A級戦犯 釈放人、主な名簿
不起訴により釈放
青木一男
安倍源基
阿部信行
天羽英二
鮎川義介
安藤紀三郎
石原広一郎
岩村通世
岸信介
葛生能世
児玉誉士夫
後藤文夫
笹川良一
正力松太郎
須磨弥吉郎
高橋三吉
多田駿
谷正之
寺島健
梨本宮守正王
西尾寿造
本多熊太郎
真崎甚三郎
里見甫
緒方竹虎
(注)A級戦犯に指名されながら、釈放された者は少なくとも70名強存在するが、網羅的な資料が存在せず、その人数は確定できない。wikiより
以下その後人生 あ順
青木 一男(あおき かずお、1889年(明治22年)11月28日 - 1982年(昭和57年)6月25日)は、日本の政治家、官僚。元参議院議員(4期)。大蔵大臣、大東亜大臣を歴任。勲一等旭日大綬章。娘婿に加藤一郎(元東大総長)。小宮山洋子は孫(加藤一郎の娘)。
1948年釈放される。その後は弁護士を務める。追放解除後の1953年、第3回参議院議員通常選挙に自由党から全国区にて立候補し当選する。以後当選4回。
保守合同を経て自由民主党に移り、石井派に属した。参院予算、大蔵、内閣各委員長や、自由民主党参院議員会長を歴任。1960年には千葉三郎・木村篤太郎らと右派グループ「素心会」を結成、親台湾派の立場から日中国交回復に激しく反発した。また高速道路網の構築に情熱を傾け、特に中央自動車道の建設実現に貢献した。1963年には「中央自動車道建設推進委員会」の委員長として、それまでは中央道富士吉田線を延長する南アルプス経由で決まっていたルートを、甲府・諏訪を経由する現在の迂回ルートに変更する際に主導的役割を果たした。
追放解除後は信越放送の顧問を務めていたが1968年に長野県第二の民間放送会社長野放送が設立されると初代の会長に就任。1980年の引退まで務めている。
安倍 源基(あべ げんき、明治27年(1894年)2月14日 - 平成元年(1989年)10月6日)は、日本の内務官僚、弁護士。警視庁特別高等警察部長、警視総監、内務大臣を歴任した。
1894年、山口県熊毛郡曾根村(現平生町)に生まれた。山口県士族安倍半次郎の長男[1]。
山口中学、徳山中学(現山口県立徳山高校)、第六高等学校を経て、1920年、東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に入省。
☆安倍家は江戸時代、毛利家の陪臣だった。半次郎の実家・是非家は大野毛利では筆頭家老の地位にあった。
占領政策の転換で不起訴となり釈放された。その後、岸信介・木村篤太郎らと共に新日本協議会を結成、代表理事に就任した。のちに全国警友会連合会会長、東京都警友会会長を歴任した。従三位勲一等を受賞。
阿部 信行(あべ のぶゆき、1875年(明治8年)11月24日 - 1953年(昭和28年)9月7日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は正二位。勲等は勲一等。
内閣総理大臣(第36代)、外務大臣(第60代)、翼賛政治会総裁(初代)、貴族院議員、朝鮮総督(第10代)などを歴任した。
その後、1942年(昭和17年)4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年(昭和19年)より朝鮮総督。その年10月19日に、陸軍航空隊にいた息子の信弘が、ニコバル諸島付近でのイギリス艦隊との交戦で戦死している。組織的な神風特攻実施より数日前であるが、自発的に体当たり攻撃を行ったと日本側では記録している[2]。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。
戦後は、首相在任中を含め、陸軍の暴走を止められなかった自己を責め続けたといわれており占領が終わった直後に没した。
天羽 英二(あもう えいじ、1887年(明治20年)9月21日 - 1968年(昭和43年)7月31日)は、日本の外交官。特命全権大使を経て、外務次官、内閣情報局総裁を歴任したが、戦後A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されたのち公職追放された(のちに解除)。
後に釈放され、公職追放解除となった。
外交官時代に作成した文書類や日記を集めた『天羽英二日記・資料集』は外交・情報戦略の裏面を記した第一級史料とされる。国立国会図書館憲政資料室には、“天羽英二関係文書”として、戦前から戦後1948年(昭和23年)まで広範にわたる天羽の私文書類が寄贈されている。
長男、天羽大平は日本女子大学教授(心理学)。次男、天羽民雄は外交官、東京大学法学部卒、ジョージタウン大で学び外務省情報文化局長、駐ユーゴスラビア大使、関西等担当特命全権大使、青山学院大学国際政治経済学部教授等を歴任。三男、天羽浩平は東京大学工学部卒、スタンフォード大(工学博士)で学び東芝常務取締役(兼日本オリベッティ副社長)、サンマイクロシステムズ米国副社長兼日本社長・会長等を歴任。
