべきものではない。
とはいえ妊娠、出産には育児と社会的責任が伴う。孕みたい、孕ませたい。でも育てたくない。避妊具、避妊薬によってこのような葛藤を回避する道が出来た。しかし避妊は有史以来人類が従ってきた「未来を運命にまかせて自然の衝動に従う」というモデルに理性的に抗うものだ。そして理性は往々にして性欲を抑える。性欲を掻き立ててなんぼのポルノ産業が孕ませ系を売りにするのは自然の成り行きだといえる。
AVの基本は性的ファンタジーの映像化にある。あなたの子を宿したいという女性に求められ(あるいは死んでも妊娠したくないと抗う女性を組み敷いて)受胎させるというのは自然の欲求に沿ったありふれたファンタジーだ。動物は「どうか妊娠しないでくれ」と考えたりしない。そもそもさかりがつくのは繁殖の時期なのだ。
ポルノメディアのハンガーゲームぶり
性的ファンタジーの幅は広い。ロマンチックなものから最低でも終身刑は免れないものまでさまざまだ。日本ではこれらのファンタジーの大半を果敢に拾い上げて作品にしている。需要があれば作るし、売れれば金が入る。これは世界でも特異な文化だと思う。
わたしは日本がさらに幅広い需要と性的志向に応えるAV作品やポルノを生み出すことを期待している。そのためにはAVタレントが演じる役柄とAVタレント自身の境界があいまいにされたり、AVタレントの私生活や生身の身体や人生が脅かされるようであったりしてはならない。
「誇りを持ったお仕事」「ファンの皆さんに喜んでいただきたくて」「スタッフみんなでがんばって作りました」といった煽り文句で出演者に怪我や病気、性病や妊娠の危険にさらすことがあってはならない。そのような事態を「リアルな作品」「情熱的で魂のこもった作品」として歓迎するのはハンガーゲームの構図だ。
著名なはてなブロガーが仕事を辞めるにあたって「愛されたくてブロガーになりました。引退記念に100キロ完走した私のファンとゴムなしでセックスします!」と宣言したらどうだろう。まず大騒ぎになる。はてなもホッテントリ入りさせないだろうし、ブログを強制非公開されてもおかしくない。
「大丈夫、ピルを服薬しています」「信頼できる人が面接してくれましたし、性病検査も受けたと聞きました」と書いたら安心するか。しないだろう。「走ってるところとセックスは後ほど有料公開します」と書いたら歓迎されるか。大問題になるだろう。さらに問題なのは「赤の他人とゴムなしでセックス」を言い出したのは関係する本人ではなく、それを撮影して有料で公開しようという人間だということだ。「あのはてなブロガーさんに引退記念としてゴムなしセックスを了承してもらいました!孕ませたい人を募集します!」これを「観た方がいいやつです!」と宣伝するだろうか。
ところがひとたび「AV」の枠に入ると基準が変わる。ハンガーゲームの世界でバトルフィールドでの殺人が罪に問われず、そこでの死が予期されたものであるように、AVと名がついたとたんに視聴者の感覚は鈍る。そうか、AVか。AVタレントがゴムなしでセックスするのか。それなら大丈夫だろう。精神的にも遺恨が残らず、心理的ダメージも受けないし、肉体的にも安全だ。なにしろAVタレントなんだから。
もしかしたら精神的にも心理的にも肉体的にもダメージを受けるかもしれない。100%の避妊はありえないのだから、性病検査も完璧ではないのだから、取り返しのつかないことがおきるかもしれない。でも自己責任だ。AVタレントなんだから。そんなのやる方が悪い。
ドキュメント風AVのトリックと異常性
レビューによると「青春100キロ」の映像の大半は男性だけが写っているという。走る男性、それを追う撮影者。尺でいえば主演女優はほとんど出てこない。これはいっけんAVのセオリーから外れているように見える。しかしこれこそがいかにもAVの演出だとわたしは思う。
本来の意味での引退記念ドキュメントであれば自分を孕ませたいと喧伝する男性を待つ女優がどう過ごしているのかを見せるはずだ。ピルを受け取りにいくところ。ピルの服用で妊娠の可能性がどのくらいなのかを語る医師。これまで妊娠した経験はあるのか。仮に妊娠した場合、産み育てる考えはあるか。出産、人工中絶費用は契約事項にあるのか。監督や出演者とその点で話し合ったときどう感じたか。契約を断った場合違約金はあるのか。
しかしこういった女優サイドの事情が語られることはない。女優のプライバシー問題だからではない。夢が壊れるからだ。AV女優の使命は性的ファンタジーの具現化であって、孕ませ系ファンタジーには妊娠する身体を持った女性と宿った子供の「その後」が現実的に語られることはないからだ。*2
AV女優のつぼみが妊婦系AVに出演したときのこと。撮影中膨らんだ腹を特撮で作ったことを仄めかしたブログは「ネタバレになる」と指摘され、すぐに非公開になった。作品にはつぼみが産婦人科に母子手帳を取りに行くシーンがあった。つぼみの妊娠を本気にしたファンが、後日握手会に出産祝いを届けにいき、ついにつぼみ自身が「あれは演出です」とブログに書いた。
AVタレントはほかのタレントと同じくファンのイメージを壊さないよう配慮しながら発言し、行動している。ファンはそれを半ば仕事と思いつつ、半ば本気にしている。その境界は曖昧だ。けれどもAVタレントが生身の身体と精神、感情を持つ人間であることは確かだ。「孕ませたい」幻想を押し付けるための道具として生身の人間の身体を扱う。その映像を有料でシェアする。あたかも一途で人間味のある青春映画のように演出し、背徳感を排除する。
すごくハンガーゲームだ。
ハンガーゲームにぜったい出演しないであろう側の人間がこれをやる。そっち側の人間が自分の横に並び、自分の家族や身内になることを想定しないでこれをやる。自分はゲームプレイヤーに好意的で仕事を後押ししてやっている気分でこれをやる。もうほんとにね、「自分を大切にしてください」「人の期待に応える義務はありません」とかって、「自分が人間と思っている人にいいますが」ってことなんだなとげんなりしたよ。
「愛されたいと思ってこの仕事をはじめた」っていう上原亜衣ちゃんだけじゃなく、すべてのAVタレントのみなさんが、自分の身体や将来を犠牲にせずに仕事が出来る業界になってほしいよ。そういうメーカーだったらたくさん宣伝もするしセルも買うわ。