アピタルのコラム「闘病記おたくの闘病記」の筆者、星野史雄さんが4月19日、大腸がんで亡くなりました。
お通夜に出て、浦和駅に近いビルの6階にある闘病記専門の古書店「パラメディカ」を再訪すると、あのひょうひょうとした語り口で、脱線ばかりの話が聞けなくなったことに、寂しさがこみ上げました。あれだけ闘病記を読み込んで来た人が、患者となって何を感じたのか、どんな闘病記の一節を思い出したのか、もっと発信してほしかったので残念です。
初めてお会いしたのは10年ほど前だったと思います。私自身が精巣腫瘍というがんの闘病体験を手記にし、「がんと向き合って」というタイトルで出版していたことが接点となりました。
2010年には、私が星野さんのお店兼住居兼倉庫にお邪魔し、インタビューをして記事を書きました。
このときの記事の見出しは「さすらいの闘病記おたく」。起床後、本を発送したり、メールを書いたりし、午後はチェーンの新古書店、ブックオフを電車と徒歩で巡って、ひたすら闘病記をさがす――。そんな日々を積み重ねてきた星野さんには、ぴったりの見出しで、本人も気に入ってくれました。
記事の掲載は秋でしたが、その直前に大腸がんが見つかり、「いよいよ自分ががん患者になりました」とこちらを驚愕させる報告が来たことを覚えています。
星野さんが集めた本は3400冊、病気の種類は370に及びました。これを全て読破し、記録し、分類したのです。
記事でも紹介しましたが、予備校職員だった星野さんが闘病記に関心を持ったのは、奥様の光子さんが1993年、乳がんの告知を受けたことがきっかけでした。
「同じ乳がん患者の体験談が知りたい」と言った光子さんのために、あれこれ探しましたが、見つかったのは千葉敦子さんの『乳ガンなんかに負けられない』『「死への準備」日記』など。
千葉さんは、身の内にがん細胞が増殖している現実を直視し、病や現代医療、社会の偏見に、敢然と立ち向かった硬骨のジャーナリストです。その戦う姿勢は多くの人を励ましましたが、「専業主婦で、ミニチュアダックスフントの散歩が趣味だったのんびり屋の妻には合わなかった」と星野さんは言っていました。
この経験は、闘病記に目を向ける契機になっただけでなく、「同じ病気や体験でも、人によって受け止めて向き合う方法や、苦しみや慰めの感じ方は異なる」ということを常に忘れないようにする背景となったようです。
それもあって、星野さんは常々、「同じ病気の闘病記は3冊読むと良い。全体像が見えてくるから」と言っていました。
コラムで伝えたかったことの一つは、この「個別性」だと思います。平たくいえば「人はそれぞれだし、いろんな人がいる」といったところでしょうか。
例えば、「ステージⅣを、ひとくくりに末期扱いしない方が良い」と書いていました。
また、文章のプロでない人が、闘病中のささいなことや、こだわったり気になったりしたことをとりとめなく書くことも、「読む人によっては、そういう細かい部分に共感したりするから、あった方が良い」と言っていました。
一方で、患者同士のふれ合いや、心を通わせ合うことの意義も、認識していました。本であれブログであれ、体験者本人がつづった文章を介して、読む側の孤独感がやわらぐことがあると言っていました。「いろんな闘病記があり、どれも、何か学ぶところがある」という星野さんの言葉が印象的です。
ただ、大前提として、患者やその家族がさまざまな闘病記と出会う手立てが必要です。
本の分類に「闘病記」というジャンルはなく、タイトルに必ずしも病名が書いてあるわけではありません。星野さんが探し始めた当初から、自費出版や絶版が多かったので、探すのは相当に困難でした。インターネットも普及していない時代。電車と徒歩で、雪の日も正月も、関東一円のブックオフを回って闘病記を集め続けたのは、遠回りのようでこの方法が最も良いと見極めたからだったと言います。
そのうち、「宝探しのような魅力を感じるようになった」そうです。「もう少し、足をのばせば、何か見つかるのではないか」「今日こそ、新しい本や探していたものと出会えるのではないか」という期待を胸に、いそいそと出かけていったのです。