鮎川 義介(あいかわ(本名は「あゆかわ」 よしすけ、 1880年〈明治13年〉11月6日 – 1967年〈昭和42年〉2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。
明治の元勲・井上馨の姪を母とし、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父として、山口県氷川郡大内村(現在の山口市大内地区)に生れた。
旧制山口高等学校を経て、1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学機械科を卒業。芝浦製作所に入社。身分を明かさない条件で日給48銭の職工となる。その後、当時の技術はすべて西欧の模倣であったので、西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働く。
第二次世界大戦終結後、戦犯容疑を受け1945年(昭和20年)12月に逮捕され巣鴨拘置所に20か月拘置されたが、容疑が晴れる。獄中にて日本の復興策を練る。1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に尽力。1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。
安藤 紀三郎(あんどう きさぶろう、1879年2月11日 - 1954年5月10日)は、大日本帝国陸軍の陸軍中将。太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯として逮捕された。
A級戦犯として逮捕され収監。1948年12月、釈放。
石原 広一郎(いしはら ひろいちろう、1890年1月26日 - 1970年4月16日)は、日本の実業家で、国家主義的団体のリーダー、南進論者。二・二六事件で逮捕された経験を持つ。1945年から1948年までA級戦犯容疑で巣鴨に拘禁されるも不起訴で釈放。京都府京都市生まれ。1913年立命館大学法科専門部卒業。
1949年に公職追放処分を解除され、石原産業社長に復帰した。戦後の石原は、戦前に自らが行った政治活動を「自然の法則に反した政治運動であった」と反省。戦争で亡くなった人々の冥福を祈り、日本各地を歩きまわった。最晩年には経営する石原産業が四日市ぜんそくなど公害で糾弾される側に立たされたこともあって、個人的に廃棄物処理の技術開発を支援していた。
創業者の石原広一郎により、1920年に南洋での鉱山開発を目的とした、合資会社南洋鉱業公司を大阪に設立したのが始まり。その関連産業(海運、化学)に従事していたが、終戦により海外拠点を喪失。以降は日本に残った工場を元に化学企業として事業を続けている。
主力製品は二酸化チタンで、そのシェアは日本国内では1位、世界でも6位を占めている(2003年度)。収益の中心は農薬事業であり、自社開発した農薬を世界中で販売している。近年は医薬品にも事業展開している。
岩村 通世(いわむら みちよ、明治16年(1883年)8月21日 - 昭和40年(1965年)3月13日)は、太平洋戦争開戦時の日本の司法大臣。
男爵元農商務大臣岩村通俊の五男。次兄の岩村俊武は海軍中将、従弟の林譲治は衆議院議長。
A級戦犯として逮捕されたが無罪で釈放された。
葛生 能世(くずう よしひさ、1874年(明治7年)7月25日 - 1958年(昭和33年)2月3日)は日本の右翼。昭和右翼の重鎮、頭山満の片腕といわれた人物。葛生能久とも書く。千葉県出身。
1901年(明治34年)、内田良平と右翼団体「黒龍会」を設立。1931年(昭和6年)には大日本生産党の結成に参加。戦前から戦中にかけて大政翼賛会総務をつとめ、1937年(昭和12年)に内田が死ぬと黒龍会の最後の主幹・会長をつとめた。敗戦後A級戦犯に指定されたが不起訴となり釈放された。右翼団体・玄洋社の指導者・頭山満の弟子。くずう よしひさ、1874年(明治7年)7月25日 - 1958年(昭和33年)2月3日)は日本の右翼。昭和右翼の重鎮、頭山満の片腕といわれた人物。葛生能久とも書く。千葉県出身。
1901年(明治34年)、内田良平と右翼団体「黒龍会」を設立。1931年(昭和6年)には大日本生産党の結成に参加。戦前から戦中にかけて大政翼賛会総務をつとめ、1937年(昭和12年)に内田が死ぬと黒龍会の最後の主幹・会長をつとめた。敗戦後A級戦犯に指定されたが不起訴となり釈放された。右翼団体・玄洋社の指導者・頭山満の弟子。
後藤 文夫(ごとう ふみお、1884年(明治17年)3月7日 - 1980年(昭和55年)5月13日)は大正・昭和の官僚・政治家。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後、日本の原子力発電導入に尽力した。
1943年(昭和18年)4月 大政翼賛会副総裁、5月 東条内閣で国務大臣に
1945年(昭和20年)12月 A級戦犯に指名され巣鴨拘置所に拘置
1948年(昭和23年)12月 不起訴により釈放
1953年(昭和28年)4月 参議院議員に当選、一期を務める(大分地方区、緑風会)
1980年(昭和55年)5月 96歳で死去
