恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

何のつもりで

2016年04月30日 | 日記
「いつも思うが、君は一体どういうつもりで仏教に取り組んでいるんだ?」

「どういうつもりだとは、ご挨拶だな。何を言いたい?」

「君はいつも、自分の抱えている問題に、それも解決不能の問題にアプローチする方法として仏教を使っていると言うが、それじゃあまりに考えが狭くなあいか? いやしくも大乗仏教の徒なら自分ばかりの問題にかたよってはまずいだろう」

「すぐに人の役に立つことをしていないことは認める。しかし、僕が抱えている問題は、僕だけの問題でないことは確信している。僕のアプローチが、誰かの参考になるに違いない。そう思わなければ、坊さんとしてこれをやる意味もなかろう」

「それはそうだが、やっぱり狭い。仏教に限らず、宗教には、様々な儀礼があり、芸術的な表現あり、文化的な意味があり、社会的な救済活動もある。君が日ごろまくし立てている理屈以外に豊かに拡がる領域がある。それを無視するのか?」

「無視してはいない。その領域に関して誰かの需要があり、自分に供給する能力があるなら、自分が応じる必然性があるかぎり、そういう領域にも取り組む。ただし、それは自分のメインテーマではない。その領域は、自分の問題に直接関わらない」

「そういうやり方は聊か不誠実ではないのか?」

「どうしろと言うのだ? 全部一人でできないといけないのか? あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?」

「そう興奮するなよ」

「一人の坊さんにできることは限られる。何をテーマに選ぶかは、当人が決めるしかない。ならば、僕もまた、まずは自分のテーマに少ない能力を投入する。そして、異なるテーマに取り組む他の坊さんに期待するし、できる協力をする」

「それじゃあ訊くが、そういう君は時々依頼があった人と面会して話を聞き、対話しているだろう。あれは君のテーマへのアプローチにどういう意味があるんだ?」

「よく『対話』と言ってくれたな。そうだ、僕は対話している。あれは『お悩み相談』でも昨今流行の『傾聴活動』でもない。僕は自分の話が通じるかどうかを試しているんだ」

「要は実験か?」

「失礼なことを言うな。そもそも、僕は実験すべき『理論』を予め持っていない。ぼくは対話の相手が直面している『問題』を知りたい。というよりも、問題を自分にも相手にも露わにしたいのだ。次にそれが仏教の問題なのかどうか考える」

「で、仏教の問題でなければ切り捨てる」

「馬鹿を言え。問題に応じてアプローチを考える」

「そして?」

「そのアプローチに沿った言葉を語りかけ、相手の反応によって、自分の言葉がどのくらい効いているか判断する」

「それで問題が解決するのか?」

「するわけないだろう。この程度のことで解決するなら、僕に会う必要もない」

「じゃ、何をしているんだ?」

「僕はこのような言葉のやり取り、対話を繰り返して、自分と相手が共有できる、ある存在の場を開きたいのだ」

「こむずかしい話だな」

「簡単に言えば、相手に『この問題の切なさは、自分一人だけのことではない』と感じてもらいたい」

「えっ、そんなことなのか?それだけ?」

「相手にとっては、それ以上のことは起こらない」

「つまらんな」

「そうかもしれない。しかし、中にはこの対話がきっかけで、自分で何かを考えだす人がいるかもしれない。答えのない問いに耐える方法を見つけるかも知れない。いつもそう期待している」

「では、君にとってのメリットは?」

「相手に『通じる』『効く』言葉しか問題に取り組む道具として使えない事実を、こういう対話だけが僕に教え続ているんだ」
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8 コメント

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響きました! (トワ)
2016-04-30 04:48:22
いつもありがとうございます。
すくわれております!
Unknown (浅野)
2016-04-30 06:10:44
南さんの語る内実や調子が、カウンセラーなどと異なるのは、カウンセラーは、生きること前提、生きていくために支援すると思います。しかし、南さんは、仏教を手段とした自らの言葉で、時に生きることを疑い、矛盾に観える事象や現象を矛盾のまま呑み込み、背中を見せてくれます。カウンセラーによる対話は、教科書やマニュアルもあると思いますし。
ある存在の場を開き、相手に通じる、効く言葉しか道具として使えない、とは、そこには自己も他者も存在しない場が開いていると思うんです。
それは、一人ではない、ということを露わにしていると思います。(おばちゃん達は日ごろ井戸端会議である存在の場を開いている?)。
Unknown (Unknown)
2016-04-30 07:15:26
曹洞宗は思想的自由度が高いのか、色んなテーマを持った老師がいらっしゃいますよね。それぞれのカタチで世界にアプローチされてるのは、いいなあ、と思います。

私は今まで随分、南さんの言葉に救われてます。いつか直接お話し出来たらなあ、と思います。
言葉など (senrigan)
2016-04-30 07:41:24
 老師の世の中に対する姿勢が良く分りました。それに付きまして、言葉の問題が最近非常に気になっています。経済のグローバル化伴うものと思われる英語教育の低年齢化の促進です。どうも言語の表層的功利的技術的側面からの考え方に偏りを感じます。言語は文化であるとの根源的な部分を忘れた政策ではないかと危惧します。それともう少し言語学的側面に触れた教育があっても良いのではないかとも思っています。
Unknown (Unknown)
2016-04-30 08:47:45
対話させて頂きたい、という思いばかり。

対話という程のものになるのかも不安で。

構えてしまいそうな自分がいる。

素直に。愚直に。
和尚さんへ (Unknown)
2016-04-30 08:53:32

>あの世の有り難いお話で聴衆を安心させて、見事な儀礼パフォーマンスで気分を盛り上げ、高度な仏像鑑賞に薀蓄を披露して、ボランティアの先頭に立たないと、まともな坊さんと言えないのか?


南さんが、このような和尚さんでなく、真剣に、問題に目を向けられてるいことが、何より有り難いです。

Unknown (4)
2016-04-30 08:59:07

衆生に寄り添う姿勢は、お坊さんのあるべき姿ではないでしょうか。

素晴らしいと思います。

Unknown (Unknown)
2016-04-30 09:37:50
豊かに拡がる領域といっても、それは、「本当の豊さ」とはまた、違うんでしょうね。

和尚さんに確固としたメインテーマがある限り、他のことは余計な領域ですよね。

私の問題が、和尚さんの問題でもあり、
和尚さんの問題が、私の問題であることが、救いに繋がるように思いました。

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