星野さんの功績は、集めた本を読み込み、病気別、部位別に分類してリストを公開したことです。多くの人が、その労作のリストを参考にしましたし、電話やメールで「こういう病気の本がほしい」と星野さんにお願いする人も増えていきました。尋ねられれば、その人に合いそうな本を一生懸命に選んで提供しました。その過程で、メールのやりとりが続いたり、長電話になったりしました。
「そんなんですから相変わらず儲からないですよ。父親から継いだ雑居ビルの賃料や大学の講師料で、パラメディカの赤字を埋めながら暮らしているようなもの」と苦笑いしていました。
「でも、闘病記の案内人のようなことは出来たのかもしれませんね」と照れながら話していたのを思い出します。コンシェルジュのように、困った人の水先案内をしていました。
星野さんの記憶に最も鮮烈に刻まれた1冊は、レックリングハウゼン病という難病をわずらう患者たちを紹介したものでした。さまざまなインタビューや原稿で、この、『明日香ちゃん美しく――稀少難病と闘う患者たちの記録』という本について語っており、私と話しているときも何度となく話題にしていました。この病気は、体表に小さな腫瘤がたくさん生じる場合があり、外観が変わってしまって、外を歩くのを避けるようなケースがあるそうです。その苦しみを知り、立ち読みしていて涙が出たと、かつて書いていました。
「症例数が少ない病気の闘病記や患者の記録こそ、切実に必要としている人がいるかもしれないと思うんです。同じ病気の仲間を見つけることが難しく、一方で、ほかの人の体験を参考にしたいという気持ちも大きいはずだから」と言っていました。
闘病記は、他人の心を知り、社会のあり方を考え、自分の生き方の指針を得る手段になる、という星野さんのメッセージでもあったと感じます。
星野さんが亡くなるひと月半ほど前、お会いして話す機会がありました。
たくさんの闘病記を読んできた星野さん自身ががん患者になって、どう感じたかという話題になりました。「やはり、いろいろな人の体験を読んできたことは、参考になりましたね。大腸がんの治療で副作用や予後がどうなっていくかも、だいたい分かりますから」と言っていました。実際、星野さんは自分の病気や治療の経過、副作用をかなり客観的に眺めているような様子でした。
「ただ、死に方については、なかなか患者の想像や理想通りにはいかないものでしょう」と言葉を継ぎました。
「ごほごほっと咳をし、口にあてていた手に血が付いているのを見て意識が遠くなってあの世へ」というのが、死のイメージだったそうですが、「なかなか思うようにいかない。これまで何度も、もうだめかなと思ったけれど、まだ生きている。デスエデュケーションと言いますが、死について深く考える内容も、闘病記にはたくさん出てきて、それは大事なことです。でも、最期のことは、誰しも実はよく分からない」と笑って話していました。
「理想の死に方は?」と尋ねると、「どこかのブックオフで、長く探していた本を偶然に見つけて、うおおっと喜びの声をあげたとたんに、ころっと」という答えが返ってきました。
実際には、病院で緩和ケアを受けたあとに、親族の家で過ごし、静かに息ひきとったそうです。
結びに、2010年のインタビューで話していた印象的な言葉をお伝えします。
「乳がんの闘病記は、私には特別な意味を持つものです。現在までに169冊を目にしたことになりますが、手に入れるたびに、うちの奥さんが読んだらどう思うだろう、と想像します。(元NHKアナウンサーで、乳がんの手記を出した)絵門ゆう子さんは、性格的に、大人しいようで頑固なところがそっくり。読ませたかった、と思いました。パラメディカは、うちの奥さんに読ませたかった闘病記を探し続けた15年でした」
その、最愛の奥様と、子どものように溺愛したという愛犬サリーと、今ごろは再会して、尽きぬ雑談を楽しんでいるのかもしれません。
<アピタル:闘病記おたくの闘病記・ダイアリー>
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