須磨 弥吉郎(すま やきちろう、1892年(明治25年)9月9日 - 1970年(昭和45年)4月30日)は日本の外交官。スペイン特命全権公使・衆議院議員。
外国語6カ国語に堪能でイギリス、ドイツ等の在外公館に勤務を経て、1927年、在中国大使館二等書記官として赴任。在広東領事館領事等を経て、1932年、在上海日本公使館情報部長となり、対蒋介石政権の情報収集に努める。その後、南京総領事に転じる。
この中国での諜報活動の経験から、情報の一元管理と総合判断の必要性を痛感、帰国後、同じ考えを抱いていた山本五十六海軍次官とともに奔走し、1937年、対外情報収集と対外広報を目的にしたに内閣情報部を設立する。その後、1939年、満州国在勤となり満州国外務局情報部長を務める。
戦後は、こうした諜報活動の成果が米国に警戒され、A級戦犯容疑で逮捕・拘留される。その後、1948年に不起訴処分で釈放。公職追放解除後、1953年、第26回衆議院議員総選挙に秋田1区から改進党公認で立候補し当選。1955年の第27回衆議院議員総選挙で日本民主党から再選。自由民主党に合流し、1958年まで2期務めた。1965年、「勲二等旭日重光章」受章。
須磨はスペイン公使業務の一方で、敗戦までの5年間に2000点に上るスペイン絵画を購入している。その目的や資金原資に関しては謎が多い。須磨が戦犯容疑から釈放された後、スペイン政府から、収集品の一部が返還され「須磨コレクション」と呼ばれた。この「須磨コレクション」の一部は、1970年全国巡回の後78点が長崎県に寄贈され、長崎県立美術博物館を経て、現在約500点が長崎県美術館に所蔵・展示されている。
高橋 三吉(たかはし さんきち、明治15年(1882年)8月24日 - 昭和41年(1966年)6月15日)は、大正から昭和期の日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。岡山県出身で本籍は東京。
軍事参議官時代から、趣味の油絵や書に没頭しつつ、東京港水上消防署設立協賛会会長などの名誉職を与えられて悠々自適な暮らしをしていた。終戦後、満州事変時の海軍首脳としてGHQに逮捕された。伏見宮部長・大角大臣がともに死亡し、左近司政三次官は大角人事で追放された避戦派のため捜査の対象外で、高橋は唯一逮捕拘禁が可能な首脳だったためである。巣鴨では意気消沈して一時期は抑鬱に近い無気力に陥ったが、笹川良一の励ましを受け、褌姿で放歌しつつ踊るなど自らを鼓舞し続け、不起訴釈放となった。
多田 駿(ただ はやお、1882年(明治15年)2月24日 - 1948年(昭和23年)12月18日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市生まれ。旧伊達藩士出身。
仙台陸軍地方幼年学校(1期)、陸軍士官学校(第15期成績順位35番)砲兵科、陸軍大学校(第25期成績順位12番)卒業。
1937年(昭和12年)7月に廬溝橋事件が起き、支那事変が始まった。翌月の8月に参謀本部次長となる(石原完爾作戦部長の推挽)。事変については不拡大派であり、蒋介石との和平交渉継続を唱えていた。1938年(昭和13年)1月15日の連絡会議ではトラウトマン工作の打ち切りを主張する広田弘毅外相に対し、この期を逃せば長期戦争になる恐れがあるため交渉継続を主張した。多田は結論を参謀本部に持ち帰って協議し、参謀本部は政変回避のために不同意であるが反対はしないこととなったため、和平工作は打ち切られた。多田の在任した一年強の期間、参謀本部は不拡大方針でいた。拡大派の陸軍次官東條英機と対立したため、両者更迭となった。
東條が陸軍の実権を握り首相となってからは予備役から呼び戻されることなく、館山に居を構え、帰依する良寛の書を読むなど自適の生活を送り、終戦を迎えることになった。1945年(昭和20年)12月、戦犯容疑者に指名を受けるが、健康上の理由で入所延長が認められたが、1948年(昭和23年)12月に胃ガンにより死去した。死の一週間後に戦犯容疑は解除された。
谷 正之(たに まさゆき 1889年2月9日 - 1962年10月16日)は、昭和の外交官、外務大臣。
A級戦犯被指定者となるが、不起訴となる。
1956年(昭和31年) 駐アメリカ大使。
寺島 健(てらじま けん、1882年(明治15年)9月23日 - 1972年(昭和47年)10月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。東條英機内閣の逓信大臣、鉄道大臣。和歌山県和歌山市出身。
東條内閣で逓信大臣と鉄道大臣に就任するが、これが原因で連合国側から真珠湾攻撃の共同謀議容疑でA級戦争犯罪人に指名され、巣鴨刑務所に一時収監される。後に容疑が晴れ釈放された。
1991年(平成3年)に、旧郵政省本省庁舎内から寺島の逓信大臣在任中に作成された閣僚会議録が発見された。
東條内閣の閣議において開戦が決定された際に、昭和天皇の真意があくまで開戦に反対である事を知る寺島は、この決定に対し気を失いかけんばかりに愕然としたという。
