本能といえば自己保存本能と捉えるのが普通だろう。
これはエロスと呼ばれ、エス(性的及び生的衝動)の源とされる。
そこから発生するエネルギーがリビドーということになる。
精神分析の分野では、同時に、死の本能としてタナトスというものも人は抱えていると想定している。
エロスが保存を目指すのに対し、タナトスは破壊を指向する。
人間にとっての破壊とは死を意味する。
しかし、人間が生まれてくる前というのは死と殆んど変わらない状態であったことも事実と言える。
死の世界、無の世界から人間はこの世に生を受ける。
そして、誰もがいずれその生を終える。
死=無という世界から人はやってきて、当たり前のようにその世界に還っていくわけだ。
生の破壊によって死はもたらされるが、客観的に考えると死=無というのは人間にとって非常に安定した世界ということができる。
死の本能とは、実は安定したい衝動である。
と言い換えることができると思う。
これは物質の性質でも同様だろう。
ビルの立ち並ぶ都会は不安定な世界だ。破壊の力で瓦礫に姿を変えたときから安定への時間が刻まれる。
造形的な美を描くコーヒーカップは不安定。大理石の床に叩きつけられ粉々になることで初めて素材への回帰が始まり安定する。
植物の場合で言えば、咲き誇る花ほど不安定なものはなく(その不安定さゆえにはかなさが生まれ、美の要素のひとつを形成している。どんなに堅固に見えるものであっても、不安定を予感させない美はおそらく存在しないだろう。)、DNAとしての種子を残した後に散るときこそが花自身にとっての安定の時だ。
(但し、人間の場合はDNAを残すことは必須とは言えない。超自我的遺産によって代替が可能なので)
生きるということはこのように、破壊的に安定しようとする衝動に対して何とか自己保存を目指そうとする衝動が働き、その両方の力が拮抗していることと考えることが許されるだろう。
死は元来自然なものであり、それは最初から生と組み合わされ同居しているもののはずだ。
そのバランスが生存という形態で現われる。
本能は自我や超自我の抑圧を受ける以前に、その本質において正反対の勢力同士による葛藤にさらされていることになる。
生命というものが無から生じてくる以上、いくら生の本能と死の本能のバランスがとれているといっても、生の本能のほうがやや優勢であることに違いはない。
実際我々は、あたかも惰性であるかのように生きようとしている。
死の本能とは安定を目指すものであるが、安定するためには破壊が必然である。
エス領域の破壊欲は、自我においては(社会的)攻撃欲・権力欲などとなり、超自我領域においては知力となり昇華する性質を元々秘めている。
愛欲による異性への攻撃(性行為はどう考えても攻撃性なしでは成立し得ないだろう)も、破壊欲の昇華型と言ってよい。
誤解を怖れずに言えば、適切な破壊力は相手への愛情表現足りうるわけだ。
つまり、死の本能は昇華することによって生の本能に一部姿を変え、そのことによって生の本能のほうが多少の優位性を保ち、それが生きるという結果に繋がっているということだと思われる。
生が果敢ないものとすると、それはこのような危ういバランスの上に築かれているものだからかもしれない。
リストカットに代表される自傷行為は、死の本能が健全な昇華を阻害された結果ではないかと思う。
これは同時に脆弱な自我の存在を指し示しているように思われる。
死の本能は、本来であれば昇華することにより社会的攻撃力として、自分の生活を守るための闘いや他者への批判精神に昇華していくべき性質を元々含んでいる。
さらに超自我的には知力の発揮に転換される。
精神性はエス(本能)・自我・超自我のバランスの上に成立していると考えることができるから、自我が脆弱であるということは、エスが大きすぎるか超自我が大きすぎるか、あるいはその両方ということになる。
自傷行為が死の本能の昇華不全だという点を考えると、やはり過剰な超自我的抑圧が原因になっていると考えるのが自然だろうと個人的には思う。
最初の超自我は、親の躾(教育)による本能への抑圧によって芽を出す。
この抑圧が不適当(過剰)であった場合、本人の超自我は何でも抑圧することを善だと思い込んでしまう。
そして、理不尽な超自我的抑圧により自我は確立を阻害され、死の本能が社会的攻撃欲・権力欲として対外的に昇華されないまま、ナマの状態でエス領域に停滞する。
死の本能(タナトス)の本質は安定のための破壊である。
自我が脆弱なため対外的に昇華できない以上、内向し自己に対する攻撃に変質するのはむしろ自然の成り行きと言える。
超自我的抑圧が少ない場合は自我は過剰に肥大するから、タナトスは社会的攻撃や権力として力を十分発揮するが、当然行き過ぎて他者を必要以上に、あるいは不必要に傷つける結果になっていることは今の社会を見ればよく理解されるところだ。
そういう人々が超自我的昇華に目覚めることによって多少は住みよい世になるのだろうが、その超自我性に対する社会的要請自体が乏しいという現状であるわけで、パンのみにて生きるにあらずとは言っても題目だけで生きることもまたできないという現実の狭間に現代の私たちは居ることになるのだろう。
自傷行為が止むためには、死の本能をナマのエス領域から自我領域・超自我領域で制御できるようにする必要があると思われる。
自我領域における社会的攻撃欲・権力欲とは端的に言うと、たとえば学業や仕事の本質に対する攻撃を開始すること。
表面的な取り組みではなく、奥の深いところを目指して熱中することが有効だろうと感じる。
超自我的にも大体似ているが、感情ではなく知力を働かせて取り組むこと。
自らの力を発揮できる対象がある(攻撃できる対象がある)ことを、抹香くさい意味ではなく現実問題として感謝できるとさらに良いだろう。
これは誰かのためであったり組織のためでもあるかもしれないが、誰の為でも組織のためでもない自分自身のためであることもまた確かな事実だ。
というより、そのように考える必要がある。
他の局面でも全てに通じることだが、最も大事なのはこのように自分本位で物事を考えることだろう。
自我が脆弱な理由は、殆んどの場合、超自我の理不尽な抑圧にあるからだ。
タナトスは自我領域及び超自我的領域で昇華的に発露されるため、エス領域での自己に対する破壊欲としての役割はお役御免になるものと考える。
2007年07月05日
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