1945年(昭和20年)9月11日- 連合国第1次戦争犯罪人逮捕者指名
12月3日- 貴族院議員辞任
12月4日- 戦争犯罪容疑により身柄拘留
1948年(昭和23年)12月1日- 身柄釈放
1972年(昭和47年)10月30日- 死去 享年90
梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位。大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父。
久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされている。
神宮祭主であったことから国家神道の頭目であるとみなされ、皇族としてただ1人A級戦犯として戦争犯罪人に指定され、巣鴨プリズンに拘置される。本人も身の覚えがないと自覚しており、半年後に釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていたという(犯人の一部は逮捕された)。
実際にも、同じ皇族の元帥でも、統帥部長を長く務め軍部の動向にも大きく影響を及ぼした閑院宮載仁親王や伏見宮博恭王に比べれば、ほとんど軍務や時勢には関与しておらず、「誰も覚えていなかったような過去の人」(秦郁彦)、「間違いで引っ張ったとしか思えない」(半藤一利)と評されている[2]。連合国軍の占領下の1947年10月に皇籍離脱。1951年(昭和26年)元旦に、自邸で逝去。享年78。
西尾 寿造(にしお としぞう、明治14年(1881年)10月31日 − 昭和35年(1960年)10月26日)は、日本の陸軍軍人(最終階級は陸軍大将)。初代支那派遣軍総司令官。
昭和14年(1939年)8月、陸軍大将となり、新設された支那派遣軍総司令官兼第13軍司令官に就任。支那派遣軍は、これまでの中支那派遣軍と北支那方面軍を統括する軍として編成され、中支那派遣軍は廃止された。
昭和16年(1941年)3月、軍事参議官となり、昭和18年(1943年)5月、予備役に編入された。昭和19年(1944年)、東京都長官に就任。
昭和20年(1945年)12月、A級戦犯容疑者として連合国軍最高司令官より出された第3次逮捕命令により逮捕され、昭和23年(1948年)12月まで拘留された。
本多 熊太郎(ほんだ くまたろう 明治7年(1874年)12月8日 - 昭和23年(1948年)12月18日)は、明治・大正・昭和の外交官、太平洋戦争時の中華民国大使、東條内閣の外交顧問。戦後はA級戦犯として逮捕された。
昭和20年(1945年)12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され巣鴨刑務所に収監。その後、病気により釈放。
眞眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、明治9年(1876年)11月27日 - 昭和31年(1956年)8月31日)は、日本の陸軍軍人。陸士9期、陸大19期。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲三等功四級。
皇道派の中心人物の一人。皇道派青年将校が起こした二・二六事件においては、犯人らの主張に沿って収束を図ったが、昭和天皇の強い反発を招き失敗した。事件後に設けられた軍法会議においては無罪となった。真崎の事件への関与の度合いについては意見が分かれている。
弟に海軍少将、衆議院議員の眞崎勝次。長男に外務省、宮内庁の官僚で昭和天皇の通訳を長く務めた真崎秀樹
1956年(昭和31年)8月31日、死去。 葬儀は9月3日午後1時から世田谷の自宅において行われ、葬儀委員長は荒木貞夫が務めた。昭和天皇からは祭祀料が届けられた。
『軍ファシズム運動史』を著した秦郁彦は、真崎については戦前戦後を通して「腹黒い野心家」、「陰険な策謀家」、「青年将校を裏切った卑怯者」との評価が定着しており、「その本質は強きを助け、弱きを虐げる小心翼翼とした官僚型野心家」だったのではと記している
里見 甫(さとみ はじめ、1896年1月22日 - 1965年3月21日)は、ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
元海軍軍医であり、退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。弟に皋(たかし)。妻は相馬ウメ(=里見由美)(1933.9〜1959.6離婚)、湯村治子(1959.7〜)。子は里見泰啓(1959.11誕生)。福岡県立中学修猷館を卒業し、1913年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海の東亜同文書院に入学する。
1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。
1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。千葉県市川市国府台の總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。
緒方 竹虎(おがた たけとら、1888年1月30日 - 1956年1月28日)は、日本のジャーナリスト、政治家。朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。三男の緒方四十郎は元日本銀行理事。
敗戦処理の東久邇宮内閣は、緒方が内閣書記官長と内閣の大番頭を務め、文部大臣に元朝日新聞社論説委員前田多門、総理大臣秘書官に朝日新聞社論説委員太田照彦、緒方の秘書官に朝日新聞記者中村正吾、内閣参与に元朝日新聞記者田村真作と、「朝日内閣」の観を呈した[8]。同年10月に内閣総辞職後、緒方は12月にA級戦犯容疑者指名、1946年8月に公職追放、1947年9月戦犯容疑解除、1951年8月に追放解除となっている。A級戦犯容疑者指名がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった
アメリカ国立公文書館におけるCIA文書の公開により、CIAが緒方政権擁立のために積極的な工作を行っていたことが明らかになっている。
一橋大学名誉教授加藤哲郎、同山本武利、立教大学兼任講師吉田則昭らによると、日本版CIA構想で緒方を高く評価したアメリカCIAは1955年、鳩山総理大臣がソ連との国交回復に意欲的なうえ、ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見て、日本の保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継総理大臣候補に緒方を期待。緒方に「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け、緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど、政治工作を本格化させた。同年10〜12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行し、「反ソ・反鳩山」の旗頭として総理大臣の座に押し上げようとした。
緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報は、アレン・ダレスCIA長官に直接報告された。緒方も1955年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら、1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。だが、自由民主党は4人の総裁代行委員制で発足し、緒方は総裁公選を前に急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、鳩山が初代自由民主党総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣や岸信介に切り替えていく。
更に悪名高い?岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎、
書き入れ、きれない程過去データーがあるのでここでは割愛させて頂きます。
戦後の戦犯釈放人を考察すると大きな繋がりが見えてきます。 満州を中心にした繋がり、皇室を中心にした繋がり、このあたりが戦犯、処刑を免れ戦後の日本を陰から操った黒幕の一翼だったのでしょう。
焼け野原からの高度成長も世界支配を狙う者どものヤラセ(計画的仕掛け)だったことは多くの国民の知るところとなっています。 しかし知らない、興味ない方(無視派)も現段階で1億3千万人中6割位、居るのではないでしょうか? その現実的な?(ちまたではB層と呼ばれている)方に向けた日夜テレビ捏造、誘導報道が垂れ流されています。 現実社会を見渡せば楽しみはテレビを見ることを主にした多くの方がおられます。 その方達は、ネット愛用者がいくら騒いでも聞く耳を持たない以前に、そこに触れる機会すらないのです。
一般国民の総合体でテレビ、大手新聞よりも面白い、価値ある情報網をつくれたなら人々のライフスタイルはあっという間に変わるでしょう。
しかしそれは雁字搦めの日本市場、公家(奉公衆)、五摂家、天皇、宗教、省庁、政治、司法、報道癒着のなかでは出来ることは有り得ません。 一つの例、屈辱的なTPP強制参加も、なぜそうせざるを得ないか? 分かりやすくいうなら日本の根っこは共産主義体制のままだから、これをぶち壊す為に仕掛けられたものなのでしょう。
しかしながら・・・・ネオ満州国とはこれいかに・・・・・・
江戸幕府崩壊、近代化に向けた明治維新、廃藩、置県、憲法発布、日清、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦、と続く人殺し大会の中でこの国の民は何を学んだのだろうか?
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